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これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

『泣きなさい 笑いなさい』 (実践編)

2020-08-10 21:17:00 | 天地の仕組み
[雨ニモマケズ] (宮沢賢治)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ
丈夫ナ カラダヲ モチ

慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモ シヅカニ ワラッテヰル

一日ニ 玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ タベ

アラユルコトヲ
ジブンヲ カンジョウニ 入レズニ
ヨク ミキキシ ワカリ
ソシテ ワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニ ヰテ

東ニ 病気ノコドモ アレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニ ツカレタ母 アレバ
行ッテ ソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ 死ニサウナ人 アレバ
行ッテ コハガラナクテモイヽトイヒ
北ニ ケンクヮヤ ソショウガ アレバ
ツマラナイカラヤメロト イヒ

ヒドリ(日照)ノトキハ ナミダヲナガシ
サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ

ホメラレモセズ
クニモサレズ

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


(おしまい)






『泣きなさい 笑いなさい』

2020-08-10 21:16:00 | 天地の仕組み
遥か彼方の座席で映画を観ている私たちというのは、今この私たちと一つに繋がっています。

どちらか一つということではなく二つで一つです。
二者は遠く離れているように感じますが、その間はすべて私たちで埋め尽くされています。

それを、何層にも連なっているという言い方もできますが、正確に言えば隙間なく繋がっている状態です。
人間の体に喩えるなら、頭のてっぺんが今この私たちで、足のつま先が映画館にいる私たちといった感じです。

どこで切り取るかによってそれぞれ違うところに存在しているように見えますが、その全てで一つの私たち。
一つ一つが個別に存在しているのではなく、すべてが一つの私たちです。

その一端は、今この現実においても垣間見ることができます。

それはただボーッとしてみれば叶います。
本当にボーッとするだけ。
雑念が湧いてきても、それをそのまま放っとき続ける。
放っといても次々とまた雑念が出てきて、なかなかボーッとできませんが、それでも放っておく。

これは日常生活から物理的に離れた場所のほうがやりやすいかもしれません。

山々の緑や大空を見ながらボーッとする。
川の流れや焚き火を見ながらボーッとする。
海に漂う小魚を眺めながらボーッとする。
大の字で温泉に浸かってボーッとする。

一時間もするといつの間にか雑念は消えて、頭の中が静かになっています。
遠くの鳥の鳴き声や、シーンとした静寂の中に、自分も溶けこんでいきます。

天地に広がる感覚。深くへ広がる世界。
これもまた私たちであるわけです。

現実で繰り広げられるドタバタの毎日。
目の前の世界というのはそれ一色に見えますが、実はそのベースにはいつでもこれが広がっています。

この静寂は消えたり現れたりするのではなく、常に今ここに広がっています。
その上にチョコンと、目の前のドタバタが乗っかっているということです。

そしてこの静寂の下には、さらに静かな広がりがどこまでも連なっています。

夜中、深い眠りについている時、私たちはこの広がりの下へ下へと溶けこんでいきます。

もともと広がっている自分。
さらに微細な広がり。
そして映画を観ている自分へと。

私たちは、つま先まで自分全体の広がりをしっかり味わってから、再びこのてっぺんの先っちょの現実に戻ってきます。

上から下までそのすべてが私たち自身です。

息を吸ったり吐いたりするのと同じように、すべての生き物はこれを繰り返しています。

呼吸によって全身に酸素が循環されるように、この動きによって私たちのエネルギーが循環されます。

この流れを止めて頭の先っちょだけで滞ってしまうと、呼吸や血液を止めるのと同じことが起きてしまいます。
つまり、酸欠や鬱血状態におちいり、たちまち私たちは朽ちてしまいます。

あらゆる生き物たちが、この世において捕食される危険を冒してまで睡眠を摂るのは、そのためです。

ちなみに、言うまでもなく野生生物たちは常に「今この瞬間」に集中しています。
狩られて命を落とすかもしれないという究極の不安にさらされているにも関わらず、それに囚われることなく、目の前のことだけに集中しています。
ですから、眠る時もしっかり眠ります。

しかし私たち人間はそうではありません。

現実のドタバタに囚われすぎると、私たちは頭がフル回転になって、いつでもそのことに縛られたままとなります。
そうなると、寝ていてもしっかり眠れない。
深くまで行けない状態となります。

命を落とすほどの危険があるわけでもないのに、昼間の現実に囚われてしまっているということです。

氷山の頂きだけに偏っているとエネルギーが枯れていきます。
私たちは遥か深遠まで広がっているのに、ほんの先っちょにとどまってしまったら、そうなるのが当然です。

ですから、しんどい時こそ、何もしないボーッとする時間を無理やり作ることが、本当の意味でとても重要となります。

日常から離れて、山道の一歩一歩を黙々と踏みしめたり、湖面に浮かぶ釣り糸に心をまかせたり、ひなびた温泉地でテレビも携帯も忘れてゴロゴロしたり、いつもと違った一枚絵の中に自分を置いてしまう。
がんじがらめに縛りつけてしまった現実への囚われを手離すため、完全に脳をリセットする。

ひたすらボケーっとする。
とことんボケーっとなる。
思考のオーバーヒートを止めて、無限に広がる静寂へと身をまかせる。

単なる理屈や理念だけでなく、この「無」に自分を戻す作業が、実体験として必要なのです。

てっぺんに偏っている私たち、そこで根詰まりを起こしている私たちを、少しずつ緩めて広げていく。
これはまさに、こわばった筋肉をほぐして血流を戻していく作業なのです。

ですから、日中にガリガリと氷山のてっぺんに縛りつけられ酸欠状態になっていながら、休みの日もテレビやネットゲームで暇をつぶすなんていうのは、何の解消にもなっていないわけです。

そんなことを続けたら、エネルギーは枯れ、ますます囚人状態が進み、最期のエンドロールを観ながら歯ぎしりをすることになってしまいます。

ドタバタの一枚絵の下に広がる静寂は、特別な環境に身を置かなくても、いつでも得ることができます。
テレビや携帯を手放し、公園でボーッとする、お風呂でボーッとする、喫茶店でボーッとする、トイレでボーッとする。

目の前の景色というのは単なる絵画です。
その広さや狭さに関係なく、私たちというのは天地無限に広がっているのです。




深層に広がる私たちにまかせきるというのは、天地宇宙にまかせきると言い換えることもできます。

私たちはしっかり護られている、見守られている、ちゃんとコントロールされているわけです。

深層に広がる私たちだろうと天地宇宙だろうと、どちらも同じことなので、自分でシックリくる方を使えばいい。
とにかく、おまかせしきって目の前のことだけに集中すればオールOKというのを納得できること、安心できること、信じきれることが重要です。

そして、くれぐれも、そこに打算や逆算を入れないよう注意が必要です。

たとえばツラい現実に直面した時、映画館にいる自分を思い出して「最後はGOODエンドになるからこれでいいのだ」というのは、できることなら避けたい。

理屈ぬきに「これでいい」というのが理想だと言えます。

もちろん、慣れるまでの方便としてならばアリかもしれませんが、いつまでもそれをやってしまうと自分の本心を誤魔化していることになってしまいます。

これが危ない。
優等生気質が陥りやすい罠です。

自分の本心から目を背け続けるのは、エンドロールで一番後悔するパターンです。

それが良いことであろうと悪いことであろうと、打算や逆算の行動というのは自分の本心を包み隠して押さえつけるものなので、自分自身がもっとも残念に感じることとなります。

ですから、正解狙いや優等生的発想というのは、とにかく即やめた方がいい。

そうなるくらいなら、やらないほうがいい。
やりたいように、やっちまったほうがいい。

自分の欲得や執着に素直になった方が、本当にずっとマシなのです。
それほど、自分自身に嘘をつくというのは、残念無念な行いなわけです。

誰かに褒められたいという思いは捨てちまったほうがいい。なにせ最後の砦たる自分自身こそが残念がるわけですから。
誰からも認められないかもしれないという不安も捨てちまったほうがいい。本心に素直であることこそ自分自身が喜ぶことなのだから。

ですから、ひとたび現実社会に戻ったら、この世の仕組みやネタバラシなど忘れて、目の前のことだけに集中しきることです。

そのために私たちは、わざわざ全部忘れて生まれて来ています。


ところで、天地自然に広がった大きな自分を体感すると、その感覚のままで目の前のドタバタに集中したいと思うところです。
たしかに目指すところはそうなのですが、そこは焦らず気長に考えた方がいいかもしれません。

私たちは一度に一つのことしかできません。
二つのことを同時に出来ないようになっています。

正確に言えば、一瞬一瞬において私たちは一つのことしかできません。

「いや、テレビを観ながらメールをやっている」と思うのはただの錯覚です。
一つ一つの瞬間は必ずどちらかのことしかやっていません。

それほど深く没頭していない時は、別のことに瞬間的に心を切り替えられるだけの話です。
凄い速さで行ったり来たりできるから、まるで同時にやれてるように感じてるだけで、同じ瞬間に二つや三つのことに心を向けているわけではありません。

逆に一つのことに集中しきっている時は、他への切り替えをすることなく連続してそこに心が向いています。
そういう時には、二つのことに同時に心を向けるのが不可能であることを実感します。

これこそが、今この瞬間が一枚絵であること、すなわちこの世には今ココしか存在していないことの証左であり、どうやっても私たちは「今ココ」(=目の前)に集中することしかできないことの証明になっています。

ですから「心を広げようということに意識を使いながら、目の前にフォーカスする」というのはこの世の仕組みとして不可能なことです。

広がるほうに心を使ってしまうと他のことが何もできなくなる。
そうなると、その両立は不可能なのかというとそういうことではない。
心を使わなくてもそれが当たり前になるまで、広がった状態を身体に染みこませればよい。

一度染み込ませれば、あとはそっちのほうに心を使わなくてもそれが自然な状態となる。
そうなれば、心は目の前のことだけに使える、目の前に集中できるということです。

ということで、ボーッする行為は、天地の広がりを身体に染み込ませるための実践トレーニングになります。
まかせきった状態を体が覚えるには、繰り返し繰り返し、数を重ねるしかありません。

ボーッとする。
無になる。

それはしがらみを捨て去った状態です。

しかるに、ボーッとしていると自分が怠けているような罪悪感が湧いてくるとなれば、それは優等生脳の仕業です。
まんまとエゴに騙されています。

実際「ボーッとする」ではなく「無になる」と言い換えれば、たちまち真面目な感じに見えるから不思議なものです。
ただ残念ながら、無になろうとすると無にはなれません。
それは、脳やエゴが主導権を握った状態だからです。

それが「ボーッとする」と言えば不真面目な感じがするけど、簡単に無になれる。

これは本当に大切なことを言っています。

それと同じように、現実に囚われまいと、あの世を強く思いすぎてしまうのも、やはり脳やエゴが主導権を握った状態にあるため血行不全を起こします。

「どうせスクリーンの中の作り話なんだから適当にサラッと流せばいいのだ」とヤル気のない俳優が居たら、どう感じるでしょう。
石に噛りついてでも貪欲に生きようとする姿にこそ、拍手喝采が起こるのではないでしょうか。

一休禅師や禅僧・仙厓義梵は辞世の句で「死にとうない」と言いました。
それはこの世への未練や執着ではなく、目の前への集中から出た言葉です。

つまり、死ぬ間際まで「必死に」生きようとした。
最期の最後まで、目の前のことに一所懸命であったということなのです。




さてここで話を少し広げますと、この世というのは、私たちのまわりの暮らしだけでなく、そこには国があり世界が存在しています。

社会や経済、国際情勢というと私たちからは遠く離れた出来事のように感じますが、どれもが今この目の前の一枚絵の中に共に存在しています。

私たちの日常と、世界の出来事は、決して無関係なものではありません。
そうしたものもまた映画館の私たちを楽しませる要素となっています。

大国同士のいざこざがキナ臭くなっています。
5年後、10年後、想像もつかない嵐の中に私たちは巻き込まれるかもしれません。
でも、それも含めて私たちの芯の部分は楽しんでいるということです。

それは大災害や天変地異であっても同じことです。
私たちからすればそんなものは嫌に決まってますが、それも含めて私たちの芯の部分は楽しんでいる。
生きることを楽しんでいる。

何が言いたいかというと、そうなるのは嫌なわけですが、そうなったら、もうバンザイしかないということです。
諦めろと言ってるのではありません。
回避するために、事前の策も含めて、最期の最後までジタバタするのが私たちの為すべきことです。
ただ、それ以外のことまで囚われる必要はないということです。

この部分、早とちりしやすいのでもう一度言います。

「まだ起きてもいない先々のことに縛られず、目の前のことだけ見ていればいい」ということであって「いま目の前のことまでも斜に構えて適当に流せばいい」ということではありません。

目の前で、紛争や災害が起きたならば、その時の自分の思いには素直になる。

目の前のことに対して自分の中から湧き上がる思いこそは「今ここ」そのものです。
それを誤魔化したり、繕ったりするのは逃げです。
目の前の今をしっかり受け入れることが、私たちの芯の部分が求めていることです。

私たちというのは、遥か深くへ、樹木のように根を広げています。

深く深くに広がる私たちと常に繋がり、そこから栄養が流れてきて地上の幹や葉のように私たちが支えられています。

そして、地上に姿を現している今この世界で、陽の光や空気をいっぱい浴び、それが栄養となって深く深くへと送られています。

それを向こうから見れば、それこそ全く逆の姿となります。
地中深く根を伸ばしている先がこの世界であって、そこでの様々な刺激や体験、それに伴う内的反応が、栄養となって向こうで花を咲かせます。

蓮の花は汚れた泥の中でも美しく咲いている、だから私たちも頑張れば美しい花が咲く、などと言われますが、それだと価値判断や打算の域を出ません。

泥が汚れているというのは私たちの価値基準であり、ただの決めつけです。
蓮にしてみれば、泥というのは栄養豊富な美しく輝くご馳走なのです。

同じように、この世というのも白黒さまざまなものが入り混じった栄養豊富な世界です。
そこには私たちの内から生じる色々な思いも含まれています。

それを泥沼と称するのは勝手ですが、ネガティブに捉えるのは完全な間違いなわけです。

栄養豊富な世界だからこそ、向こうで見事な蓮華が咲きます。

ですから「泥沼だけど」とか「汚れてるけど」とか、そんな先入観こそ余計です。

私たちがここでやるのは、ただ、その栄養をしっかりと味わいきることだけです。



足の先っぽ寄りでもない、頭のてっぺん寄りでもない、今ここに集中することが私たち自身の証明となります。

それぞれ、その時その場所の役割があります。

この世に居る時は、この世に集中しきる。
目の前の一枚絵を味わい尽くす。
自分自身に素直になりきるということです。

先のことやまわりのことなど考えない。
目の前の一枚絵がすべて。

打算も逆算も見栄も何もありません。

これからも、日々の生活は嵐の連続かもしれません。
難破してボロボロになるかもしれません。
世界では争いが激化し、天地も荒れ狂うかもしれません。

それでも、それは私たち自身の芯の部分は、それも含めてヨシとしている。
その中で生きることを楽しんでいるのです。

いま一度言います。

そうなったら嫌だ!というところに、囚われすぎないことです。

大波が来たら回避行動をするのが、この世に生きる私たちの本分ですから、そうならないように今ここでの最大限の努力をする。
ただ、そうした先に、結局そういう一枚絵がやってきたとしても、それはそれで仕方ない。
深層の私たちがそれだけ壮大なスケールのミックス味を求めていた。
ですからその時が来たら、あとはただ、ひたすら泣き喚くのみです。

最後がどうなろうとも、それでいい。
何が正解なんてものは無い。

何が不幸で何が悲劇なのかなんて、表層の私たちが偉そうに決めつけるものではないのです。

私たちは、ただ目の前に集中し、今ここで出来ることを精一杯やり、そして目の前で起きたことには素直に笑ったり悲しんだり、怒ったり怯えたりするだけ。
その瞬間の自分に素直になるのみです。

子供というのは目の前のことだけに一所懸命です。
やめろと言われてもやる。
そのかわり本当に目の前しか見えない。それしか見てない。
他の雑音は入ってきていません。
それだからこそ、些細なことでも泣き、笑い、怒り、喜ぶのです。

それが目の前を100パーセント味わいきる姿です。

今の私たちというのは何者なのでしょう。
自分で自分を作ってしまってはいないでしょうか。

私たちの本当の心は、素直な私たちを望んでいます。

大人ぶる必要はありません。
カッコつける必要はないのです。

目の前のことに全身を投じ、そして湧き上がるままに、泣き、笑い、怒り、悲しむ。

それがすべて。

それこそがこの世に生を受けた私たちの役目であり、存在意義であるわけです。






(おしまい)




平穏無事はつまらなかった

2020-08-05 14:28:00 | 天地の仕組み
次々と仕事やトラブルに追われ続けていると、何もしなくていい状態に憧れるものです。

でも、いざ何もしなくていい状態になったら、それを幸せに感じていられるのは、せいぜい一週間程度かもしれません。

たとえお茶汲みでも掃除でも、何かやることがあればマシですが、「本当に何一つやることが無い」となると、これは本当にツラい。

もちろんパソコンでネットを見たり、携帯をチェックすることも出来ないという前提です。

もしかしたら半日も耐えられないのではないでしょうか。

ウトウトすることもできない、時間潰しのネタもない。
ただ椅子に座って時間が過ぎるのを待つ。
ついつい時計を見てしまうけど、10分も進んでいない。
嵐の忙しさの時はあんなにも時間があっという間に過ぎたのに。

何もやることがない、何もやれない、時が過ぎるのを待つだけというのは、あらゆる苦痛の中で最もツラいものかもしれません。

たとえば、それは一つの絵画だけを見続けるようなものだと言えます。
他の絵を見せてはもらえない。
脇見も許されず、ただ同じ絵だけを見続ける。

仕事を干されて窓際族にされるというのはパワハラの中のパワハラ、ブラックの中のブラックでしょう。

何もしない。何もできない。
そのツラさというのは、喉を掻きむしるような飢餓感に似ています。
まさに飢えであり渇望です。
酸素や食料を求めるのと同じ、本能的なものを感じます。

定年退職したら自由を謳歌しようと心底思っていた人たちも、そのほとんどが一ヶ月もしないうちにまた仕事を始めたくなるといいます。

私たちは、変化が無いと苦しくなる。
外的刺激が無いと心が枯れてしまうのです。




人と関わりあうことがこの世で一番の刺激だと書きました。
たとえ敵であろうと、嫌いな相手であろうと、怒りや憎しみという形で双方向の交流が生じています。

それは人間相手だけではなく、仕事であっても、日々の生活にしても同じことです。
それら景色が刺激となって、私たちの中でパッションが生じる。

何も描かれていない真っ白な絵画を観たところで、何の感情も湧き上がりません。
刺激がなければ、内発的反応は生じないのです。

ですから、ひどい嵐に叩きのめされる一枚絵であっても、苦しみと悲しみに打ちひしがれる一枚絵であっても、それでイイわけです。

次々と目まぐるしく、取っ替え引っ換え、色々な絵を突きつけられても、それでイイわけです。

そこに内発的反応が生じるのですから。

怒り。悲しみ。
いいではないですか。
喜びや笑いだけが価値あるものではありません。

思い描いた理想の一枚絵に巡り合えたら幸せになれるなんてのは幻想もいいところです。
そんなことは、念願かなって理想の絵に巡り合えた私たちがそのとき何をどう感じるか想像してみれば分かることです。

それは、喜び?
いやいや、そんな浅いところで考察を終わらせては何も見えてきません。

その喜びの出どころがどこにあるかです。

喜びの源泉となっているのは、安堵感、達成感、優越感、そういったものではないでしょうか。

では、そんなものに喜んでいるのはいったい誰なのでしょう。安全、安心に喜んでいるのは誰なのか。

それは表層の私たち。生命維持をなりわいとするエゴであるわけです。

深みに広がる私たち自身は、もっと違う喜びを求めています。

絵画や映画を観るとき、私たちは未知の出会い、未知の展開に胸躍らせます。

それに対して、私たちの表層意識、エゴはその逆のことを望みます。
エゴにとっては安全運転こそが絶対正義だからです。

と、ここでエゴを悪者にしたところで何も解決はしません。
エゴは悪さをしているわけではない。
それはそれでちゃんとした理由がある。
何も知らずエゴのことを悪く言うのは親知らずの不幸者となってしまいます。

エゴのせいなどにしてる暇があったらもっと違うことを考えたい。

そう、やたらこだわってきた理想の一枚というのは、単にエゴが幸せと感じるもの、エゴが満足するだけのものだったと、そっちに行き着きたいところです。

そんな一枚をいつまでも気にかけてどうすんだって話です。

深層の私たちとエゴは逆のことを望みます。

そして結局は深層の私たちが望む現実が選ばれます。
今この私たちが望む現実が選ばれることはない。私たちが望むことはなかなか実現しないということです。

量子力学では「観測すれば現実が変わる」「予想したことは現象化しない」とされていますが、この世が何故そういう仕組みになっているのかといえば、まさにそこに尽きると言えます。

深層の私たちは未知を欲してる。
だから現実は予測したとおりにはならない。

未知であることが最優先となるため、予想は外れるようになっている。

これは何もそういう仕掛けや法則があるということではありません。
単に深層の私たちが、未知の現実を選んでいるだけのことです。

表層の私たちが計画してもその通りにはならないし、計画しなかった方が成るように成る。
手放した瞬間に表層の私たちの計画ではなくなるため、それは観測対象ではなくなる。
そのため実現する可能性が急浮上するということです。




私たちはこの世に未知を楽しみに来ました。

先ほどのサラリーマンの話と同じように、あの世の私たちもまた刺激を欲してます。

この世を勤め上げて定年退職したあとには平穏な日々が訪れます。でもやはり、すぐに退屈になってしまいます。
現世であれほど願っていた平穏なんてのはこの程度のものだった。
そうしてまた、賑やかな世界に嬉々として身を投じようとするわけです。

そしてその際、私たちは、さらに楽しめる仕掛けを自ら選択します。
それはつまり意識と記憶の閉鎖です。
消すわけでなく、無いことにする。
存在しているのだけど、繋がないようにする。

生まれてくる時にあちらの心のまま来てしまうと、ネタバレして興醒めになってしまいます。
それどころか、生きること自体ままならなくなる。

たとえば、もしそのまま向こうの心で映画を観ると「これはスクリーンに映る画像にすぎない」となります。
実に冷め切ったクールガイの誕生です。

それが叶えば、人生に一喜一憂などせず、心もいちいち波打たずに済むかもしれません。
不安や心配からも完全解放されるでしょう。
その代わり、感情移入もできず眺めているだけの状態となります。

そんなものはすぐに飽きてしまう。
そんなことするために来たわけではない。

さらにタチの悪いことに、飽きるだけでは済まず、その場に居ること自体がしんどくなってしまう。

冒頭の話を思い出せばその気持ちが分かるかと思います。

何の変化も無い、何の刺激も無いと、私たちは耐えきれず逃げ出したくなってしまいます。

外と内の交流が枯れるとエネルギー切れの酸欠状態になっていく。
だから、どこか別のところに刺激を求めに、無意識のうちに、移動したくなるわけです。

私たちは映画を観に来ています。     
そして、映画に来た目的は物語を楽しむことにあります。
ですから、まずはそれを観る私たちを物語に没頭させる必要がある。
そして何より、スクリーンの演者には、ちゃんと最後まで降板せず演じきってもらう必要があるわけです。

普段、映画を観る時、私たちは主人公に自らを投影させて感情移入します。
それだけでも十分ハラハラドキドキしますが、そのハラハラドキドキをさらに大きくしたいと思ったら、もう映画の中の主人公が本当の自分だと思い込ませるしかありません。

これで、内発的反応は最大化できます。
ハラハラドキドキMAX、メーター振り切りです。

ただ、それだけでは、いつなんどき自らゲームリセットしてしまうか分からない。
なにせ、苦難や苦労、苦痛を盛り沢山にしたストーリーですから、最後まで完走する前に退場してしまう恐れがある。

そのためエゴが必要となったわけです。

食ったり寝たり、生きることに貪欲にならないと私たちはこの世をあっさりギブアップしてしまう。

エゴは、私たちを生かしてくれているのです。




映画を観る時に、私たちは何を求めているかというと、やはり「楽しかったー」という完走感、読後感でしょう。
ハッピーエンドや幸せ展開に限らず、感動ドラマや悲劇・喜劇、ほのぼの日常ドラマでも、それは同じです。

エンドロールが流れて来た時に、ふぅ、と幸せな息を吐けるどうか。

毎食毎食、ステーキだケーキだと好きなものばかり食べていたら飽きてきてしまいます。
幸せ展開のハッピーエンドばかりだとマンネリ化してしまうわけです。

色々なものを味わう楽しさ、そして、それができる自由さを私たちは持っています。

だからこの世は、色々なメニューを味わう人々で溢れているのです。

世の中には「実現の法則」とか「引き寄せの法則」とかありますが、そんなものを使って追っかけようとしているのは、脳みそが考えだした楽しさや悦びでしかありません。
いやそれ以前に、誰かから与えられた思い込みに過ぎないかもしれません。

今の自分が、苦しいと思ったり、人生を無駄にしてると思ったり、もっといい人生があるはずだと思ったりしたとしても、それは今この氷山の一角が考えていることに過ぎないわけです。

映画館の向こうの私たちは単純に「あー楽しかった」というのを求めています。

実現の法則で「こうなりたい」と思い描いたストーリーがそのまま実現したとしても、それはエゴの悦びであって、私たちの芯の部分の悦びではありません。

そんなんでは、この世を去る寸前まで「いやー、上手く行った、楽しかった」と自分では思っていたのに、エゴから離れた瞬間に「もったいないことした、次はこういうのは無しでやり直そう」ということにしかならない。

昔から、輪廻転生は苦しみだと言われますが、その理由はまさにここにあります。

人間脳の考えたことに振り回されて人生を過ごしてしまったことを悔いて、また次の作品を求める。
でもその作品でもまた同じことを繰り返してしまう。
そうして、再度オーディションを受けて、やっとまわってきた映画でもまたも同じことを繰り返してしまう、、、

輪廻転生から抜け出せないことが苦しみなのではなく、執着から抜け出せないことが苦しみなのです。

執着は、私たちの自由を奪います。
だから執着に縛られた人生を歩むと「もったいないことしたー!」と悔いて、「よし次こそは!」とポジティブに思うわけです。

別に自分を責めたり、落ち込んだり、そういう感じでやり直そうと思うのではありません。
クソ真面目な自戒でもないし、ましてや罰則なんかではない。
そこにあるのは純粋に期待感だけです。

自分がダメ人間だなんだと、真面目に悶々と考える話では全くありません。
ポイントはそこではないのです。

ここに輪廻転生が苦しみだとか、衆生は度しがたいとか、おかしな発想が出てくる理由があります。

合格点を取ればいいという世界ではないのです。

自分で自分を評価する必要はありません。
等生をやめないと大切なことが見えないままとなります。

求道心が過ぎると迷宮に入って同じことの繰り返しとなってしまいます。

輪廻の永久地獄(?)から抜け出すために執着を無くそうなどと考えると、それがまた執着となって本来の自分自身の自由を奪うことになります。

エゴは肉体を生かすための利己解釈エンジンを決して止めることはないのです。
そして私たちはこの世に生きるかぎり、そのエゴと離れることはありません。
つまり、何がどうなったところで、私たちの頭の中には必ずエゴの反応は浮かび上がってくる。それを消し去ることなどできないのです。

それをゼロにできたら解脱だなんてナンセンスなわけです。
ゼロになるのはこの世を去った時だけです。

ですから、私たちが出来ることは、頭に自己中心的なことが浮かんでもそれに慌てたり否定したり流されたりせず、はいはいソレね、とスルーすることだけです。

それが解脱といえば解脱かもしれません。
だったら、エゴが反応するたび何度だって解脱すればいいだけのことです。

一度解脱すればあとはラクチンな世界が待ってるだなんて甘い期待は今すぐ捨ててしまいましょう。

そこを履き違えて、煩悩(エゴの反応)を無くすことが目的となってしまうと、もうこれは迷宮入りもいいところです。

だって煩悩そのものは絶対に無くならないのですから。

しかし真面目が過ぎると、
「執着となる対象を目の前から無くそう。よし里を捨てて山籠りだ。(それから五年後…)ご馳走が無いから下品にがっつくことのない俺。合格近し!」
なんてことにもなりかねない。

見た目だけ100点を取ったところで本質は何も変わりません。

結局、死に臨んでそのことを悔いて、やはりまた生まれ直すことになります。
里から逃げず世の苦しみをしっかり味わいつくせば良かった、ご馳走を求めてがっついとけば良かった、となるだけです。

じゃあどうすればいいんだ、という話になります。
何をしても救いが無いじゃないかと。

そんなことはありません。
解脱なんかに目的を置かなければいいだけの話です。

執着上等です。
エリート意識なんか捨ててしまえです。
自分なんぞ、たかだかそんなもんだろと。

そもそも、輪廻転生が良くないものだとするからおかしくなる。

もともとその発想は、生きることは苦しいことなのでそこから卒業したい、という考えに端を発してます。

それというのも1000年も前に、生きること自体が苦しい時代がありました。
まさに生き地獄です。
それでもリタイヤはダメ、とにかく何がなんでも完走させなくてはいけないというのは絶対です。
だから方便として、解脱や輪廻転生というものが説かれました。

先々のことに夢を描き、それをモチベーションとして、人々はなんとか今世を生き切ったわけです。

それはそれで、その時代には必要なものでした。

ただ、お釈迦様はあの世のことを一切語っていません。
ましてや来世のことなど尚更です。

そのことを聞かれても決して答えませんでした。
下手に説いてしまうと何が起きたか、火を見るより明らかです。

遠くに囚われてしまっては何の意味もない。今は今しかない。いま目の前に集中することこそすべて。

ですから、先のことなど考えるだけ無駄。
むしろそんなことすればするほどアリ地獄。
「輪廻転生したくない」ではなくて「輪廻転生したっていいじゃん」と、そう考えれば万事解決なのです。

食べることが大変ではなくなった現代において、輪廻転生からの卒業に憧れるというのは、ことさら執着が根深いかもしれません。
なぜならそれは単に優劣意識に根差している可能性が高いからです。

レベルアップできない人が輪廻転生するだなんてトンチンカンなことです。

この世に生まれることや輪廻転生することがいけないことダメなこと、苦しいこと、負け組だとか思うからややこしくなる。

そうではない。

映画館の席にいる私たちは、ただただ「楽しみたい」だけ
だから、なんだっていいんです。

これが合ってるのか間違ってるのか、そんなことはどうだっていい。

本当にここで大事なのは、たとえイマイチな日々、不本意な日々であっても、そこに集中するということです。

「今と違う景色が他にあるかもしれない」「このままでいいのだろうか」なんて浮気心を起こす必要はないのです。

禅寺の作務のように、目の前の掃除、目の前の食事、目の前の日々だけに集中する。
それこそが「あぁ、もっとこうしとけば良かった」という思いを残さずに済むことになります。

こうしておけば良かったというのは、「こうしておけばもっと上手くいってたのに」ではありません。
「こうしておけばもっと面白かったのに」です。

もっと上手くやれたのにという後悔は、死んでエゴを離れた瞬間に跡形もなく消え去ります。
もっと面白く楽しめたのにという後悔が、次また生まれ直すことになります。

人生に成功したかなんてのは全くどうでもいい。
あの時エゴに流されてしまったかどうか、執着してしまったかどうか。
それこそが心残りとなります。

ですから、今この私たちは、どこか遠くにある幸せを追う必要はないのです。

たとえ平凡な日々であろうとも、あるいは無茶苦茶な日々であろうとも、誠実に目の前のことに集中して過ごすことが、映画館の私たちの悦びとなります。

それでもなお、本当にこれでいいのかと不安があるならば、それこそ実現の法則を使ったり、あるいは神社の境内で手を合わせて、こう祈ればいいのです。

「(今は分からなくていいので)死んだあとに楽しかったーと思える人生を歩ませて下さい」

これで安心。あとは目の前の日々に集中するだけです。

映画館の私たちが楽しいと思うような展開をお任せしたので、もう何の心配もありません。

何度も言いますが、それはジェットコースターのような展開かもしれませんし、変化の少ない日々で終わるかもしれません。あるいは悲劇と不幸のオンパレードかもしれません。
どれが楽しいと思うかは、映画館に入ったその人のその時の気分によります。
他の人と違うのは勿論、自分の中でも一貫性なんてありません。

昨日はカレーの気分だったけど、今日はラーメンの気分。
その程度のものです。
ましてやそれが他人となれば、食べたいものが違って当たり前。

本当はラーメンが食べたいのに、誰かと同じ高級フレンチを頼もうとするのは単なる見栄というものです。
食事というのは、見栄のためでなく、喜びのためにするものですよね。

一度おまかせしたからにはあとは一切疑わない。
どんな展開になっても、それが私の本体の望んだところだと信じきる心です。

「それでも、もしかしたら気づかないまま今の形に執着してしまっているかもしれない…」と不安に思う時こそ、そのこだわりを手放せば大丈夫。
様々な執着というものはすべてが繋がっています。
目の前の執着をなくせば、遠くの執着も薄れていきます。

「おまかせしたからにはあとは大丈夫」

その諦めこそが、あらゆるこだわりを解かし、自然とレールも自動修正されていくことになるのです。





(つづく)




色々なことに気づくとき 2

2020-08-01 11:00:00 | 天地の仕組み
私たちは、自ら積極的に観る立場にあります。
観させられるという受け身の立場にはありません。

与えられることに慣れてしまうと、まわりの景色が何も見えなくなります。
与えられた情報、与えられた悦楽は、与えられた世界を作ることになります。

本当の世の中とは何なのか。
本当の悦びとは何なのか。

世の中には情報や悦楽が溢れかえっています。
そうしたものをシャワーのように浴びていると、私たちはあちこち心が移ろい、見知らぬ誰かに身を任せる根無し草となっていきます。

しかしそれが、コロナによって世界中で強制的に自宅に籠らされました。

それまで自由を謳歌していると思っていた身にとっては、まるで座敷牢にでも入れられたような鬱々とした気持ちになりました。
しかし、それこそは自分の景色を直視させられた瞬間だったわけです。

これまでの自分の生き方、過ごし方がどういうものだったのか。
当たり前と思ってきたことがどういうものだったのか。

私たちのまわりに溢れていたものは、与えられたものだったのではないか。

コロナ前の状態を当たり前と考え、あの日々に戻りたいといつまでもこだわっていると、目に映る世界は変わらぬままとなります。

今は、まさに禅寺のように「(執着できる)自由を奪うことで(執着しないという)本当の自由を得る」状況にあります。

まさかこのような「ただ自宅に居るだけ」という超シンプルな方法で内面が炙り出されることになろうとは誰一人思わなかったことでしょう。

コロナ前に追っていた悦びというのは、本当に自分が求めたものだったのか。
与えられた刺激を悦びと感じ、それを求めていなかったか。

もともと刺激を求めるのは人間の本能なので、それ自体がダメなことではありません。
ただ、本来それは私たちの内面から湧き上がる衝動によってもたらされるものです。

たとえば好奇心や探究心は恐怖や苦労を駆逐します。私たちのご先祖様は、命懸けで狩りをしたり、あるいは未知の世界を開拓したりしてきました。

そうした内発的な刺激と、与えられる刺激とでは天地の違いがあります。

口を開けて流し込まれる日々を過ごすと、そのまま中毒者になってしまいます。

水の中にいる魚は水の存在に気がつけません。
それが非常事態宣言により、私たちは強制的に水から引きずり出されました。

最初はあれが欲しいこれが欲しいと頭に浮かんでいたのが、数ヶ月もクスリを抜かれると健康な体に戻っていきます。
そうして最後、本当に欲したものは何だったか。

それは、人との繋がりだったのではないでしょうか。

離れた両親との連絡。
何十年ぶりの友人との再会。

パソコンを通じたリモートなんちゃらが一気に流行りました。

刺激というのは自分一人では起こすことが出来ません。外との関わり合いの中で生じます。

私たちはこの世に、様々な内的反応を得るためにやってきました。
色々な体験をして色々な思いを発するために、日々を生きているわけです。

そうした私たちや万物が集まったものが天地宇宙なのですから、平たく言えば、内的反応(データ)の集積が天地宇宙の生成発展そのものだと言えます。

正義と悪のどっちが正しいとか、ポジティブとネガティブのどっちが正しいとか、そんなものは浅瀬の話でしかないということです。

もちろんそれ自体が駄目と言ってるのではありません。動機付けとしてそれらは大切なものです。
そこから様々な体験が生じ、様々な内的反応が生まれます。
ただ、大切な要素ではあるものの、絶対視するものではないということです。

イデオロギーや理念、信念といったものは浅瀬のオマケにすぎません。
一方、人と人の交流はもっと根源的なものです。

外部刺激の最たるものは人との交流であるわけです。

いい人ばかりではなく、苦手な人、嫌な人との交流が避けられないのはそれだからです。

好きとか嫌いというのは極めて浅瀬にある判断基準に過ぎません。
様々な交流、様々な体験をすることがこの世での本来の務め。

するとこれまた、バンザイして諦めるしかないのかもしれません。





(つづく)




色々なことに気づくとき

2020-08-01 10:59:00 | 天地の仕組み
日々の暮らしというのは様々なものに囲まれ、無意識のうちにあれやこれやと心が飛びまわります。
仕事に追われてる時もそうですし、家にいる時もそうです。

目まぐるしく変わる景色。
湯水のように流れ込む情報。
そんなこんなに振りまわされ翻弄される自分。

そうなると週末はとにかく家から出て、どこか遠出しようとするのは人間の本能だと言えるでしょう。

目が回るような日々のまま土日も家の中で悶々としていては、体は休めても心は休めず、エネルギーが枯渇していくばかりです。
気持ちの切り替え、リフレッシュはとても大事なことです。

そうしたリセットの一つに、たとえば喧騒を離れ山奥の禅寺に籠るというものがあります。

寺に行って何をやるかというと、特別なことをするわけでなく、ごく当たり前の生活を繰り返すだけです。
炊事や掃除、坐禅といった単純な作業を黙々と繰り返すだけ。

山の禅寺に入ると携帯電話も何もかも没収されてしまいます。
そうすると、あれをやらねばこれをやらねば(=あれをやりたいこれをやりたい)という強迫から解放され、目の前のことしか存在しなくなります。

LINEをやりたい、メールをやりたい、ネット情報をチェックしたい…
携帯を奪われるとウズウズするものですが、最終的にはそれが実は「やりたい」ではなく「やらねば」だったことに気がつきます。

普段、私たちは、押し寄せる波、その次の波、その次の次の波と、際限なく考えてしまいます。

なぜそうなるかというと、どこまでも続く波に対処していかないと平穏は訪れない、落ち着くことができないと思い込んでいるからです。

外が落ち着かないと自分も落ち着かない。
平穏を求めるあまり平穏を失ってしまっているわけです。



ただ、それも意識を変えればガラリと変わります。
今ここに来ている波が一つだけであることに気がつくのです。

次々と押し寄せる波が連なっていたとしても、たとえばその映像を一時停止すると、それらが単に遠くの景色に過ぎないことが分かります。
停止画面の中では、足元に来ている波は一つだけです。

たとえ複数のトラブルが同時に起こったとしても、今この瞬間というのは一枚絵です。

今ここに存在する私たちにとって、今できるのは、その一枚を見ることだけです。
ですから、私たちはその一枚だけに集中すればいいのです。

何枚も先の絵のことは、そのときに任せておけばいい。
今は、今の絵だけを見ていればいいのです。

また、目が移ろいやすい理由の一つに、今この一枚絵と、次に寄せてくる一枚絵が、ほとんど同じものに見えるということもあります。
似たような作品があるとチラチラ目移りしてしまう。
それらが全く別の作品であることをしっかり理解すれば心も落ち着いていきます。

美術館でモナリザとピカソの絵が並んでいた時に、隣の絵に目移りすることはないはずです。
一つ一つじっくりと鑑賞するでしょう。

今のこの一枚絵も先ほどの絵とは全くの別物です。一からすべてが新しいものです。
映画フィルムの一コマ一コマはそれぞれ独立して存在していますが、それと同じです。

人生というのは、まさに私たちが美術館に行って一つ一つの絵画を鑑賞していることに喩えることができます。

目の前の一枚絵を見る。
一歩あるいて、隣に飾られている一枚絵を見る。
その連続が一秒となり一日となるわけです。

本当の美術館を想像してみましょう。
ある絵画を鑑賞している時に、何枚も向こうに飾られている絵画をチラッチラッと横目に観ている姿は、なんとも残念なものではないでしょうか。

いや、目の前の絵画が落ち着かないから落ち着く作品を探しているだけだ。
何かは分からないが今ここに無い名画があるはずだ。

確かにそういう入館者も美術館には居るかもしれません。
でもそれは素人であることが丸わかりです。

私たちは誰しもみな、美術館巡りのエキスパートです。
何百回、何千回も美術館を訪れて色々な作品を堪能してきました。

私たちの本体というのは、見ため派手な作品だけに飛びつくような初心者ではないのです。
色々なジャンルの作品をじっくり鑑賞する、目の肥えたプロです。

私たちは、人生の達人、生きることのプロフェッショナルなのです。

そもそも美術館の中というのはシーンとした静けさに満ちています。
物凄い大嵐の絵画がそこにあったとしても、美術館の中は静かに落ち着き払っています。
それを観る私たち自身も落ち着いています。

私たちはじっくり落ち着いて作品を鑑賞しています。

世界というのはバタバタと大波のように揺れているように見えますが、実際はシーンと落ち着ききった世界です。
私たち自身も落ち着ききった存在です。

だからこそ、その一枚をじっくりと味わえる。
目の前の一枚に、驚いたり悲しんだり、素直な心になれる。

でも私たちは、先々の波に心が揺れに揺れ、まるでまわりの世界が激しく揺れてるように感じている。
そんな自らの心の揺れに、驚いたり悲しんだりしています。

ここは美術館。作品を観る場所です。
フト我に帰れば、そこは静かな世界であることに気がつきます。

目の前には先程と同じ、嵐の一枚絵が存在していますが、どこまでも静かな世界が広がっています。



禅寺では、世界をシンプルにさせることでそのことに気づかせてくれます。

次々と押し寄せる波にアタフタと翻弄されるのではなく、いま目の前に来た波に黙々と対処する。

私たちが自分の心をどこに置くかで、私たちの心は大きく変わります。

押し寄せる波に置けばアタフタとなりますが、今ここに置けばシーンとなります。
縛られた心になるか、自由な心になるか分かれるわけです。

社会から分断された禅寺というのは「何もできない」世界ではなく「何でもできる」世界だと言えます。

私たちの日常というのは、テレビやパソコンから様々な情報を自由に得られるし、携帯電話で誰とだって繋がるし、また交通手段でどこにでも行けるため、何でもできる自由な世界だと思っています。
しかし実際は、そのように押し寄せる波に追われアクセクする日々となっています。

いくらでも選択はあるのに、一歩横にズレる心の余裕がない。
もし今そうしようものなら、次々と押し寄せる波に一気に飲み込まれてしまうだろう、、、
そのようにして、私たちは結局同じことを選択し続けています。

しかし心ひとつで、今この瞬間から「何でもできる世界」になります。

流れ込む情報、携帯やテレビ、そうしたものは遠くに見える波に過ぎないわけです。

一日で何百人も感染者が出ました、ワーワー大変だー
指導者がまた悪いこと企んでる、私たちは被害者だ、ワーワー

そんなのは赤の他人が描いた、遠くの波でしかない。そんな雑音にいちいち心を置く必要はない。囚われる必要はないのです。

それでもどうしても遠くの波まで気にしてしまうのは何故なのか。そこを理解しないとこのイタチごっこは終わりません。

その理由は、あの波にやられたら大変なことになるかもしれないという不安にあります。

あの波が自分の足元に来た時にツラい状況になるかもしれない、だから前もって身構えておこうと。

ツラい状況、苦しい状況、悲しい状況、そういうのは嫌だ!というのはエゴの条件反射によるものです。
この肉体を存続させることがエゴの使命ですから、少しでもそれを危うくさせることに過剰反応を示すわけです。

そして「最悪の場合、命を危うくさせるかもしれない」という遠大なストーリーを作りだして、自らを正当化します。

この「ツラくなるのは嫌だ!」という思いこそが、私たちを縛りつける全ての元凶となっています。

ツラい状況になりたくないという思いが、私たちをツラい状態に貶めているわけです。

そうなると、この解決法はたった一つしかありません。まったくもって単純明快。シンプルこの上なし。

それは、、、

「ツラい状況は嫌だと拒絶しない」ことです。

ツラい状況をツラいと思うな、ということではありません。
ツラいことをツラいと思う、嫌だなぁと思うのが素直な心です。

要は、ツラい状況は嫌なんだけども、でもツラい状況になったらなったでそれはもう仕方ないと、諦める、バンザイしまうということです。

なんだそりゃ?という話です。
まったくもった当たり前の話ですが、それしかないのです。
すべては、そこからになります。

それができれば世話ない、それができないからツラいんだ、となるでしょう。
方丈記の頃からそうでしたし、仏陀の頃からそうでした。
遥か昔から私たちは、この世というのは生きにくい世界だと悩み苦しんできました。

でも、理屈として分かることですが、ポツポツと新たに現れる波に対して、心を向けてジーッと気にし続けたところで、その波が消えるようなことはありません。

波自体がどう変化するか風まかせなのですから、こちらがどう舵を切ったところで、ぶち当たるものはぶち当たりますし、当たらないものは当たらず通り過ぎていくのです。

とんでもない大波が遠くに見えたら、そりゃ回避しようと足掻くのが正直というものです。
ギリギリまで足掻く。

でも結局はどんな波であろうと自分の足元に届くまでは、いまだ自分には縁の無いものであるわけです。
逆に、足元に届いた波はすべて縁あってぶち当たった。

来るべくして来た。
嫌は嫌だけれども、仕方ないわけです。

生きるために必死に足掻き、回避しようとしつつも、そうなったら仕方ないという割り切りの心を持っていることが、先々の波に囚われないコツとなります。

そうなると先々の波は、絵画に描かれている遠くの景色となります。
無視するということではなく、冷静に眺められる状態となります。

そうして初めて、足元に集中となります。

遠くの波が命を危うくするような大きさならば、回避のためにいま出来ることに集中します。
連なる波が単にストレス程度のものならば、ただ足元のいまやること、いま出来ることに集中します。

いま出来ること。
いまやること。
この世界に存在するのはそれだけです。

これに気づかせるため、禅寺では無意味なことに没頭させます。

綺麗な廊下なのにこれ以上雑巾をかけて何の意味があるのか?
何も落ちていない庭なのにこれ以上ホウキを掃いて何の意味があるのか?

意味や理由というものをとことん排除するために逆のことをやり尽くす。これも方便です。

綺麗にするため雑巾をかけるというのは、逆算の行動です。
落ち葉が積もってからホウキで掃くというのは、綺麗になった庭を目的とした行動です。

今というのは、将来の姿から逆算して決まるのではありません。
将来の何かのために今を縛るということでは無いのです。

磨くこと自体が目的。掃くこと自体が目的。
未来を見て歩くのではなく、今を見て歩く。
今のために、今やる。

そうしているうちに心は落ち着き、広がっていきます。
すると不思議なことに、大切なことが見えてくるようになる。これまで気づかなかったことが心に映るようになってきます。

特別な何かをやって特別な何かを得るという話ではありません。
当たり前のことをやって当たり前のことを知るのです。

天地宇宙には「今」しかありません。
未来も過去も、本当の意味で「今」の中にあります。
だから心配しないでも、いや、心配するのであれば尚更のこと、「今」の目の前だけに集中です。




(つづく)