身の周りに大変な状況が続いてしまうと、身体への負担は計り知れないものになります。
心がキュウキュウになると、全身の筋肉や細胞もキュウキュウになります。
エネルギーの滞りは、酸欠と同じような息苦しい感覚となり、身体もずっしりと重くなります。
一ヶ月前の話になりますが、年末に久々の稽古に行った時のことです。
最初は、統一体になっているかどうかのチェックから始まりました。
ここでいう「統一」というのは「心と身体の統一」ではなく「天地と自分との統一」のことです。
稽古に行けてなかったということもあって、以前は当たり前に感じられた感覚が全く蘇りませんでした。
まるで石像のようなガチガチの身体を前に、悪戦苦闘でした。
感覚というのは頭ではなく身体の方でキャッチするものですから、肝心の身体が岩のようになってしまっていると
感覚に耳を澄まそうにも何も感じ取ることができません。
テクニック的なことを駆使しても、やればやるほど心の混沌は増すばかりで、感覚はますます遠ざかってしまいます。
そんな状態では、たとえ不動の姿勢が成ったとしても、氣は小さいままで開放感のカケラもありません。
そんな時、尊敬する師に、ほんの少しだけスッと正して貰いました。
その瞬間、表現しようもない感覚が全身に走りました。
喩えて言うならば、腕をキツく縛ったヒモをシュッと外した時に一気に血が流れ出すような、そんな感覚でした。
それまで全身すべてがカラッカラに渇ききってコンクリートのように固まっていたのが、髪の毛の先から足のつま先
まで、毛細血管の隅から隅へ、身体中に一斉にサーッと流れたような感じです。
いかに、それまで天地の氣が枯渇しきっていたかということです。
まさかそれほどまでにカラッカラに枯れていたとは思いもしませんでした。
全身に一気に流れたそれは、まさに「命そのもの」でした。
つまり、その瞬間まで私の体は、命の枯れた瀕死の状態だったにも関わらず、不満も悲鳴もあげずに日々を送らせて
くれていたということです。
ツラい現実を受け入れたつもりで過ごして居ましたが、身体の方は過去からの傷を背負い続けていたのでした。
その事実は本当にショックであり、また悲しみであり、申し訳なさであり、そしてその時その瞬間の喜びでもあり、
思わず涙がこぼれそうになりました。
私たちは酸素や食べ物といった栄養だけで生きているのではなく、天地のいのちによって生かされています。
「いのち」が枯渇してしまうと、身体も心も病んでいきます。
「いのち」とは、この天地に満ち溢れるエネルギーであり、私たちの本当の姿そのものです。
例えば、赤ちゃんはそれが全身から溢れ返っています。
天地自然な状態のままにあるため、そこには何一つ壁はなく、天地と同化し、天地そのものとなっています。
そこへ大人が近づけば、その心がそのまま赤児の透明な心に映ります。
不安は不安となって映り、喜びは喜びとなって映ります。
それは赤児だけでなく、動物もまた同じことでしょう。
天地との一体というのは、形やテクニックではなく、感覚を追うことでそのようになるものです。
言い換えれば、頭や理屈で追って成るものではなく、全体の感覚を追うことによって成るものです。
自らが枯れきっている時に、潤った感覚をキャッチするのは非常に困難なことです。
自分にわずかでも潤いがあれば、そこへ耳を澄ませることでそれを呼び水にすることができます。
わずかな潤いすら無い時は、何を取っ掛かりとすればいいのか呆然としてしまいます。
スッカラカンに枯れてしまった時には、自分だけで頑張ろうとしても限界があります。
それは修行不足とか、鍛錬を怠ったとか、そういう次元の話ではなく、ただ客観的事実に過ぎません。
そうした時には、自力で何とかしようとせずに、何でも頼ることが大切です。
では、「いのち」の潤いが枯れてしまった時、それを呼び戻すにはどうすればいいのでしょうか。
一つには、まず「万物と関わり合う」というのがあります。
自分以外の人や動物、自然、物事と関わることは天地との交流そのものであり、そこで生じる様々な感情が潤い
となって「いのち」の呼び水となるからです。
赤児は外界の様々なものと接して関係を作ろうとします。
そうして、よく笑います。
赤ん坊の笑顔に癒しと安らぎを感じるのは、そこに私たちの故郷である天地宇宙の温もりを見るからです。
他人というのは、自分から見れば外宇宙にあたります。
その外宇宙と交流することで、私たちの孤立という幻想、天地からの隔離は薄まります。
もともと天地宇宙とは、幸せな感覚に満ち満ちたものです。
内の世界だけで不完全燃焼したり空焚きしたりしていても、幸せは訪れません。
外と交流することで、天地宇宙の感覚が内に流れ込んでくるようになります。
また「いのち」の潤いを呼び戻すには、美しい景色、素晴らしい作品、感動的な出来事、そうした「真善美」に触れる
ことも有効かもしれません。
そうしたものに触れると、喜びが湧き上がってきます。
喜びというのは、私たちがそれを生み出しているのではなく、天地宇宙と繋がることでそれが溢れ出している
状態です。
何かの作品に触れるということに限らず、山登りやハイキングに行ったり、海や川に遊びに行ったり、あるいは
スポーツ観戦をして感動したり、あるいは静かな古刹で坐禅を組んだりと、「真善美」はあらゆるところにあります。
どこかに無いものかと探すようなものではなく、フト心が惹かれたものが、それなのです。
そして最も手軽な方法は、「笑い」です。
「笑い」は、私たちの心の壁を瞬時に無くさせます。
腹の底から笑った瞬間、私たちは透明になっています。
そこに、あれこれ考えたりする自我は存在せず、素っ裸で天地に身を投じています。
囚われやこだわりを突き抜けて、瞬時に天地と一体となっています。
体力や気力の無い時は、馬鹿笑いせずとも、ただ微笑むだけでもそのような状態になれるでしょう。
神話の「天の岩戸開き」の場面で行われていたことは、人々の宴、交流、そして最後の決め手が「笑い」でした。
「笑い」は、私たちに与えられた最強のアイテムと言えます。
「いのち」が枯れかけた時、身体は重く、具合も悪くなり、何をするにも億劫になってしまいます。
しかしそんな時こそ、大自然へと繰り出したり、「真善美」に触れたり、しがらみのない人たちと語り合ったり、
漫才や落語でバカ笑いしたりしてみてはいかがでしょうか。
そうしたことで細胞の内から「いのち」が湧き上がり、枯れた土地が水を吸うように、喜びが全身に染み渡っていく
ことでしょう。
そして実は「いのち」を呼び戻すものとして挙げたものは、どれも子供が好んで行なうことばかりです。
子どもは、大自然を走りまわり、動植物や昆虫と無邪気に触れ合います。
また、一人でいるよりもいつも誰かと関わろうとして、誰とでもすぐ友達になります。
そして心の底からキャッキャッと喜びを湧き上がらせ、いつもバカげたことや悪ふざけでゲラゲラと笑っています。
子どもたちはただ「いのち」に触れるために、ごく自然にやりたいようにやっているだけです。
そこには理由や目的など何一つありません。
私たちは、歳を重ねるごとに、大人という枠に固まっていきます。
節度は大事ですが、童心はもっと大事です。
もう少しラクに、アホになってみると、芯の底から喜びが溢れ出ることでしょう。
同窓会や同期会に行くと、瞬時にあの頃の自分に戻り、そして事実あの頃の若々しいエネルギーが蘇ってきます。
それは幻想でもなければ、思い込みでもありません。
決してハイテンションの勘違いなどではなく、それが私たちの本当の姿なのです。
私たちは誰でも、今この瞬間、若さを蘇らせられます。
ただ単にそれを望んでいなかっただけ、年相応の落ち着きやくたびれ具合こそを望んでいたというだけなのです。
もちろん、どちらが良いも悪いもありません。
どちらが好みかというだけのことです。
私たちに流れ込む、この「いのち」に変わりはなく、ただその発露のさせ方に違いがあるだけです。
疲れている時、元気な時、悲しい時、嬉しい時、どれもこれも「いのち」の輝きに違いはありません。
ただ、どうしてもシンドい時には、子供の頃にやっていたようにやってみるだけです。
何か面白そうな人と関わってみるのも、真善美に触れてみるのも、あるいはおバカなことで大笑いしてみるのも、
どれもこれもアリでしょう。
いのちの潤いは、誰にでも、今すぐに蘇ります。
私たちは、みんな若い。
枯れるには、まだまだ早すぎるのです。
心がキュウキュウになると、全身の筋肉や細胞もキュウキュウになります。
エネルギーの滞りは、酸欠と同じような息苦しい感覚となり、身体もずっしりと重くなります。
一ヶ月前の話になりますが、年末に久々の稽古に行った時のことです。
最初は、統一体になっているかどうかのチェックから始まりました。
ここでいう「統一」というのは「心と身体の統一」ではなく「天地と自分との統一」のことです。
稽古に行けてなかったということもあって、以前は当たり前に感じられた感覚が全く蘇りませんでした。
まるで石像のようなガチガチの身体を前に、悪戦苦闘でした。
感覚というのは頭ではなく身体の方でキャッチするものですから、肝心の身体が岩のようになってしまっていると
感覚に耳を澄まそうにも何も感じ取ることができません。
テクニック的なことを駆使しても、やればやるほど心の混沌は増すばかりで、感覚はますます遠ざかってしまいます。
そんな状態では、たとえ不動の姿勢が成ったとしても、氣は小さいままで開放感のカケラもありません。
そんな時、尊敬する師に、ほんの少しだけスッと正して貰いました。
その瞬間、表現しようもない感覚が全身に走りました。
喩えて言うならば、腕をキツく縛ったヒモをシュッと外した時に一気に血が流れ出すような、そんな感覚でした。
それまで全身すべてがカラッカラに渇ききってコンクリートのように固まっていたのが、髪の毛の先から足のつま先
まで、毛細血管の隅から隅へ、身体中に一斉にサーッと流れたような感じです。
いかに、それまで天地の氣が枯渇しきっていたかということです。
まさかそれほどまでにカラッカラに枯れていたとは思いもしませんでした。
全身に一気に流れたそれは、まさに「命そのもの」でした。
つまり、その瞬間まで私の体は、命の枯れた瀕死の状態だったにも関わらず、不満も悲鳴もあげずに日々を送らせて
くれていたということです。
ツラい現実を受け入れたつもりで過ごして居ましたが、身体の方は過去からの傷を背負い続けていたのでした。
その事実は本当にショックであり、また悲しみであり、申し訳なさであり、そしてその時その瞬間の喜びでもあり、
思わず涙がこぼれそうになりました。
私たちは酸素や食べ物といった栄養だけで生きているのではなく、天地のいのちによって生かされています。
「いのち」が枯渇してしまうと、身体も心も病んでいきます。
「いのち」とは、この天地に満ち溢れるエネルギーであり、私たちの本当の姿そのものです。
例えば、赤ちゃんはそれが全身から溢れ返っています。
天地自然な状態のままにあるため、そこには何一つ壁はなく、天地と同化し、天地そのものとなっています。
そこへ大人が近づけば、その心がそのまま赤児の透明な心に映ります。
不安は不安となって映り、喜びは喜びとなって映ります。
それは赤児だけでなく、動物もまた同じことでしょう。
天地との一体というのは、形やテクニックではなく、感覚を追うことでそのようになるものです。
言い換えれば、頭や理屈で追って成るものではなく、全体の感覚を追うことによって成るものです。
自らが枯れきっている時に、潤った感覚をキャッチするのは非常に困難なことです。
自分にわずかでも潤いがあれば、そこへ耳を澄ませることでそれを呼び水にすることができます。
わずかな潤いすら無い時は、何を取っ掛かりとすればいいのか呆然としてしまいます。
スッカラカンに枯れてしまった時には、自分だけで頑張ろうとしても限界があります。
それは修行不足とか、鍛錬を怠ったとか、そういう次元の話ではなく、ただ客観的事実に過ぎません。
そうした時には、自力で何とかしようとせずに、何でも頼ることが大切です。
では、「いのち」の潤いが枯れてしまった時、それを呼び戻すにはどうすればいいのでしょうか。
一つには、まず「万物と関わり合う」というのがあります。
自分以外の人や動物、自然、物事と関わることは天地との交流そのものであり、そこで生じる様々な感情が潤い
となって「いのち」の呼び水となるからです。
赤児は外界の様々なものと接して関係を作ろうとします。
そうして、よく笑います。
赤ん坊の笑顔に癒しと安らぎを感じるのは、そこに私たちの故郷である天地宇宙の温もりを見るからです。
他人というのは、自分から見れば外宇宙にあたります。
その外宇宙と交流することで、私たちの孤立という幻想、天地からの隔離は薄まります。
もともと天地宇宙とは、幸せな感覚に満ち満ちたものです。
内の世界だけで不完全燃焼したり空焚きしたりしていても、幸せは訪れません。
外と交流することで、天地宇宙の感覚が内に流れ込んでくるようになります。
また「いのち」の潤いを呼び戻すには、美しい景色、素晴らしい作品、感動的な出来事、そうした「真善美」に触れる
ことも有効かもしれません。
そうしたものに触れると、喜びが湧き上がってきます。
喜びというのは、私たちがそれを生み出しているのではなく、天地宇宙と繋がることでそれが溢れ出している
状態です。
何かの作品に触れるということに限らず、山登りやハイキングに行ったり、海や川に遊びに行ったり、あるいは
スポーツ観戦をして感動したり、あるいは静かな古刹で坐禅を組んだりと、「真善美」はあらゆるところにあります。
どこかに無いものかと探すようなものではなく、フト心が惹かれたものが、それなのです。
そして最も手軽な方法は、「笑い」です。
「笑い」は、私たちの心の壁を瞬時に無くさせます。
腹の底から笑った瞬間、私たちは透明になっています。
そこに、あれこれ考えたりする自我は存在せず、素っ裸で天地に身を投じています。
囚われやこだわりを突き抜けて、瞬時に天地と一体となっています。
体力や気力の無い時は、馬鹿笑いせずとも、ただ微笑むだけでもそのような状態になれるでしょう。
神話の「天の岩戸開き」の場面で行われていたことは、人々の宴、交流、そして最後の決め手が「笑い」でした。
「笑い」は、私たちに与えられた最強のアイテムと言えます。
「いのち」が枯れかけた時、身体は重く、具合も悪くなり、何をするにも億劫になってしまいます。
しかしそんな時こそ、大自然へと繰り出したり、「真善美」に触れたり、しがらみのない人たちと語り合ったり、
漫才や落語でバカ笑いしたりしてみてはいかがでしょうか。
そうしたことで細胞の内から「いのち」が湧き上がり、枯れた土地が水を吸うように、喜びが全身に染み渡っていく
ことでしょう。
そして実は「いのち」を呼び戻すものとして挙げたものは、どれも子供が好んで行なうことばかりです。
子どもは、大自然を走りまわり、動植物や昆虫と無邪気に触れ合います。
また、一人でいるよりもいつも誰かと関わろうとして、誰とでもすぐ友達になります。
そして心の底からキャッキャッと喜びを湧き上がらせ、いつもバカげたことや悪ふざけでゲラゲラと笑っています。
子どもたちはただ「いのち」に触れるために、ごく自然にやりたいようにやっているだけです。
そこには理由や目的など何一つありません。
私たちは、歳を重ねるごとに、大人という枠に固まっていきます。
節度は大事ですが、童心はもっと大事です。
もう少しラクに、アホになってみると、芯の底から喜びが溢れ出ることでしょう。
同窓会や同期会に行くと、瞬時にあの頃の自分に戻り、そして事実あの頃の若々しいエネルギーが蘇ってきます。
それは幻想でもなければ、思い込みでもありません。
決してハイテンションの勘違いなどではなく、それが私たちの本当の姿なのです。
私たちは誰でも、今この瞬間、若さを蘇らせられます。
ただ単にそれを望んでいなかっただけ、年相応の落ち着きやくたびれ具合こそを望んでいたというだけなのです。
もちろん、どちらが良いも悪いもありません。
どちらが好みかというだけのことです。
私たちに流れ込む、この「いのち」に変わりはなく、ただその発露のさせ方に違いがあるだけです。
疲れている時、元気な時、悲しい時、嬉しい時、どれもこれも「いのち」の輝きに違いはありません。
ただ、どうしてもシンドい時には、子供の頃にやっていたようにやってみるだけです。
何か面白そうな人と関わってみるのも、真善美に触れてみるのも、あるいはおバカなことで大笑いしてみるのも、
どれもこれもアリでしょう。
いのちの潤いは、誰にでも、今すぐに蘇ります。
私たちは、みんな若い。
枯れるには、まだまだ早すぎるのです。