これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

私たちは「いのち」に生かされています

2016-01-28 20:12:15 | 体をラクに
身の周りに大変な状況が続いてしまうと、身体への負担は計り知れないものになります。

心がキュウキュウになると、全身の筋肉や細胞もキュウキュウになります。
エネルギーの滞りは、酸欠と同じような息苦しい感覚となり、身体もずっしりと重くなります。

一ヶ月前の話になりますが、年末に久々の稽古に行った時のことです。

最初は、統一体になっているかどうかのチェックから始まりました。
ここでいう「統一」というのは「心と身体の統一」ではなく「天地と自分との統一」のことです。

稽古に行けてなかったということもあって、以前は当たり前に感じられた感覚が全く蘇りませんでした。
まるで石像のようなガチガチの身体を前に、悪戦苦闘でした。

感覚というのは頭ではなく身体の方でキャッチするものですから、肝心の身体が岩のようになってしまっていると
感覚に耳を澄まそうにも何も感じ取ることができません。
テクニック的なことを駆使しても、やればやるほど心の混沌は増すばかりで、感覚はますます遠ざかってしまいます。
そんな状態では、たとえ不動の姿勢が成ったとしても、氣は小さいままで開放感のカケラもありません。

そんな時、尊敬する師に、ほんの少しだけスッと正して貰いました。
その瞬間、表現しようもない感覚が全身に走りました。

喩えて言うならば、腕をキツく縛ったヒモをシュッと外した時に一気に血が流れ出すような、そんな感覚でした。
それまで全身すべてがカラッカラに渇ききってコンクリートのように固まっていたのが、髪の毛の先から足のつま先
まで、毛細血管の隅から隅へ、身体中に一斉にサーッと流れたような感じです。

いかに、それまで天地の氣が枯渇しきっていたかということです。
まさかそれほどまでにカラッカラに枯れていたとは思いもしませんでした。

全身に一気に流れたそれは、まさに「命そのもの」でした。

つまり、その瞬間まで私の体は、命の枯れた瀕死の状態だったにも関わらず、不満も悲鳴もあげずに日々を送らせて
くれていたということです。
ツラい現実を受け入れたつもりで過ごして居ましたが、身体の方は過去からの傷を背負い続けていたのでした。

その事実は本当にショックであり、また悲しみであり、申し訳なさであり、そしてその時その瞬間の喜びでもあり、
思わず涙がこぼれそうになりました。

私たちは酸素や食べ物といった栄養だけで生きているのではなく、天地のいのちによって生かされています。
「いのち」が枯渇してしまうと、身体も心も病んでいきます。

「いのち」とは、この天地に満ち溢れるエネルギーであり、私たちの本当の姿そのものです。

例えば、赤ちゃんはそれが全身から溢れ返っています。
天地自然な状態のままにあるため、そこには何一つ壁はなく、天地と同化し、天地そのものとなっています。

そこへ大人が近づけば、その心がそのまま赤児の透明な心に映ります。
不安は不安となって映り、喜びは喜びとなって映ります。
それは赤児だけでなく、動物もまた同じことでしょう。

天地との一体というのは、形やテクニックではなく、感覚を追うことでそのようになるものです。
言い換えれば、頭や理屈で追って成るものではなく、全体の感覚を追うことによって成るものです。

自らが枯れきっている時に、潤った感覚をキャッチするのは非常に困難なことです。
自分にわずかでも潤いがあれば、そこへ耳を澄ませることでそれを呼び水にすることができます。
わずかな潤いすら無い時は、何を取っ掛かりとすればいいのか呆然としてしまいます。

スッカラカンに枯れてしまった時には、自分だけで頑張ろうとしても限界があります。
それは修行不足とか、鍛錬を怠ったとか、そういう次元の話ではなく、ただ客観的事実に過ぎません。
そうした時には、自力で何とかしようとせずに、何でも頼ることが大切です。


では、「いのち」の潤いが枯れてしまった時、それを呼び戻すにはどうすればいいのでしょうか。


一つには、まず「万物と関わり合う」というのがあります。
自分以外の人や動物、自然、物事と関わることは天地との交流そのものであり、そこで生じる様々な感情が潤い
となって「いのち」の呼び水となるからです。

赤児は外界の様々なものと接して関係を作ろうとします。
そうして、よく笑います。
赤ん坊の笑顔に癒しと安らぎを感じるのは、そこに私たちの故郷である天地宇宙の温もりを見るからです。

他人というのは、自分から見れば外宇宙にあたります。
その外宇宙と交流することで、私たちの孤立という幻想、天地からの隔離は薄まります。

もともと天地宇宙とは、幸せな感覚に満ち満ちたものです。
内の世界だけで不完全燃焼したり空焚きしたりしていても、幸せは訪れません。
外と交流することで、天地宇宙の感覚が内に流れ込んでくるようになります。


また「いのち」の潤いを呼び戻すには、美しい景色、素晴らしい作品、感動的な出来事、そうした「真善美」に触れる
ことも有効かもしれません。

そうしたものに触れると、喜びが湧き上がってきます。
喜びというのは、私たちがそれを生み出しているのではなく、天地宇宙と繋がることでそれが溢れ出している
状態です。

何かの作品に触れるということに限らず、山登りやハイキングに行ったり、海や川に遊びに行ったり、あるいは
スポーツ観戦をして感動したり、あるいは静かな古刹で坐禅を組んだりと、「真善美」はあらゆるところにあります。

どこかに無いものかと探すようなものではなく、フト心が惹かれたものが、それなのです。


そして最も手軽な方法は、「笑い」です。

「笑い」は、私たちの心の壁を瞬時に無くさせます。
腹の底から笑った瞬間、私たちは透明になっています。
そこに、あれこれ考えたりする自我は存在せず、素っ裸で天地に身を投じています。
囚われやこだわりを突き抜けて、瞬時に天地と一体となっています。
体力や気力の無い時は、馬鹿笑いせずとも、ただ微笑むだけでもそのような状態になれるでしょう。

神話の「天の岩戸開き」の場面で行われていたことは、人々の宴、交流、そして最後の決め手が「笑い」でした。
「笑い」は、私たちに与えられた最強のアイテムと言えます。


「いのち」が枯れかけた時、身体は重く、具合も悪くなり、何をするにも億劫になってしまいます。
しかしそんな時こそ、大自然へと繰り出したり、「真善美」に触れたり、しがらみのない人たちと語り合ったり、
漫才や落語でバカ笑いしたりしてみてはいかがでしょうか。

そうしたことで細胞の内から「いのち」が湧き上がり、枯れた土地が水を吸うように、喜びが全身に染み渡っていく
ことでしょう。

そして実は「いのち」を呼び戻すものとして挙げたものは、どれも子供が好んで行なうことばかりです。

子どもは、大自然を走りまわり、動植物や昆虫と無邪気に触れ合います。
また、一人でいるよりもいつも誰かと関わろうとして、誰とでもすぐ友達になります。
そして心の底からキャッキャッと喜びを湧き上がらせ、いつもバカげたことや悪ふざけでゲラゲラと笑っています。

子どもたちはただ「いのち」に触れるために、ごく自然にやりたいようにやっているだけです。
そこには理由や目的など何一つありません。

私たちは、歳を重ねるごとに、大人という枠に固まっていきます。
節度は大事ですが、童心はもっと大事です。
もう少しラクに、アホになってみると、芯の底から喜びが溢れ出ることでしょう。

同窓会や同期会に行くと、瞬時にあの頃の自分に戻り、そして事実あの頃の若々しいエネルギーが蘇ってきます。
それは幻想でもなければ、思い込みでもありません。
決してハイテンションの勘違いなどではなく、それが私たちの本当の姿なのです。

私たちは誰でも、今この瞬間、若さを蘇らせられます。

ただ単にそれを望んでいなかっただけ、年相応の落ち着きやくたびれ具合こそを望んでいたというだけなのです。

もちろん、どちらが良いも悪いもありません。
どちらが好みかというだけのことです。

私たちに流れ込む、この「いのち」に変わりはなく、ただその発露のさせ方に違いがあるだけです。

疲れている時、元気な時、悲しい時、嬉しい時、どれもこれも「いのち」の輝きに違いはありません。

ただ、どうしてもシンドい時には、子供の頃にやっていたようにやってみるだけです。

何か面白そうな人と関わってみるのも、真善美に触れてみるのも、あるいはおバカなことで大笑いしてみるのも、
どれもこれもアリでしょう。

いのちの潤いは、誰にでも、今すぐに蘇ります。

私たちは、みんな若い。

枯れるには、まだまだ早すぎるのです。




にほんブログ村哲学・思想ブログ 自然哲学へ

一年の計は大晦日にあり

2015-12-31 15:47:07 | 体をラクに
今年もいよいよ今日で最後となりました。

この一年、皆様も色々なことがあったと思いますが、今この時を迎えられたということがオールOKの証です。
一年の出来事に対して、また御縁のあった人たちに対して、そして何より自分自身に対して、素直に感謝したいところです。

さて、今日は一年の総ざらいの日、大祓いの日です。

大祓いをする時は形代で身体を撫でていきますが、それは身体の掃除というよりも、心の大掃除と言った方がいいかも
しれません。

身体というのは、普段はその存在を全く意識させません。
病気や怪我をした時になって初めて、その部分の存在を私たちはハッキリと認識するようになります。

天地宇宙のエネルギーが滞ると、身体は衰弱していきます。
エネルギーが滞るというのは、心が詰まっている状態とも言えます。
ということは、病気や怪我は、心の詰まっていることに意識を向けさせるためのシグナルであるとも言えます。

病気というのは、具合の悪くなった部位の流れが詰まっている場合もあれば、心の囚われやシコリ、悩みやストレスなど
が、結果的に肉体の不調として顕現してしまう場合もあります。

夏越しの時にも書きましたが、大祓いでは人型の形代に穢れを移し(映し)ます。

その時、私たちは普段は意識をしない身体の各所一つ一つにハッキリと心を向けます。
表面だけではなく、五臓六腑の一つ一つにも瞬間的に心が向きます。

心を向けるということは、天地のエネルギーがそこへ通るということになります。

すると、病気や怪我をしなくともその部位へ心を向けることになりますので「病気や怪我が発現しない」ということへ
繋がっていきます。

詰まっていたところを未然に通してしまうことによって、要は先物買いをしているわけです。

そして、それと同じように、この一年のあいだに知らず知らずのうちに詰まらしてしまった人間関係、あるいは天地との
交流も、そこへ心を向けることで全てにエネルギーが流れてリセットされることになります。

大晦日というと、何とは無しに神妙というか、特別な心持ちになります。

「何はともあれ、一年ありがとうございました」

そのように、今日は照れることなく、思える日ではないでしょうか。

私たちは、死ぬ間際にその一生を振り返り、そして様々な人、様々な出来事に心を通すことで、すべてを清算します。
そうやってオールOKになるわけです。

一年の最後というのはまさにその縮小版だと言えます。
やらかしてしまったこと、嫌な思いをしたこと、申し訳ない思い、怒りや悲しみ…
そうしたもろもろ全てに対して、一年の最後の今日にサーッと心を通すことで、みんなOKになるのです。

大祓いというのは、大掃除というよりも、心をスッキリ爽やかにするものです。

どうぞ、この一年を振り返って、頭にポンポーンと浮かんでくる様々なことに心を向けてみて下さい。
なーんも考えずに、ただ素直に気持ちを通してみて下さい。
無理やり感謝する必要はありません。
ただ、心を向けるだけで大丈夫です。

そうして最後は、自分自身に「何はともあれご苦労さん」で(笑)


みなさま、今年も一年ありがとうございました…!



(箱根神社の茅の輪です。朝方は雪が散らついていましたが、昼前には晴れ上がりました。)


にほんブログ村哲学・思想ブログ 自然哲学へ

病気は心の洗われ

2015-07-26 21:31:32 | 体をラクに
この世界は、すべての存在が、今のそのままで受け入れられています。
たとえ調和を乱す異分子であっても、他の存在と等しく、天地は温かく優しく包み込んでいます。
どのような形であれ、存在しているというのはそういうことです。

あえて意味付けをしたり、屁理屈をこねたりするまでもなく、プラスもマイナスもなくそのままで
受け入れられているわけです。

これと同じことが、私たちの肉体にも当てはまります。

私たちの心は、全宇宙にあまねく天地の心と同じものです。
今こうして天地の心に包まれて生きている私たち一人一人と同じように、細胞一つ一つも私たちの心に
包まれながら存在しています。

そしてまた私たちは、天地宇宙と一つに溶け合う存在であり、同時に私たち自身という一つの存在でも
あります。
つまり、全にして個であり、個にして全です。
私たちの身体にしても同じことで、一つ一つの細胞という「個」であるとともに、この私という「全」である
わけです。

私たちは、まさに天地宇宙の縮図です。
全を感じながら、個も感じる。
肉体の外に広がる世界がそうであるように、この肉体の内でも、全と個が共に感じられているのです。

私たちの身体には、天地宇宙の姿が投影されています。
私たちは、生きることがそのまま天地宇宙を感じることになっています。

天地宇宙を感じることに何ら障害となるものはありません。
たとえば、病気というのは正常ではない状態のように思いがちです。
でも病気であろうと何であろうと、天地宇宙は自他の別なく感じることができます。

確かに、天地と一体になっていれば病気にはならないというのも一理あります。
ただ、それはあくまで一理でしかありません。
その逆が真ということではないわけです。
病気になったからといって、天地と一つではない、ということにはなりません。
私たちにとって、この世に生まれた本当の目的は「今をただ生きる」ことにあります。
今を様々に感じて生きる、というところにあるわけです。
ですから、たとえ体を壊したり病気になろうとも、天地宇宙を感じることには何の障害もないのです。
むしろ、それらは天地宇宙を感じるための縁(よすが)であるというのが真実です。

病気というのは、常日頃とは異なる状態かもしれません。
でも、病気になった体や細胞それ自身としては、自分が異分子であるとは思っていないでしょう。
違う視点から見れば調和を乱しているように映ったとしても、一つ一つの視点では必死に生きています。

そして私たちの身体は天地宇宙の縮図ですから、これと同じことが私たち自身にも当てはまります。

私たちも、時に足を踏み外し、時に調和を乱し、それでも自分なりにもがき苦しみ生きていきます。
天地宇宙に見守られながら、色々な人生を歩んでいきます。
決して天地から排除されたり、迫害されるようなことはありません。
異物だとかマイナスの存在だというようなレッテル貼りはされないのです。
そうであればこそ、「今をただ生きる」ことができるのです。

非難めいた視線や悪感情を注がれながら、針のむしろの中で生きるのは本当にツラいことです。
私たちは天地の下で、そんなこともなく自由に生かさせて頂いています。
むしろ、自分で自分に非難がましく悪感情を注ぐことさえも、温かく見守られているわけです。
当たり前に思っている今この状態は、大変にありがたいことです。

ただ、自分だけでなく周りの人たちも同じ厚遇に浴していると、想像力が欠けて、そうした感覚が
鈍ってしまいます。
空気の中にいると、その存在を忘れてしまうようにです。
極端な話、今ここで自分一人が異分子になってしまったとすると、どのように感じるでしょう。
大変な孤独に陥るでしょうし、周りから責められやしないかと心を痛めるのではないでしょうか。
そんな時に思うのは、せめてソッと温かく見守って欲しいということでしょう。
そしてもしも、優しく包み込んでもらえたのならば、それだけで全てが救われるのではないでしょうか。

私たちにとっての天地宇宙がそうであるように、細胞にとっての私たちはそのような存在なのです。

私たちは天地であり、私たちは宇宙そのものです。
私たちが病気の体に向ける心は、良くも悪くもそういうことなのです。

異分子にしか見えないものでも無条件に受け入れるというのは、プラスもマイナスも関係なしに、一切の
価値判断を加えず、ただその存在を認めてあげるということです。
褒めもせず、けなしもせずです。

とりわけ、自分の身体は自分のものだという思い込みは、これを難しくさせます。
自他なく受け入れることと、我が物と思い込むことは、全く違うものです。
自分の配下に置いてしまうと、思い通りにならないことに苛立ちを感じてしまいます。
言うことを聞かせようと叩きに叩き、それでも従わない時は、我が敵として切り捨てにかかります。
「病気と闘う」というのは、まさにこのことです。
対立というのは本当に悲しいことです。
ましてや、家族以上の身内である、自分自身、それも自分の一番近くで無心で自分を支えようとしている
不可分の自分に敵対するなんて尚更です。

そもそも私たちこそ、彼ら細胞の庇護のもと、生かされています。
そしてそうした彼らも私たちに見守られて存在しています。
どちらが上も下もありません。
互いが互いを包みながら、生かし生かされているのです。


時に、私たちも道を踏み外さないよう何とかしようとあがいているうちに益々おかしくなってしまうことが
あると思います。
こんなはずではなかったと。
でもそれを、例えば天でもいいです、親でもいいです、それを責め立てられた挙げ句、この世から居なく
なって欲しいなんて思われてしまったら、いったいどうしていいのか分からなくなってしまいます。

彼ら細胞も、自主的に道を踏み外そうとしたわけでなく、自分ではどうしようもない大きな流れに清らかに
従っているだけです。
しかも、その大河を生み出しているのは、他でもないこの私たちです。
細胞はただ素直にその流れに乗って、一所懸命に生きているだけなのです。

大きな流れというのは、自分の信念だったり感情だったり、思い込みだったりこだわりだったり、あるいは
自分自身が演出したプレゼントだったり、その出処は星の数ほど様々です。
ですから、その流れの元を見つけようとか止めようとしても、なかなか出来るものではありません。
むしろ、そうした考え自体がフワフワと足元おぼつかなくさせ、目の前の今から遠ざかる行為となりかね
ません。

となると、もっと違うところへ心を向けるのが健全ということになります。
つまり、まず受け入れることです。
流れを見つけようとするのではなく、その流れに身を投じて私たちに指し示してくれている病気に、
心を向けるということです。

ただ、それは自分の悪感情を無視して頭ごなしにやるものではありません。
自分の芯の部分で受け入れられていなければ、たとえ必死に受け入れようとしても、かえって思いを奥へ
押し込めてしまい、大河という部分では逆効果になってしまいます。

こうすればいいからとか、そのような理屈でもありません。
自分の内から湧き出る純粋な思いに耳を澄ませるだけです。

細胞たちが、本人たちの必死のあがきにも関わらず、私たちの生み出した流れによってそのようになって
しまったという、そのことに、まず思いを向けてみましょう。
その流れの中で必死に生きようとしていることにです。
自分がその立場だったらどう思うでしょう。

それでも彼ら(=私たち)は明るく懸命に生きようとしてるのです。
私たちを恨むこともなく。

それなのに、罵詈雑言を浴びせられたり、非難されたりしているわけです。

いま、心の底からフツフツと湧きあがるものがあれば、理屈は横へ置いといて、その気持ちに心を向けて
みて下さい。
そして、その思いを素直に出してみて下さい...

「ごめんね」

「ありがとう」

たとえ今この一瞬だけであろうとも、心からそう思えることはとても貴いものです。
それこそが、まさに「受け入れる」ということになります。

神道の真骨頂は、異物を排除することではなく、それをそのままで変換させることにあります。
「異分子」「異物」というのは、私たちの頭で勝手に「異なる」と判断したものです。
「異なる」というのは、自分とは区別するということです。自分の外に置くということです。
相手をそのままで受け入れるということは、そうした線引きを手放すことになります。
つまり、異なっていたものが、異ならないものになるということです。

それこそが、神道でいう変換された瞬間であり、祓われた瞬間であるわけです。
異なるものはダメなものだと烙印を押して排除するのとは違います。

この世界は、私たちの心一つで、穢れもするし、祓われもするのです。

病気によって不自由になるのは、身体ではなく、実は心のほうです。
身体はその時できる100パーセントを常に現していますが、そこに比較を挟むことで、心が不自由さを
覚えてしまいます。
そのため、病気に対して物凄いネガティヴな感覚を抱いてしまうわけです。
いつもは鳴りを潜めている囚われや我執が大騒ぎし始めます。
ですから、病気を受け入れることは心の祓い清めになると言えます。

その意味では、私たちの心が病気を祓うのではなく、病気が私たちの心を祓うのです。

受け入れるというのは、プラスの意味付けをして理屈で納得するものではありません。
むしろ、全ての意味付けを無くして、ありのままに見ることです。

病気とは私たちの生み出す心の流れを示す光と言えるかもしれません。
それはまさに指月の指です。
その灯明を頼りに、私たちは目に見えない心を現し見ることが出来ます。

ただ、それは決して、今の自分の心が汚れていたり穢れているということではありません。
そのように判断やレッテル貼りを始めてしまうことこそが元の木阿弥になってしまいます。
誰の心も、汚れていませんし、穢れてもいません。
天地宇宙はすべてをそのままに受け入れています。

そして、新たな飛躍や違った景色が広がる時に、今の視点を変えるためのキッカケとして、ポッとそれを
指し示す明かりが灯るのです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
意味付けや価値づけは必要ないものです。

視点が変われば、景色が変わります。
そして視点は、雑念や囚われを手放すことで、変わります。
ですから、ただ真っさらな心で目の前のことを受け入れていくだけなのです。

人によって、ここだけは真っさらになれない部分というのが様々あります。
でも、それはそれでいいのです。
ただ、タイミングとしてそこを清らかに晴らす時が、人それぞれにやってきます。
それにゴーサインを出しているのは自分自身であるわけです。
ですから、病気になったから良くないとか、そういうことでは決してありません。

私たちの心を洗い流したあと、役目を果たした灯火は薄っすらと清らかに消えていきます。

私たちは、素直な心を向けるだけです。

たとえ一瞬でも風が吹き抜ければ、私たちも私たちの身体も、天地宇宙のもとで一つに溶け合うでしょう。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 自然哲学へにほんブログ村

心のそよ風

2015-06-27 15:00:09 | 体をラクに
早いもので、もう一年の半分が過ぎようとしてます。

途中に4月を挟むとそこで気持ちが一新されてしまいますので、余計にピンとこないところです。
春夏秋冬という言葉のイメージからしても、夏も来てないのに半分は無いだろうと思ってしまいますが、
実際は夏が終わると、残りはたった3ヶ月しかないんですよね。
毎年後半があっという間な感じがするのは、そういうところにあるのかもしれません。

さて、半年の節目ということで、今日は大祓いについて触れてみたいと思います。

日本にはお祓いという習慣があります。
普段の生活の中で知らず知らずのうちに身につけてしまった罪・穢れを祓い落とすというものです。

心が翳(かげ)ると、氣の通りが悪くなります。
氣が枯れることから「ケガレ」(氣枯れ)となりました。
氣が枯れると、色々なものに対して無防備になります。
場合によっては、こちらの方からそうしたものを引き寄せてしまうこともあります。
お祓いと言うと、外から受けた邪気を取り除くようなイメージがありますが、本来は、その根本原因で
ある自らの氣が枯れた状態を清らかにすることであるわけです。

ただ、氣が枯れていたり邪気を受けている状態というのは、自分ではあまり気づけなかったりします。
どんなに嫌な感覚であっても、少しずつの変化でそこに至った場合、私たちはなかなかそのことに気
がつきません。
「カエルを水につけて少しずつ煮立てると、沸騰しても気づかないまま生きている」というジョークが
ありますが、まさにそれです。
そして我執に囚われてしまうと、まわりが見えなくなりますのでなおさら変化に気がつけなくなります。
そうして、いつの間にか心は翳りに翳り、気持ちは小さく縮こまり、氣は枯れてしまいます。
そこで魔がさしたり、邪気に差し込まれたりしてしまうということです。

「知らず知らずのうちに身につけてしまった罪穢れ」というのは、まさにこのことを指しています。

氣枯れが酷くなると、本当の病気になってしまいます。
病気もまた、ほんの少しずつの不調の積み重ねであるため、なかなか気がつけないわけです。

心の翳りをサーッと綺麗にするには、実際に身体動作を伴うアクションが有効です。
この世は、行動の世界です。
頭の中でただ考えたり想像を描くよりも、実際に身体を動かすことが遥かに心身に響き渡ります。

このため神道では年に2回。6月末と12月末に大祓いという形で、心身を一掃します。

人の形をした紙を形代(かたしろ)と言いますが、この形代で頭のてっぺんから順番に「祓い給へ、
清め給へ」と言いながら、全身を撫でていきます。

人形を自分の写し身とするのは、身代り地蔵などにも見られるものですが、あくまで転写というのは
第一義的もので、むしろ第二義的なものの方に真の大祓いの意味があるように感じます。

実際に形代で撫でながら自分の身体の一つ一つへ心を向けるとハッとさせられます。
何となく上から下へとアバウトに撫でてしまいがちですが、そこは心を静めて、一つ一つ落ち着いて
やってみます。

頭のてっぺんから、頭皮や毛穴、おデコ、眉毛、まつ毛、目、そして鼻、口、歯、舌、喉、耳、耳の中、
頭の中の脳・・・
と一つ一つに心を向けていきます。
それぞれ、ほんの一瞬、意識するだけです。

これにより、形代に写すというだけではなく、そこへ心を向けるという行為となります。
一瞬でも心を向けることで、そこへスッと天地の氣を通すことになります。

この時にハッとするのが、今の今までその存在すら忘れてしまっていた箇所が、いかに多かったかと
いうことです。

たとえば目や口、心臓や胃腸などは普段からそれとなく意識できている部分であるのに対して、肺や
腎臓、肝臓などは、ほとんど意識に無かったことに気づくわけです。
そして、その部分にフト心を向けた瞬間に、何かかがサーッと風のように流れていくのを感じます。
普段から馴染み深いはずの手の指ですら、一本一本を撫でていくと、その一本ごとにサーッと通って
いく感覚があります。

形代で撫でるという先人の知恵は、まさにそこにあったのではないかと思います。
もちろん転写という意味もあるのでしょうが、それとともに自分の心を向けるということにとても大きな
意味を感じます。
形代を撫でながら、一つ一つにスーッと何かが通った瞬間、「清められる、祓われるとはこういうこと
なんだ」と感じると思います。

何であれ、ほかの誰かの力に頼りきって救われるということはあり得ず、そこに自分の行為と思いが
あってこそ、それが示現します。
もちろん、自分の力だけで何でもできるということではありません。
このあとに神職の方々が丁寧なお勤めをして下さることで、大祓いは完結します。
地に足をつけて歩くとともに、自分の健康を祈って下さる方々や、目に見えないおかげさまへの感謝
が大切です。
事実、祈りのエネルギーというものは間違いなく天地へ届くものです。

そして、心を向けるというのは、これほどまでハッキリしたものです。
ということは、自分に対してだけでなく、他者に対しても同じことが言えるということです。
心を向けることで風が吹き、交流が生まれることになります。

心の風通しが良くなると、身体の風通しも良くなります。
そうして体調も良くなります。
同じように、自分のまわりに対しても、ただ心をスッと通すだけで風通しが良くなり、雰囲気が変わり、
状況も変わります。

心から吹く風というのは、それほどまでに明らかなものです。
すごいエネルギーなのです。

大祓いで唱えられる大祓詞の中に、祓戸四神が登場しますが、神様の罪穢れすらも祓い落とす祓戸の
大神様の中に、気吹戸主(いぶきどぬし)という神様がおられます。
お祓いの場面では、まがまがしいことや罪穢れを、川から海へ、そして海の底から根の国・底の国へと
うつしていって最後は昇華させるという、まさに天地宇宙の循環システムがそのままに謳われています
が、その中で気吹戸主は根の国・底の国へと「いぶく」(氣吹く、息吹く)お役目を受け持っておられます。

根の国・底の国とは、あの世とも解釈されますが、要するに目に見えない非物質世界のことです。
濁らせてしまったものをそこで昇華させて、本来の天地自然の状態に戻すというわけです。
決して消滅させたり、排除したりするのではないということです。

この神様のエネルギーが、私たちの中にもあるということを思います。
クリアな心は爽やかな風を吹かせます。
その心を向けただけで、サーッと天地の氣が吹き抜けます。
それが「氣吹き」(いぶき)であるわけです。

半年に一度の大祓いは、私たちの心や身体に知らず知らずのうちに付いてしまった穢れを祓い、枯れ
た氣を生き生きと蘇らせます。
先人の遺した知恵は、どこまでも深いものです。

そしてまた、知らず知らずのうちにそのようになってしまっている氣枯れ(ケガレ)というものは、我が身
だけでなく自分のまわりに対しても起こしてしまっているとも言えます。

せっかくの機会ですから、自分自身に対してだけでなく、そうしたまわりのモヤモヤしているものへも
爽やかな心を向けてみてはどうでしょうか。

大祓いとは、大掃除でもあります。

何かをしようなどと気負う必要はありません。
ただスッと心を向けるだけです。
それで、もうサーッと通ってます。
もし何も感じなくても、そうなってるから大丈夫です。
神社に行けなくとも、それで十分です。

そして、実はそうした一つ一つが、この国の大地や、その先までへと繋がっていきます。

ただそれはあくまで結果ですので、大地や地球のことを浮かべながらやるものではありません。
本末転倒になってしまいます。

心を向けることは、そのままサラサラと光の粒子になります。
そこで光を感じることはあっても、あらかじめ光をイメージしながら行なうものではありません。
心をクリアにするだけ。
「考えごと」をせずに、スッと心を向けるだけで爽やかな風がサーッと吹き抜けていきます。

私たちの心は、天の氣吹き(いぶき)そのものです。

今は、ただ目の前のことだけに心を向けて、スーッと気持ちが軽やかになることを感じてみましょう。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 自然哲学へにほんブログ村




感覚の大切さ

2015-05-08 19:00:56 | 体をラクに
私たちは無意識のうちに、頭が身体を動かすものだと思い込んでしまっています。

たとえば慣れないスポーツや運動をする時も、まずは頭で考えてから身体を動かそうとします。
でも理屈で動かそうとすると逆にギクシャクして、訳が分からなくなります。
だから世の中には、目新しい理屈を並べたハウツー本が次々と出てきます。

ただ、どこまでいっても頭優先の理屈で進めようとする限り、ギクシャクが無くなることはありま
せん。
自転車に乗れるようになるまで何度も転んだように、結局は頭ではなく身体にまかせてしまうしかないのです。

それは、車の運転にしてもそうでした。
最初はガチガチの腕でハンドルにしがみついていたのが、車両感覚が身体に染みつくとあとは感覚に任せられるようになったはずです。

どのようなことでも、回数を重ねてギクシャクしなくなった人間が、あとになって理屈をつけて説明しているだけなのです。

取っ掛かりとしての理屈は大事ですが、一通り理解したら、あとは手放さなくてはいけません。

私たちの身体というのは頭が考えた通りに動くものなので勘違いしやすいのですが、実際はその逆ルートとして、身体から頭に入ってくることも
数多くあります。

スポーツや運動にしても、感覚で上手くやれてしまった時には何でそれが出来たのか自分でも分からないことがあると思います。
子供は素直なのでそうした感覚に任せて、何でもすぐに出来るようになりますが、大人は頭で理解しようとして立ち止まってしまいます。

頭と身体は、決して一方向的なものではありません。

こうして冷静になって考えていますとそれが分かるのですが、普段の生活のなかではそうもいきません。
頭が指示する機会が多すぎるために、いつの間にか一方通行的な回路が固定化してしまうのです。

子どもの頃は、頭で考えるより先に身体を動かしていました。
明らかに身体の方が優位になっていました。

ですから頭から入る知識情報よりも、身体を通して入る感覚情報の方が多かったわけです。
頭と身体のどちらが主でも従でもなく、自由自在な双方向のものでした。

しかし知識が蓄積され経験則から行動を決めるようになりますと、主体は頭へと移っていき、身体から入る感覚情報はオフになってしまいました。

大きくなるにつれ、他者の獲得した知識や情報がたくさん頭に入るようなり、それらをもとに決断をする機会が多くなっていきました。
しかしもともと幼い頃の私たちは、身体から情報を吸収して決断をしていました。

未知の情報というのは、常に身体から入って心に伝わるものです。
頭から体に伝わる情報は、既知のものしかありません。

本当の理解というのは頭の理屈ではなく、全身の感覚によって心に染み入るものです。

身体を包む感覚がそれをキャッチし、その感覚と心が一つになって自他の壁がなくなり、情報が同化されるのです。

しかし、頭から身体への一方通行の回路が出来あがってしまいますと、身体からキャッチする情報は限定的になってしまいます。
よほど強烈な刺激でもなければ、大抵はスイッチが切れたままにあります。

頭が優位になってしまうと、意識を向けたものにしか身体のセンサーは働かなくなってしまうのです。

本当ならばそのまま何もせず放っとけば、身体感覚から情報がどんどん入ってきます。
しかし、頭の思考を使った瞬間、その道が閉鎖されてしまうのです。

それは『情報をキャッチするな』という指示を、片時も休まず出し続けているとも言えます。

決して、スイッチを切ってるから感覚情報が遮断されているということではないのです。
まさに無駄骨と言えますが、遮断しろという指示をずっと出し続けているのです。

囚われに縛られている状態というのは、それを維持するために、一瞬も休まずエネルギーを注ぎ続けている状態なのです。


そもそも人間は、一つの感覚に集中しようすると他の感覚が薄れるように出来ています。

見よう見よう、聞こう聞こうと執着すると、頭が優位となり回路が一方向化してしまい、本来の身体感覚がシャットアウトされてしまうのです。

とりわけ現代社会は、理屈をこねたり頭を使うことばかりが習慣化してしまっているため、ますます感覚が鈍ってしまっています。

一つのことに囚われると他が見えなくなります。

囚われを無くして自然に任せたフルオープンになると、あらゆる感覚が開いてきます。
皮膚を通して膨大な情報が身体に入ってきます。

それをそのままに受け入れれば、それまで知らなかった多くのことを得ることができます。
しかしそれを頭で分析しようとすると、途端に情報は薄れていきます。

すくおうとした水が指の間から流れ落ちていくようにです。

ありのままに受け入れるというのは、自我の枠に押し込めないことです。
理解しよう判断しようとするとロクなことになりません。
忘れないよう覚えておこうとしがみついた瞬間、それは本来の姿を失います。

「今」を目の前で止めようとせず、ただ身体に流すだけ。
それが「感じる」ということです。

分かるというのは、頭でアレコレこねくり回して理解することではありません。
「感じる」ということです。

ですから子どもの姿こそが自然な状態なのです。
だからこそ無邪気にハシャぐのが一番だと言うわけです。

そのまま身体を通すことこそが、天地自然の姿です。

忘れないようにしようとか頭で理解しようとするのは、その流れを止めることにしかなりません。

流れるままにまかせることが、天地自然と同化していることになります。
すると、その情報とも同化することになります。

本当の理解とは、全身の肌にフワーッとくると同時に胸の奥底からもフワーッと湧き出てくるものです。
理解しようと気張らず、ただ心安らかに楽しもうとすればいいということです。


感覚の凄みという点では、感覚記憶というのは、一瞬で頭優位の状態を掻き消すものでもあります。

たとえば子どもの頃に過ごした場所では、その時の感覚がリアルに蘇ってきます。
それは頭の記憶ではなく、全身の皮膚の毛穴から呼び起こされます。

朝に職場に入った時にはそこで過ごしていた感覚になりますし、家に戻ればそこで過ごしていた感覚に切り替わります。

こうしたものは、そこの雰囲気とそこでの心の状態がワンセットになって身体に刷り込まれていることで起こります。
その場の空気に触れると条件反射で、心の状態が呼び起こされるのです。
これは場所に限らず、対象が人であっても当てはまることです。

たとえ心を天地自然と一体にさせても、いつもの職場に身を置くとすぐにいつもの自分に戻ってしまうのはそのためです。

あるいは心静めて安らかになっていても、いつもの相手に会うといつもの感情が湧いてしまうのもそのためです。

そうしたものを一気にゼロにしようとするのは、ほとんど無理に近いことです。
そうしたものはコツコツと時間をかけて、少しずつ上書きしていくしかありません。

逆に、それまでどんなに嫌な気持ちであっても、お気に入りの場所に行けば一瞬で心が軽やかになったりもします。
これも身体感覚が主となってスイッチが切り替わっているからです。

これほど感覚というのは私たちにとって大きな力を持っているものなのです。

ですからたとえば嫌な場所や嫌な人物の前に身を置いた時には、好きな場所や人物のこと、その時の感覚を心に浮かべるのがいいかもしれません。
悪い感情を手放した時の感覚を少しずつ重ねていくことが、感覚記憶を塗り替えていくことになります。

この世界では、あれこれ熟慮するよりも実際に行動を取った方が具体的な結果を生みます。

行動とは流れであり、流れとは変化であるからです。

頭の中の妄想だけでは現実は変わりませんが、行動は現実を変えます。
そして行動のカギとなるのが「感覚」です。

感覚というのは肉体と心の中間にあると喩えられるかもしれません。
つまり目に見える物理的な肉体と、目に見えない精神的な心の、両方にオーバーラップしているということです。

いくら心が現実を創るとはいえ、物質で出来ているこの世にいきなり一足飛びで影響をもたらそうとしても、何より私たち自身が抵抗してしまいます。
しかしまずはその中間にある肌感覚に心を向けるならば、心そのものも柔らかくなりそこから物理的な影響も現実化するわけです。
ですから、感覚に心を開くというのは非常に大切なことなのです。

その感覚を鋭くするためには、心の耳を澄ますことになります。
つまり、集中することです。

他のことに意識が散漫になっている「ながら」状態では鈍ってしまいます。
頭でアレコレ考えている状態もおなじことになります。

何かを実現させようとする時は、感覚のセンサーを磨くのが近道と言えます。
感覚が先に行って、意識や理屈が後付けされるというのが自然であるように思えます。

たとえば願望実現法にも、まず感覚や肌感を具体的にイメージするというものがあります。
これは自分を包む感覚というものが身体に強く影響を及ぼし、潜在意識にも深く伝わり、結果、物理世界にまで響くことを示しています。

感覚というのはそれほど凄いものです。
だからこそ気をつけなくてはいけません。

昔の人は我執でそれを翳らせてしまうことを忌み嫌っていました。
ですから普段から慎ましく清らかであろうとし、何かにつけて禊祓いをしたのです。

私たちも、全身を包むこのモヤッとした感覚をいつも清らかにしておくのがいいと思います。

清らかな場所、スッキリする場所へ何度でも行ってその感覚を体に通すのはいいことです。
そのような場所では、それを吸収しようと気張らず、ただそこに居るだけで全身を風が吹き抜けて細胞が蘇ります。

大自然の中を歩いたり、静謐なるご神気に触れた時には、写真を撮ったりアレコレ頭で考えたりせずに、その空気の中に浸りきるのが一番です。

全身に流し、身体を通すと、天地自然と同化してまわりの心も流れてきます。

自分の心が相手の心と一つになります。
別の表現をすれば、相手の雰囲気や気配をそのままに自分のものとします。
すると、自分の心の中に色々なものが映ってきます。
それは自分の心でもあり、相手の心でもあります。
そのようにして私たち日本人は、相手の心を我が心として感じてきました。

身体に流れてくる感覚に耳を澄ませば、頭を使って理屈に走る心癖が少しずつ薄まっていきます。

感覚というのは、天地宇宙との会話でもあります。
そしてそれはいま目の前の人たちとの会話でもあり、今は亡きご先祖様たちとの会話でもあります。

それは決して特別なことではありません。
私たちは子どもの頃にそれを自然にやっていました。
ということは、それこそがごく自然な当たり前の状態ということです。

「難しい道だ」と自分でハードルを上げてしまうと本当にイバラの道となってしまいます。
一瞬で激変させることは無理な話ですが、少しずつ素直に耳を傾けていくことで、薄皮を剥がすように着実に変化していきます。
決してストイックな道でも険しい道でもないのです。

子どもの時の感覚を思い出せば分かります。
あの頃は、あれこれ考えずただ無邪気に楽しんでるだけでした。

今はそうでないということは、つまり今この瞬間、私たちは無邪気になってはいけない、楽しんではいけないと自分で決めつけてしまって
いるということです。

人生とはそういうものだと満足してしまったり、大人になるとはそういうものだと諦めてしまっているということです。

何のことはない、実は今この時が、険しくストイックな道そのものだったわけです。

感覚に耳を澄ませるということは、無邪気に楽しむための第一歩です。
自分の皮膚感覚、肌感覚というものは本当に凄いものです。

それは信じる信じないというものではなく、忘れてるか思い出すかというだけのことです。
そのためには、大自然の中に実際に身を置いて頭をオフにしてみるのが一番手っ取り早いでしょう。
また、真善美の作品に触れてみるのもいいと思います。

感覚に心を開くには、部屋にこもって悶々と考えてるだけではどうにもなりません。
まず物理的なアクションを取ることが必要です。

今すぐできることでは、電子機器を切った状態に身を置いてみるのが良いかもしれません。
電磁波は感覚を委縮させます。
本能的に閉じてしまうのです。

時々でもいいのでTVや音楽を消して、静かな中で目をつぶり、全身の毛孔から流れ込んでくる感覚に身をまかせてみてはいかがでしょうか。
あるいは湯船に浸かって、心を身体に預けてみるのでもいいと思います。
時間があれば、緑の中にたたずみ遠くのそよ風へと心を広げてみると最高です。

常日頃その状態を保つのは難しいかもしれません。
ただ、時折ふと外から内に流れてくる感覚に耳を澄ますだけで、人生はより豊かなものになるはずです。

この世は心だけでもありませんし、身体だけでもありません。
その両方がバランスよく自然に交流しているのが天地自然な姿です。

スッと頭の力を抜いて自分の身体に心を開けば、フワッとした感覚が外からやってきます。

そんな爽やかな風のあとには、今までとは違った景色が広がっていることでしょう。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 自然哲学へにほんブログ村