これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

「全」にして「個」(2)

2016-02-28 16:51:23 | 天地の仕組み
私たちというのは、広大無辺な天地宇宙そのものです。
そして、今この姿というのは、そこに切り絵を乗せたものに過ぎないという話をしてきました。

そうなりますと、この世の死というのは、その切り絵が無くなることを意味します。
切り絵が無くなろうと、私たち自身は相変わらず今ここにドーンと在るままです。
それまでと何も変わりません。

長いこと窮屈なところに顔を押し込んでいたのが無くなったわけですから、一気に軽くなって、急に大きくなった
ように感じるかもしれません。
最初のうちこそ、観光パネルに押し当てていた跡が残ってますので、この世の姿形のままでいるかもしれませんが、
跡が消えていくにつれて全体に溶け合っていくことでしょう。

たとえば、自分の腕に何かをギューと押し当ててそれをパッと離すと、その跡が皮膚に残ります。
その部分だけ、まわりの皮膚と違う形になります。
そして時間とともにスーッと跡は消えていき、まわりとの境目もなくなり、元の状態に戻ります。
これと全く同じです。

私たちは共通の決めごととして、パネルに顔を突っ込んでいる状態を、本当の自分ということにしようと、お互いに
了解し合っています。

夢の国に行った時は、着ぐるみのミッキーを見てそれが本物ということにしておいた方が、幸せに楽しめるというもの
です。
もともとはそういう遊び心だったのです。
ただその薬が効きすぎて、着ぐるみの世界にドップリ浸かって苦しんでしまっているのが、今の私たちです。

頭の思考というのは、実は、切り絵と同じ平面上に存在しています。

ここでいう思考とは「自我から発せられる思考」のことですが、細かく書くと分かりにくくなってしまうので、一先ず
ひとくくりに「思考」と書くことにします。

あれこれ思ったり考えたりした途端、私たちは私たち自身(広大なテーブル)から離れて、切り絵の平面へと移動して
しまいます。
次々とスライドしている切り絵の上に乗っかって、意識は慌ただしく過去や未来へとポンポン飛んでいきます。

過去や未来というのは、天地無限に広がる本当の私たち自身ではなく、ただの切り絵に過ぎません。
しかしあたかもそれが、今ここに在る私たち自身と同一のものであるような錯覚に陥ってしまいます。
そうして、悶々と悩んだり心配したりしてしまうわけです。

わずかでも思考した瞬間、私たちは、今ここ(=天地宇宙、私たち自身)から離れてしまいます。

思考が切り絵の次元に存在しているということは、「今ここ」に戻るには思考を手放す必要があるということです。
思考によって今ここに戻ることはできません。
意思や作為が働いているうちは、“今ココっぽい切り絵”に戻ることはできても、下に広がる次元に戻ることはできない
のです。

思考を手放すための方便は、これまでも色々と書いてきました。

・一心不乱にやる
・一所懸命になる
・100%集中する
・リラックスする
・完全に諦める
・ほっとく
・受け入れる
・ハシャぐ
・笑う
・身体を動かす
・感覚に耳を澄ます
・深い呼吸をする
・真善美に触れる
・全てを信じきる
・任せきる…

あらためて見ますと、どれもこれも子どもの頃は当たり前にやっていたことなのに、今ではすっかり疎遠になったもの
ばかりというのが、悲しいかな、ナルホドなという感じです。

さて、ここまで切り絵に喩えて自分の姿を追って来ましたが、それというのは当然、自分以外の人たちにも当てはまる
ことです。

誰もがその本体は私たちと同じ広大無辺のテーブル(大いなる一つ)であり、みんなもまた切り絵のパネルからヒョイ
と顔を出しているということです。

切り絵の向こうには、天地宇宙が広がっています。
それは人間に限らず、動物にせよ草木にせよ、みんなそうであるわけです。
どの切り絵も、みな同じ一つのテーブルの上に置かれたものです。

私たちの目に映る全ては、観光パネルの穴からヒョイと顔を覗かせている天地宇宙そのものであるのです。
まったくもって、山川草木悉有仏性です。

そしてそのテーブルこそは私たち自身でありました。
つまり、天地のあらゆるものは私たち自身でもあるということです。

仏性というのは、まさしく私たち自身のことなのです。



それにしても、なぜ私たちはわざわざそんなややこしいことをやっているのでしょうか。

その理由というのは、前回の冒頭にも書いた通りです。
それは、まさに笑点の演芸そのものであるわけです。

舞台の上で、様々な切り絵をササーッと切り取る。
出来たものを見て、オーッとドヨめくこともあれば、ゲラゲラと笑いが起こることもあります。
あるいは、なかなか上手くいかずにウーンと苦労している姿を、固唾を飲んで見守る。
これもまた一興ということです。

んなアホな!?
命ってそんな軽いもんちゃうやろ?
もっとスゴいことするためのもんちゃうの??


そう思われる方もいるかもしれません。
別にそれが「軽いもん」とは思いませんが、でもそういうことです。

もちろん、命というものは途轍もなく尊いものです。
それは疑いようのない事実です。
ただ、その事実をそのまま全て切り絵に乗せてしまうからシンドくなってしまうのです。

命というものと今回の切り絵というものを完全に同一視してしまうと、今回の切り絵をとにかく凄いものにしないと
見合わない、命に申し訳ないという思いが芽生えてしまいます。

そしてそれが満たされないことの不足感や劣等感、挫折感というものが自分を卑下する原因となってしまいます。

自分はまだ足りていない、ダメな部分がある…
そうして、そのままの自分を無条件にオールOKで受け入れることに抵抗を覚えてしまうのです。

しかし、命とは永遠に変わることなく今ここに在るものです。
切り絵がどうなろうと、何も変わらず静かに広がったままでいます。

その全てを切り絵に乗せてしまうというのは、それこそ無茶な話です。
それはそれ、これはこれなのです。
見合っていないとか、申し訳ないと思うこと自体が、現実無視の一人相撲なわけです。

現実というのは、大きな大きな自分が、この切り絵をフンワリと優しく包んでいます。
この切り絵が凄いか凄くないかなど、本当にどうでもいいことなのです。

そして、凄いとか平凡とかいう判断こそは、まさしく人間の考えが生み出すものに過ぎません。
どれほど目立とうが、どれほど地味だろうが、所詮は同じ切り絵なのです。

もしも誰か他の人物の切り絵を見て、凄いとか羨ましいとか感じたとしても、そう思っているのは今この切り絵に
乗っかっている自分なのです。
思考は常に切り絵の次元にあります。
切り絵が、他の切り絵に成りたいと思っても、そんなのはハナから無理な話であるわけです。

その大奥に鎮座している広大無辺な自分は、そんなことはつゆも思っていません。
何故なら、あっちの方でその切り絵を覗いているのも自分だからです。

もちろん、夢や憧れはとても大事なものです。
よし自分も頑張ろう!というのは大切なことです。
しかし「それに比べて今の自分は…」と比較が入ってしまうとおかしなことになってしまいます。

あらゆる雑音には脇目も触れずに一所懸命やるというのは、本当に素晴らしいことです。
そこには理屈も定義付けも必要ありません。

ただ、やる。
一心不乱にやる。

第一、「壮大なことを成すために一所懸命やるのだ」なんておかしな話でしょう。
脇目を触れまくりです。

でも固定観念とはそういうものです。
無意識下であっても何かしらの思いや考えが残っていると「今ここ」に完全な集中はできません。
「一所」に懸命にはなれないということです。

あれこれ考えて出来上がった理想像に押し潰されて落ち込むというのは、とても悲しい状態です。
そんなものは「今ここ」とは関係のない、空想の世界、ファンタジーの世界なのです。
切り絵と同じ平面上の、思考の産物に過ぎません。

そんな幻想に振り回される暇があったら、とにかく今の目の前のことを淡々とやるだけです。

どうしても空想の産物に囚われてしまう時は、壮大なことにせよ、素晴らしい自分にせよ、それとて遊びの延長に
過ぎないと考えてみるのもいいかと思います。
凄いことを成すのも、あるいは凄い自分というのも結局はみんな切り絵なんだよ、と。

思考をもって思考を制す、です。
分かっていても手放せないなら、上書きをして、見た目を軽くしてしまう。
そうすれば、何のためらいもなく自然にポイと捨てられるでしょつ。

それに、切り絵に過ぎないという遊び心があってこそ初めて、壮大なことが成せるとも言えます。
「凄いことをするのは実に重々しいことなのだ」という思い込みは、その実現を遠ざけることにしかなりません。
切り絵に、重いも軽いもありません。
そこには等しく、楽しさがあるだけです。

力みを抜くといっても、適当にやっていいとか、怠けていいということではありません。
ナチュラルに楽しければ、真面目もエエ加減も関係ないということです。

本当に楽しんでいる姿が、もし誰かの目にはエエ加減なように映ったとしても、そんなものは気にする方が無駄という
ものです。
その誰かの目というのは、結局は切り絵に乗っかってる視点でしかないからです。

また、白い紙をチョキチョキと切っているのは、私たち自身です。
だから、時間も空間も自分が創造しているという話にもなってきます。

どのように切るかは自分次第ですから、この世というのは本来は自由自在です。
ただそこには、今回はこのアトラクションで行こうと、自ら決めて来ている部分もあります。
また、我欲のまさった紙切りは、エッジの尖った雑な切り抜きにしかなりません。

若い頃はイケイケでガツガツした切り口となりますが、歳を追うごとに我欲は薄まり円やかな切り口となります。
我欲が薄まるにつれて力が抜けて、天地の呼吸、天地のリズムに乗った切り方になっていきます。
それは、「こうしたい」「こうありたい」という主張のない透明なものとなります。

ですから、理屈としては全取っ替えも可能ですが、自ずと範囲が決まってくるということです。

ただ、かなりの範囲まではカッティングが出来るのもまた真実です。
それだけの自由を与えられているのに、自分で勝手な制約を決めつけてしまうのはもったい無い話であるわけです。

いずれにせよ、切り絵の形を好きだ嫌いだと考えているうちは、自分の中心は切り絵の世界へ囚われてしまっている
ことになります。

紙の切り方やテクニックを鍛えるよりも、まずはそこから一歩下がってフッと一息つく。
そこでこの全景を見てしまったら、ブハハと笑って、ハサミをガチガチに握っていた力みも抜けることでしょう。
そうして今一度、軽く持ってその穴から覗いて見るということです。

ただ決して忘れてならないのは、そこから顔を覗かせているのは間違いなく私たちであることです。
ですから、所詮は切り絵だといって、この現実世界や自分というものを軽んじることは絶対にあってはなりません。
それは結局は、本当の自分を軽視していることになってしまいます。

私たちがわざわざ全てを忘れて来ているのは、この壮大なテーマパークを芯から楽しむためでもあり、また“初めての
おつかい”を再現するためでもあります。
おっかなビックリもまた喜びの裏返しなのです。

この世を軽んじて、下敷きの世界にばかり心を向けているのでは、乳離れできない現実逃避のお子様でしかありません。

すべてを分かった上で、あらためて楽しみきる。
この世に100パーセント心を向けることが、私たちが今なすべきこと
です。

全景が見えたあとも、現実のパネルは何も変わらないかもしれません。
これまでと同じように、雑多な仕事暮らしや平凡な生活が続くでしょう。

ただ、この世の自分が全てだと思いこんでそこに埋没するのと、全てを
分かって没頭するのとでは、見た目が同じでも天地ほどの違いとなります。

悟ればたちまち聖人君子になるというものでもありませんし、生活が一変するというものでもありません。
おんなじように、一庶民の生活が待っているだけです。

でも、それに対する自分の感覚は驚くほど軽やかになっているはずです。
それこそはこの切り絵をそのまま受け入れた瞬間であるわけです。

そしてそれは、爽やかな優しい風となって、その切り絵から漂い出ることでしょう。


(おわり)




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「全」にして「個」

2016-02-26 08:22:06 | 天地の仕組み
寄席などで見られる演芸の一つに、紙切り(切り絵)というものがあります。
ハサミで白い紙をスーッと一筆書きに切っていくと、そこにシルエットの人物が浮かび上がるというものです。

紙切りには、切り取った紙が作品となるパターンと、切り落とした空間が作品となるパターンがあります。

特に後者は、紙ではなく空間の方が主役になるというのがとても振るってて、黒い板の上に切り絵を乗せた瞬間、何も無い
部分にパッと命が宿るのはちょっとした感動すらあります。

そしてこれというのは、まさにこの世の実相を現したものでもあります。

私たちの現実世界が白い紙だとすると、本当の私たちというのは下敷きとなった黒い板ということです。

私たちの実体とは天地宇宙そのものです。
それは、どこまでも行っても終わることのない、広大無辺のものです。

無限でありながら、見た目には何もない状態。
それはまさに宇宙に遍満する、実体のないダークエネルギーです。
下敷きとなっている黒い板とは、この無限に広がる天地宇宙であるわけです。

そこにハサミで切り抜かれた紙をスッと重ねると、たちまち私たちが浮かび上がってきます。

そしてその切り絵が次々とチェンジしていってコマ送りになっているのが、この世の現実ということです。


以前に「私たちは映画のコマ送りの中に自身を投影させて疑似体験している」と書きましたが、それは決して私たちが
コマの中に閉じ込められて動き回っているということではありません。

私たち自身というのは、そのコマよりも遥かに大きく天地無限に広がっています。
そこに切り抜いた紙を重ねることで、一つのコマができているだけです。
切り絵の隙間から覗かせる私たちというのは、私たちのほんの一部分に過ぎません。
でも、私たちはコレが私たちの全てだと思い込んでしまっています。

切り絵の下に広がる下敷き(写真ではテーブル)というのは、何ら変化することなく、常にここに在ります。
そこに切り絵が置かれる前からそうですし、それが無くなってからもそうです。
切り絵があろうが無かろうが、そこに在り続けているわけです。

まさしく、私たちは今ここに在り続けているのです。

ただ、そこに重ねる切り絵が、一刻ごとにパッパッと入れ替わるために、あたかも私たち自身が動いてるように見えて
いるだけです。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というのは、この切り絵の方のことを指しています。

私たちは、昨日と同じ今日、あるいは先ほどと同じ今を過ごしているように見えますが、それは寸分たがわぬ切り絵を
セッセと作っているからです。
同じような切り絵を作り続けると、見た目は何も変化してないように見える。
それを「河の流れは絶えずして、もとの水でも無し」と言っているわけです。

その切り抜きを乗せているテーブルは、変わらずそこに在り続けます。

便宜上「そこ」と言いましたが、それは「そこかしこ」でもあります。
一ヶ所にとどまっているものではなく、限定されたものではありません。
下敷きとなっているのは、天地宇宙のすべてが無限に連なるものです。
それは、大いなる一つ、とも言われたりしています。

先ほどの写真で言えば、下のテーブルが上下左右へ無限に広がっている状態であり、それが本当の私たちということに
なります。

そうした構図の中にあって、私たちはその切り絵の方に視点を置くことで、切り絵そのものを「空間」と認識し、それが
入れ替わることを「時間」と認識しています。

ですから、切り絵に視点を置かず、下敷きであるテーブルの方に視点を置くと、感覚は一変します。

これまで時間・空間とともに流れ続けていた私たちというのは消えてなくなり、今ここに居続ける私たちとなります。

この世というのは、ドーンと微動だにしない広大無辺な私たちに、お面をパッ、パッと当てられているようなものです。

観光地などで記念撮影用に丸い穴に顔を突っ込んでご当地キャラクターになりきるパネルが置いてあったりしますが、
まさにあんな感じのものが私たちの目の前にパッ、パッと置かれて、そこから顔を出しているような感じです。

実際、観光地で顔を突っ込めば分かると思いますが、正直あれというのは窮屈でたまりません。
でも、キャラになりきるのを面白がって、みんな割り切りながら顔を突っ込んでいるわけです。

私たちも同じです。

今この現実というのは、本体の私たちからすれば恐ろしく窮屈なものかもしれませんが、なりきって面白がっているのです。

でも面白がることや成り切っていることを忘れてしまうと、仮初めの型の中で本当の汲々になってしまいます。

ドツボにはまってグチャグチャになってしまった時は、原点に戻るのが一番です。

まずは顔を引っこ抜いて大きな自分に視点を戻して、その上でキャラになりきって面白がることを受け入れる。
記念撮影なんかしたくないと駄々こねても仕方ないわけです。
どうせやらなしゃーないんですから、そこは潔く諦めて、ゆるキャラでも何でもスッポリかぶってしまって、何ならアホに
なって踊ってしまった方がよっぽどラクというものです。

しかし、それにも増してさらに大事なことは、本当の私たちというのは今のココから一歩たりとも動いていないという
この事実です。

先ほどの観光地の撮影パネルに話を戻しますと、いま私たちの目の前にあるこのパネルは、私たちという一個人の姿形だけ
でなく、まわりの人たちや様々な存在、世界の景色すべてが描かれたパネルです。
その丸く空いたところから、ヒョイと顔を出している。
それが今の私たちです。

そのような壮大なパネルが次々と入れ替わっているのであって、私たち自身は変わらず今ここにドッシリ座ったままです。

これを、自分という個体で考えてしまうと分かりにくくなりますが、無限の広がりで考えればすんなりイメージできると
思います。

そんなものが動くはずがありません。
私たちとは、まさにそれであるわけです。

だから、「今ここ」なのです。

神道でも禅でも精神世界でも、昔から同じことを言われ続けている理由はそこにあります。

そもそも私たち自身というのは、今の此処にしか居ないのです。

「今」「ここ」に私たちは居座り続けています。
切り絵がいくらチェンジしても、それは微動だにしません。
だから、天地宇宙と一体となるのは唯一「今ここ」だけということになるのです。

「天地宇宙は、私たち自身です」
「『今ここ』は、私たち自身です」
「『今ここ』というヘソの緒で天地宇宙と繋がっています」
「『今ここ』で本当の私たち自身と繋がっています」

これまでのブログで様々な表現がありましたが、すべてはそういうことでした。



(つづく)


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誰もがみな自由人

2016-02-21 17:00:13 | 心をラクに
インフルエンザはシンドかったですが、そのお陰で、世間から完全隔離されることになりました。
それは、自分の生活習慣・生活リズムからの隔離でもありました。

普段あたりまえに繰り返すペースというものが、実は、無意識のうちに自ら作り出しているものであったことを、
水槽からヒョイと出されて初めて実感しました。

時間・空間というのは、不変のものではありません。
様々な存在がすれ違うことなく関わり合えるように、ひとまずコレというものを指標としていますが、本来は十人十色
のものです。
一つの決め事として、みんな同じものを見ていることにしているだけです。
それは相対性理論の話ではなく、現実としての話です。

そしてその時間・空間とは、外から与えられるものではなく、自分自身が創り出すものでした。

しかし実際は、時間や空間が伸び縮みすることを分かってもなお、それは自分が関与するものではなく、自分の外の
環境や条件によって変化するものだと勘違いしてしまいます。

そうすると、どうなってしまうでしょうか。

たとえば、絵を描く時や粘土細工をやる時、必ず、核となるものを作ってそこから肉付けをしていきます。
これは私たちの体が作られる過程もそうですし、星や宇宙が出来上がる過程もそうです。

時間・空間にしても同じことが言えます。

核となる中心がどこにあるかで、当然ながら出来上がるものは大きく変わってきます。
その中心を自分の外に置いてしまうと、知らないうちにオーバーペースになったり、グルグルと振り回されることに
なります。

もう少し分かりやすく言いますと、たとえば家事や仕事というものは私たちの求めとは関係なしに向こうからジャン
ジャンやってきます。
それを決まった時間の中で処理しなくてはいけないとなると、それに応じたペースでこなすことになります。
そうして目の届く範囲、気持ちの届く範囲、心の範囲というものも、それに応じた広さになっていきます。

このため、“時間も空間も自分が決めるのではなく、自分の置かれた環境によって決まってくる”と思ってしまいます。
ましてや、そこに仕事仲間や家族が居ると、足並み揃えたペースや必要な守備範囲も自ずと決まってくるものだと
思ってしまいます。

しかし、そうではないのです。

様々な環境によって判断材料が変わることはあっても、時間や空間を最終的に決めているのは自分です。
仕事仲間や家族のペースに合わせよう、守備範囲を合わせようというのも、それを決めているのは自分です。

どこまで行っても、この時間や空間を創り出しているのは自分自身であるわけです。

病み上がりでユックリしか歩けず、またユックリとした判断しかできない自分であった時、不思議と心地の良いもの
でした。
それは、この時間も空間も自分が創り出したものであることを実感した瞬間であり、自分の意思が消え去った状態、
天地宇宙のリズムと一つになった状態と言ってよいものでした。

その時の感覚とは、作為的に何かを意図して「作る」のではなく、天地宇宙の呼吸のままに自然と「創られる」もの
でした。

まわりがセカセカと動いている映像や息づかいを、これ以上ないほど冷静に見ている自分が居る一方で、自分自身
はまわりの環境には1ミリも影響されない、本当にナチュラルな状態でした。
それは自分がドッシリと動かざる山のように盤石な状態ということではなく、世の中の全てが、そよ風のように自分を
撫でていくような感覚でした。

天地宇宙の呼吸、大自然の流動というのは、同じ一つのものに帰結します。

ただその現れ方は、人やモノによって様々なものとなります。
手足の長さが違うと歩くテンポが変わるのと同じように、天地自然の呼吸にしても人それぞれに現れるペースは独自の
ものになります。

「みんなバラバラのペースでやったら、バランスよく噛み合うのは無理ではないか」「お互いが自分を抑えつつ
相手に合わせないと連携は出来ないものだ」などという疑念は、思い込みや固定観念でしかありません。

一見みんなバラバラのペースだったとしても、その出所が天地の呼吸であるならば、自ずと呼吸は合ってくるもの
です。


好き勝手やった結果バラバラになるというのは、天地の呼吸ではなく、ただ個々が自我に任せてやったからです。
そもそも相手に合わせようとか、相手を自分に合わさせようというのも「我」を出すことですから、ギチギチの
バラバラにしかなりません。

交響演奏にしても、お互いが「合わせよう」と意識しているうちは絶対に調和はしません。
形を追うことは縛りを生みます。
形を追わずにフリーな感覚へ毛穴を開ききった時、演奏者たちの心は大きな一つに溶け合います。
その時、自然に調和しているのです。

大自然というのは、多種多様な生き物に満ち満ちていて、見事なほどにみんなバラバラです。
しかし、誰が何をするでもなく、何十兆もの存在が完全に調和しています。

完全な調和とは、波立ちの無い、完全な静けさです。

もしも誰かが我のまさった呼吸をしたならば、波立ちが騒がしさとなり、凄まじい不協和音の嵐となることでしょう。

頭がリードして始動するのではなく、ただそこに在る。
在るがままに、在る。
そういうことになります。

会社や組織に属していると、求められるペースや成果というものがあるかもしれません。
それは仕事に限らず、日々に接する人々との関わり合いでも、たとえば友だちや家族との間でも存在するものです。

そうすると、相手に合わせるためや評価・結果を目指すための「時間・空間」を自ら創りだしてしまいます。
それは微調整の範囲で創れる時もあれば、かなりの無理をして創る時もあります。

ただ、どちらであったにせよ、まわりの人からすれば目の前に現れた時間・空間が事実となります。
それが当たり前のものとなるのです。
もちろんそれが定着するには、その存続、繰り返しが必要となります。
私たちは、自ら創造を繰り返すことで同じ時間・空間というものを再現し続けます。

すると、相手は相手でその時間・空間に応じた、自分の時間・空間を創造します。
その時、相手は自身に中心を置いて時空を作るかもしれませんし、中心をこちらの方に置いて作るかもしれません。
それもまた相手の習慣や信念、好みによります。

いずれにしても、相手はこちらの時間・空間に応じた自分の時間・空間を創っていますので、こちらに対してはそれまで
と同じ時間・空間の継続を無意識に求めることになります。
そうした相手の無意識の要求に応えるため、あるいは純粋に自身の信念や好みに従って、こちらもまた目の前の時間・
空間というものが同じであることを求めるようになります。

その結果、まわりの人たちに定着した自分(時間・空間)、そして自分自身に定着した自分(時間・空間)という
ものを崩すまい、無くすまいとして無意識のうちに無理を重ねてしまうことになります。

そんな中で、自分が素に戻って本当に落ち着く時間・空間を創造する、つまり、ゆったりと大きく広く過ごしたり
すると、目の前の進み方は明らかに変わっていきます。
すると、周囲の人たちがそれに違和感を覚えるだけでなく、自分自身もまた「いつもの自分とは違う」「自分らしくない」
「おかしい」とモヤモヤしてしまいます。

疲れていたり体調が悪かったりして、ペースが戻らなかったり、頭や身体が上手く回らなくなると、誰しもこの
ような感覚を経験したことでしょう。

でも、いったいどれが本当の自分のリズム、自分のペースなのでしょうか?

もしかしたら20年、30年と、中学・高校の頃から今までずっと続けてきたペースのほうが、天地自然に反した、
息(生き)苦しい呼吸だったのではないでしょうか。

自分らしさとは何なのでしょう。

コレが自分だと思っているその姿とは、本当に自然のままの素の自分なのでしょうか。
無理の上に無理を重ねると、年をとるほどに素の自分から離れていってしまいます。

もともとは天地自然の呼吸に合わせた固有のペースであるはずなのに、信念や観念によって、まわりとの調整に腐心
して画一的なペースに自らを矯正してしまう。
それは、自分だけに限らず、この世界のほぼ全ての大人たちがそのようにして社会のバランスを保とうとしている
ために、それこそが当たり前の行ないだと思い込んでしまうものです。

しかし、先ほども書きましたように、自らを抑えなければ秩序を乱したりバランスを崩してしまうというのは、我欲に
任せて好き勝手やった場合の話です。

信念や我欲に左右されず、ただ素の自分に素直にクリアに天地宇宙の呼吸を通せば、たとえ独特のペースになったと
しても周囲とのバランスが崩れることは決してありません。


必ず、周囲がそれに見合った形へと変化していきます。

類が友を呼ぶこともあれば、類が環境を呼ぶこともあるのです。

たとえば、赤ちゃんは外部の全てを信じきり、任せきっています。
彼らにとっては内も外もなく、天地宇宙のすべてが自分自身であるからです。
それは私たちが、自分自身であるこの身体を、この手を、この足を、警戒したり気兼ねしたりすることが無いのと全く
同じ感覚です。

それこそが信じきっている状態、任せてきっている感覚です。

そして、そうした赤子の姿を目の当たりにすると、私たちは無条件に手を差し伸べてしまいます。
信じきる、任せきるという心が私たちに降り注ぐと、私たちの造っている壁が溶かされ、赤児と同じ一つの心となる
からです。
つまりその時、私たちにとって相手(赤ちゃん)もまた自分の一部となるということです。
そのため、何かせずには居られなくなるわけです。

信じきる、任せきるというのは「誰々を」信じる、任せるというのではなく、自分の外の全て、「人もモノも環境も
全てを」完全に信じきるということです。

「信じきる」「任せきる」ということは、途轍もない光となって周囲に響き渡ります。

これと同じことは、大人であっても起きます。

たとえば、天真爛漫な人、無邪気な人、自由奔放な人たちがそうです。
テレビ番組で、無計画のヒッチハイク旅行を楽しむ外人さんが出てきたりしますが、言葉が全く通じないのに何故か
まわりが放っとけなくなり、手を差しのばしてしまいます。
決して食いっぱぐれることがない、そして、どうにかなる。
これもまた先ほどの話と同じであるわけです。

そうした人たちには恐れや不安が一切なく、純粋な楽しさや喜びしかありません。
それはまさに、自分の周囲というものを信じきっている状態、天地宇宙というものに任せきっている状態です。

ですから、本人には「申し訳ない」とか「助けてもらった」というような卑下た感情は微塵もなく、ただ「嬉しい」
という感覚があるだけです。
手を差し伸べた人たちにしても「助けてあげた」「手伝ってあげた」というような損得勘定や上から目線はカケラも
無く、ただ清々しさと喜びがあるだけです。
そこには、お互い一切の貸し借りは発生しません。

それこそは、この世に満ちる天地宇宙の無条件の愛と同じものです。

昔の日本はどこへ行ってもそのような感覚が見られました。
今でも下町のおっちゃんやおばちゃん、関西の人たち、田舎のジィちゃんバァちゃんなど、心がオープンな人たちは
そうです。
そして、そうした人たちは相手に気をつかわず、裏表なく自由に生きています。

お互いが自らを抑えて相手とのバランスを調整しようとすると、そこに気遣いが生まれて、申し訳なさや貸し借りの
感覚が生じてしまいます。


私たちは、パリッとした出来る人間を持続する必要もありませんし、誰ともぶつからない気づかいの人を続ける必要
もありません。

信念や我欲の雑音をかき鳴らしたり、あるいはそれを消そう消そうと自分を抑えつけてたりして、天地宇宙の呼吸を
滞らせてしまうのは、ただただ生き苦しいだけです。

全てを信じ切り、任せきった状態で、自分の素のままに現せば、そこに自分固有の時間と空間が創り出されます。
それこそが、真のマイペースというものです。

囚われも我執もない、天地宇宙の呼吸に任せたならば、周囲の人たちは自然と壁を無くしてそこへ溶け合っていくこと
でしょう。
足並みを乱してしまう、迷惑をかけてしまうなどと心配する必要はありません。
逆にそれが囚われや我執そのものになっていきます。

何もかも信じきり任せきった状態というのは、天地宇宙と一つになった状態です。
そして、天地宇宙とは愛そのものです。

愛というのは与えたり与えられたりするものではなく「状態」です。
天地宇宙に満ち満ちている、「状態」です。

何も心配せず、ただ自分の素のままをさらけ出せば、それが周囲の壁をノックすることになります。

囚われやしがらみを断ち切って自由になるというのは、ツラい仕事や人間関係を断ち切るということではありません。
今のこの環境の中で、本当の自分に素直になって、時間・空間そして自分というものを創造するということです。

それが、無条件の愛を呼び覚ますことになるのです。





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ストレスに護られて

2016-02-14 21:28:33 | 天地の仕組み
いまだインフルエンザが猛威を振るっています。
他人事と思っていましたら、私も思いっきりかかってしまいました。

忙しくて休めない時ほど招き寄せてしまうものなのでしょうか。
布団から起きあがることもできず、スポーツドリンクとゼリー飲料の生活が何日も続いてしまいました。

体力はある方だと思っていたのですが、わずか4、5日歩かなかっただけで体力の落ち方は半端ありませんでした。

ようやく動けるようになって近くの駅まで歩いてみますと、身体がうまく動かせないだけでなく、頭のスピードも同じ
くらい遅くなっていることに驚きました。

身体のスピード、頭のスピード、心のスピード、そのどれもが緩慢で、まわりと比べて明らかに遅い。
そうでありながら自分の中ではそれらのスピードが一致しているので、もどかしいという感覚は全く無いのです。
大げさでなく、人や物事、世の中の全てが1.3倍速の早送りのようにビュンビュンと通り過ぎていく感じでした。

一方で、目に入ってくる景色が狭く、気配を感じ取れる範囲も極端に狭まっていたのには閉口しました。
高熱と異物に対して、これは一大事と感じた身体が、全ての機能を治癒方向へ集中させたのでしょう。

とにかく気配をキャッチできないものですから、普通に歩いていましても、何の前触れもなく自転車や歩行者が
目の前に突然バンと現れるので、怖くて仕方ありませんでした。
ひたすら端っこの方を歩いて、できるだけ世の中の流れの邪魔にならないようにやり過ごす。
自分の身を自分で守れない現実を、まざまざと見せつけられた感じでした。

自分からはまわりを避けることが出来ない。
まわりが自分を避けてくれることに託すしかない。
つまり、まわりの心に頼るしかないという感覚です。

こうなると、理屈抜きに、謙虚にならざるを得ません。
自分の生命がまわりによって支えられているのですから、イケイケで我を張ることなどできません。
あぁそういうことだよなぁという深い納得感でした。

それは決して自分が弱々しい存在だというのではなく、もとより私たちはそういう存在なのだという納得でした。

日頃は、今よりほんの少し元気というだけで、大した差でも無いのに、自分で我が身を守っているものと、何とは
無しに思い込んでしまっています。
でも、強さとか弱さとかそういうことではなく、私たちは誰一人例外なく、当たり前に様々な存在に支えられ、
護られているのです。

それが、ほんの少し謙虚になった瞬間に、全身の毛穴から流れ込んできます。

自分以外のあらゆる存在に支えられていることを感じると、いわゆる「自分以外」というものが、この自分を支える
「大きな自分」であることを実感します。
「自分」というのは全体の中の一部分であり、それを包む「自分以外」というのも、同じその全体であるということ
です。

つまり、自分に、外も内もない。
自分「以外」というものは存在しないのです。


しかし、あくまで自分というものにこだわりすぎると、相対的に、自分以外というものにもこだわることになって
しまいます。
自分という存在にこだわりすぎると歪んだプライドが芽生え、自分を卑下するような図式が出来上がってしまいます。
卑下とは、自分を弱い存在だと思ってしまうことです。

「自分以外の支えがないと何も出来ない自分」
そのように捉えてしまうと、弱さという概念が生まれてしまいます。
すると、大きくふさぎ込んでしまうか、あるいは弱さを認めまいと反発して頑固になってしまいます。
もともと存在すらしなかった概念なのに、一人相撲が始まってしまうわけです。

様々な存在に護られている状態というのは、弱さでも何でもありません。
それはただの、真実です。
天地宇宙の、ごく自然の姿というだけです。

何も食べなければ生きていけないことを、弱さなどと誰が思うでしょうか。
空気を吸わなければ存在もできません。
そんなのは誰にとっても、当たり前のことなのです。

私たちは年齢に関係なく、生まれた時からすでにあらゆる存在から守られ、支えられ、生きています。
老いるとは、そのことが目に見えて実感できるようになるということです。

体力が弱ったり、様々なことがままならなくなることで、身近な人たちや社会から支えられるようになります。
それは弱さなどではなく、天地宇宙の当たり前の成り立ちの、一片に過ぎません。

目に見えるか見えないか、頭がクリアか濁っているか、それは氷山の上か下かの差でしかなく、どちらも同じ氷山に
変わりは無いのです。
誰もが、身近な人たちや社会そして天地宇宙から支えられています。
社会的弱者などという言葉は、無知と傲慢の極みとしか言いようがありません。

水面の上も下も何の差も無いと知り、老いというものを自然に受け入れた時、頭で描かれた作為的な謙虚さなどでは
なく、実感を伴った真の謙虚さが内から湧き出てくるのではないかと思います。
それは止めようにも止められない衝動でしょう。
長幼の序というのは、まさにそうした姿があって成立したものなのではないでしょうか。

老いにより、失うとともに大きく得るものがある。
だからこそ、いつの時代でも一族を護ってきたのは、最も謙虚な長老たちだったわけです。

病み上がりに駅まで歩いた時、その断片を垣間見させて頂いた感じがしました。
道ゆくご老人やご婦人は、まわりを見ていないのではありません。
見ようにも見えないだけです。
しかし、それによって違うものが見えるようにもなるということです。

ご老人やご婦人には敬意をもってソフトに接するというのは、遥か太古からの経験によって自然と為された振る舞い
であったわけです。
規律としての長幼の序や、スマートな紳士のたしなみなどというのは、本来はその奥に深い真実があったのでした。

このように、人それぞれに年齢や体力に応じて時間や空間が違います。
何だろうコノ人?セカセカしてるな…とか、随分ノンビリしてるなぁ…とか、色々と感じることがありますが、その人に
とっては別に焦ったりグズグズしてるわけではなく、普通の当たり前の時間・空間を過ごしているということです。

確かにセカセカ過ごすのは、端から見ればシンドそうに映るかもしれませんが、それはその人のやりたいこと。
It's not your business.(あんたにゃ関係ない)です。
まさに、それはその人の仕事なのです。
良いも悪いも決めつけず、いちいちカリカリせずスッと流してあげることが受け入れることになります。

私の場合、病み上がりで久々に会社に行った時、喋るスピードも仕事の反応も、歩く速度も遅くなっていました。
まわりはみんな、大丈夫か?と本気で心配してくれましたが、自分では自然体でそのスピードになっていただけで
別に体調が悪いということではありませんでした。
いつもの気合いが無いとも言われましたが、自分としては正直このゆっくりとした波立ちのない感覚を心地よく
感じていました。

まわりからはまどろっこしく思われたかもしれません。
しかし年老いた時の感覚というのはこのような世界なのかと思うと、とても幸せな気持ちになりました。

ただ残念ながら、仕事というのは連携プレーですので、まわりと噛み合って成り立つものです。
過去のこれまでの私のペースをもとに、まわりも合わせにくるものですから、あまりズレたままでいても仕事は
うまく回らなくなってしまいます。
そうして数日もすると元の時間軸に自然と戻ってしまったのが、何とも残念ではありました。

自ら発してきた時間・空間というものが周囲に定着すると、まわりの接し方も、あるいは与えられる仕事の量や
質にしても、それに応じたものとなっていきます。
そこで突然一人だけ変わってしまうと、まわりと全く噛み合わなくなりギクシャクしてしまいます。

最初からゆったりとした時空をもって登場していれば、まわりもそれに合わせた噛み合わせになったのでしょうが、
いきなりちゃぶ台をひっくり返してしまうのは、たとえ自分の中では時間・空間が噛み合っていたとしても、周りが
混乱してしまいます。

もちろん、だからといって、まわりに気を使いすぎて自分を殺すというのはおかしな話です。
しかし、ちゃぶ台をひっくり返してしまった結果、自分も苦しく、まわりも苦しいのでは何の救いもありません。

そうであるならば、時空をいきなり変えるのではなく、根っこの感覚は保ったままで少しずつ変えていく、周りの
人たちが微調整の範囲で合わせていけるようにしていくのが良いということになります。
相手の立場に立ちながら、敬意をもって優しくソフトに導いていくことが大事ということです。

それは相手に気を使って横目で見ながら加減するということではなく、相手にしっかりと心を向けて、共に一緒に
歩みながら、無理している部分の力を少しずつ抜いて行くというです。
相手をどうにかしようと思うのではなく、ちゃんと噛み合った状態になってから、己の心根に素直になるわけです。


さて、話を少し戻しますが、数日寝たきりでいると筋力が弱ってしまい、部屋の中を少し歩くだけでもグッタリ
疲れてしまいました。
ましてや、外へ出るとなると完全に心が折れてしまい、寝室から食卓、コタツという必要最小限の動線だけで一日が
終わってました。
高齢で骨折をすると寝た切りになる恐れがあるというのは、こういうことなのかもしれないと考えてしまいました。

特に強く実感したのは、身体がなまることよりも、心がなまるということでした。

身体を壊すとあまり動かなくなります。
動かないと筋肉が弱り、筋力が落ちるとますます動くことがシンドくなります。
そうして出不精になっていくのでした。

この図式は、心にも当てはまります。

部屋にこもっていると、外へ出かけようという気持ちが萎えていきます。
気力が落ちていくと、人に会おうとか、人と会話しようとする衝動も薄まっていきます。

つまり、こういうことです。

筋肉を使わないと筋力が落ちる。
すると身体を動かさなくなる。
身体を動かさないと筋力が衰える。
するとさらに身体を動かさなくなっていく。

同じように、
心を使わないと少しずつ気力が落ちていく。
すると心を使うことが億劫になっていく。
心を使わないとますます気力が萎えていく。
するとさらに心を使いたくなくなっていく。

そうなりますと、誰とも会いたくない、話したくない、接触したくないとなっていきます。
筋肉を使わないと寝たきりになってしまうように、心を使わないと引きこもりになってしまうわけです。

筋力というのは、負荷がかかることで維持されます。
気力というのも、負荷がかかることで維持されます。


負荷とは、英語で言えばストレスのことです。
つまり、心にストレスがかかることによって私たちは気力を育んでいるのです。

日々の暮らしの中での、ツラさや苦しみ、悲しみといったストレスは、まさに私たちを活き活きと生かすための糧で
あったわけです。

とはいえ、負荷が大きすぎると筋肉を痛めてしまうように、ストレスにしても適度でなければ心を痛めてしまいます。

意図的に負荷を作り出さなくても、私たちは日々の暮らしの中で自然と好い加減の負荷を受けています。
この世界は、普通に暮らしているだけで、様々なストレスにさらされます。
それはちょうど、普通に暮らしているだけで重力によって適度な筋力が作り出されるのと同じです。

たとえば宇宙に行くと、身体の負荷はゼロになりラクラクと宙を舞うことができるようになります。
しかし地球に還ってくると自分の足で歩けないほどに筋力が弱りきってしまいます。
そのままでは地球ではマトモに暮らせない、宇宙でしか暮らせないということになってしまいます。

私たちは、心のストレスがゼロになるような環境を夢描きます。
しかし、それこそは無重力で舞うことを望むようなものであるわけです。

もしもそのような環境に行けたとしても、そこでしか過ごせない身体になってしまいます。
この世で過ごせない身体になってしまうということです。

いつでも私たちは、家から一歩出れば、沢山のストレスにさらされます。
しかしそれをシンドイものだと思ってしまうと、無数のツブテを全身に浴びる世界と化してしまいます。
それらは空気や重力と同じように、当たり前にそこにあるものですし、それが無ければこの世界では生きていけない
ものであるわけです。
なにごとも、心一つです。

「だからそれに感謝をしよう」というのはさすがに嘘くさいものの、せめて忌み嫌わず、あまり意識しすぎずスルー
していくのが健全と言えるでしょう。
「何だよ、この重力。身体がシンドイよ」なんて言わないのと同じようにです。

ただその一方で、グルジェフ的な「重い負荷であるほど良い」というのは、極論になる恐れがあります。
やはり自分の体力や気力に見合った適度な負荷が一番だと思います。

病み上がりの100mダッシュは身体を痛めてしまいます。
気力が枯れ果てている時は、わずかなストレスだけでも心は傷だらけになってしまいます。

筋力が落ちた時にはまずは歩くことから始めるように、心が萎えた時にはまずは部屋から外へ出ること、山や川など
大自然のなかへ身を置くのがいいのではないでしょうか。
そこで何をしようというのではなく、ただそこに居るということだけで十二分であるわけです。

頬に当たる日差しも、肌を触れていく風も、大自然の何もかもが優しい負荷となります。

ストレスと書くとぶつかり合うキツさを想像してしまいますが、本来はそういう負荷なのです。
別の表現をするならば「刺激」とも言えるかもしれません。

心が萎えてしまっている状態とは、自分が自分の中にこもってしまった状態でもあります。
つまり、そこには明確に「自分以外」が存在しています。
「自分以外」を創り出してしまうことで、強固な壁が造り出されてしまいます。
そしてそれが極まると、その壁の外というもの自体が、意識の中から薄れていきます。
自分の内だけが、自分が意識できる全てになってしまうということです。

大自然の温かい日差しも、優しい風も、全てはその壁をノックする刺激となります。
その時、外の存在をハッと思い出します。
頭や意識ではなく、身体が、皮膚が先んじてそれをキャッチします。
その瞬間、壁は透明になっていくのです。

私たちは、様々な存在に支えられています。
様々な存在に護られ、生かされています。
私たちを包むすべてが、私たちを生かしてくれています。

空気もそうですし、重力もそうですし、ストレスもそうです。

視界の外から飛び出してくる自転車や物事にビクビクと恐怖する必要はありません。
視界の外も、視界の内も、全てを信じきり、任せきるのが天地自然な姿です。

「自分」「自分以外」という考えを手放して、私たちを包む大きなすべてを信じる。
様々な存在に生かされていることを、素直に受け入れるということです。

自分も自分以外も無い、全ては一つに繋がるものだと感じられれば、言い表せられぬ感謝の心が
湧きあがる
でしょう。

「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
何だか分からないけども、ただただ感謝としか言いようがかい感謝の心。
まさに、それと全く同じものです。

それこそが、真の謙虚さというものではないでしょうか。

私たちは「自分以外」の全てに支えられ、護られています。
それは十人十色の他人もそうですし、日々のストレスもそうであるわけです。

あらゆるものには、その見た目からは想像もできない、ありがたいお陰様が隠されています。
そして謙虚になるほどに、お陰様がその姿を現します。

私たちが目に見えない数多くのお陰様に包まれ護られているというのは、綺麗事でも何でもありません。

それこそが、この世の事実なのです。




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天地宇宙の「呼吸」

2016-02-10 08:40:02 | 天地の仕組み
身体を動かすことで、心の移ろいが霧散して全体が一つに噛み合うという話をしました。

悩みや苦しみが深い時は、激しいスポーツや派手な動きをすると身体に集中しやすいと書きましたが、もちろん
それだけが天地合一の道ということではありません。
私たちが生きている限り、肉体を使った動きというのは数限りなくあります。

例えば、呼吸もその一つです。

あくまで「肉体を使う」というのがポイントですから、手や足に限定する必要はありません。
さらに呼吸の場合、そこに天地宇宙のリズムという要素も加わってきます。

呼吸というのは本当に奥深いものです。
冷静に観察してみますと、何よりもまず、片時も休まず常に「今」を追う動きをしていることが分かります。

先へと先へと気持ちが先走りして今から離れてしまうようなことはありませんし、過去を引きずって立ち止まる
ようなこともありません。
「そんなことしたら息が止まってしまうから当たり前だろう」と一笑されるかもしれませんが、頭をフラットに
しますと、それこそが「今」「今」「今」の連続であることに気がつきます。

呼吸とはまさに「今」「ここ」に集中した動きであるわけです。

「今に集中ってどんな感じなんだろう?」という答えがそこにあります。
それは難しいものでもなければ、特別なことでもありません。
今まさに一笑したとおり、ごく当たり前のことであるわけです。

自律神経というのは、天地宇宙の心そのものです。
自我の意思に関係なく、天地のリズムで今を刻みます。

もしも生命を司る器官が自我の配下に置かれていたら、「心ここにあらず」イコール「死」となっていたでしょう。
身体が身体として確実に存在するためには、それそのものが天地宇宙である必要があったわけです。

心臓や胃腸、様々な内臓はみんな自律神経で動いています。
その中にあって呼吸というのは、自律神経だけでなく自意識でもコントロールできる唯一の器官です。

そこには自律神経と随意神経の両方が共存しています。
つまり、天地宇宙の心と自我の心が同居しているということです。

実際、自我が優ると呼吸は乱れますし、逆に意識的に呼吸を落ち着けると、それまで出張っていた自我はスーッと
引いていきます。
自我の押し引きに応じて、天地宇宙の心が満ち引きする。
その様子が目に見えて分かるのが呼吸です。

自然本来の呼吸のリズムに心を合わせれば、自ずと自我は落ち着き、天地の心と合一します。
古来、様々な行法で呼吸が注目された所以です。

そもそもこの天地宇宙というのは、あらゆる全てのものが流動しています。
目に見える物理次元のものから、目に見えない極小極大の世界に至るまで、一瞬たりと止まることなく動き続けて
います。
何故ならば、エネルギーとは流動そのものであるからです。

エネルギーとは流動であり、流動とはエネルギーです。

万物は様々な姿を見せていますが、そのどれもが天地宇宙の写し身です。
天地宇宙とはエネルギーそのものであり、私たちも含め、天地宇宙に在る全てのものもまたエネルギーです。
つまり「存在」とはエネルギーの塊であるわけです。
ですから、存在する全てのものは流動しているのです。

例えば、流れの止まった水は腐っていきます。
腐るというのはエネルギーが弱っていくことです。
エネルギーが変わることで、形態もまた変わっていきます。
ただ、腐るという過程そのものも変化流動ですから、エネルギーは完全なゼロにはなりません。
たとえ腐っても水は天地宇宙に存在できています。
そして時間とともに蒸発したり染み込んだりしてさらに別のものへと変化していきます。

この世に不変というのは有り得ません。
変わらないもの、流動しないものは、そもそも存在することができないのです。
存在するものは、必ず変化している。
「存在」とは、変化であり、流動であり、エネルギーであるということです。

心臓が止まると血流が止まり肉体は朽ちていきます。
大きな目で見れば、流動の止まったものはこの世に存在できないと言えますし、微細な目で見れば、異なる物質
へと変化流動して行っているとも言えます。

それは、同じルーチンの流動が無くなると、それまでと同じ形状や現象は維持されなくなるということでもあります。
つまり、形や現象が目の前に存在しているのは、そこに同じ流動が続いているということです。

それは一個体に限らず、伝統や文化、民族、国家のような何代も受け継がれていくものにも共通する話です。
だから、伝統や伝承というものは、理屈や合理性とかに関係なく、ただ言われた通りのことをキッチリと受け継ぐ
ものですし、「同じことを続けている」ということ自体が価値となっているわけです。

万物は、それぞれ固有の流動を続けています。
異なる流動が、異なる存在、異なる形となって現れています。
その流動を、振動と言う人も居ますし、波動と言う人も居ます。
万物は、自身が自身であるためにその流動を続けているとも言えますし、その流動が続いているからこそ、それ自身
であり続けているとも言えます。

そしてその固有の流動というのは、自我の制約を受けない、天地の心、天地のリズムであるわけです。

ハツカネズミの呼吸や心拍は速いですが、ゾウはその真逆です。
また極小の世界では、素粒子がヒモ状になって振動したり回転したりしていると言われていますが、一方で地球
自体も何億年もかけてわずかに膨らんだり縮んだりしていると言われています。
さらに現在は全宇宙そのものが拡張していますが、将来は収縮していくと考えられており、長いスパンで見れば
拡張と収縮を繰り返していると見られています。

まさに、どれもこれも「呼吸」です。
あらゆる存在は、様々な形の呼吸をしているわけです。

エネルギーというのは一方向ではなく、行って帰って、また行って帰ってくるものです。
それは回転しているとも言えますし、振幅しているとも言えます。
そのようなエネルギーの循環が目に見える形となって現れている一つが、私たちの呼吸であるわけです。

素粒子のように小さくなるほど流動(「呼吸」)は速くなり、宇宙のように大きくなるほど悠久の流れとなります。

存在の大きさ自体がエネルギーそのものであるため、「呼吸」というエネルギーの循環も、存在の大きさに応じた
速さになっているということです。
存在とはエネルギーの塊ですから、物質的に大きければ大きいほどエネルギーも大きいわけです。

また「エネルギー」=「流動」ということは、逆に「流動」=「エネルギー」ということでもあります。
つまり、動きそのものがエネルギーにもなります。
蒸気にせよ水力にせよ、あらゆる発電の仕組みは全てその応用です。

これは、身体を動かすことがエネルギーを生み出し気力をみなぎらせることにも通じます。
だから「身体は心の救世主」となるわけです。

厳密に言えば、身体そのものがエネルギーを生むのではなく、その動きを通じて天地宇宙へ心が開かれて天地の
エネルギーと合一するということです。

ですから、身体を動かさなくとも気力がみなぎる術は他にもあります。
それは一つの方便であって、天地宇宙へ心が開かれさえすれば自ずと気力は蘇ります。

たとえば、若い頃はエネルギーが余っているため、身体をガシガシ動かすことができます。
しかし、それは自我がまさった状態でもあります。
逆に、年を重ねて肉体がそれ相応に老いてくると、自分の自由が利かない現実にさらされます。
すると、自我は若い頃のようなイケイケでなくなり、心静かに落ち着いていくようになります。
そして、心が落ち着けば落ち着くほど、周囲との垣根が無くなって天地宇宙の心が近づいてきます。

つまり、心の状態によって、天地宇宙のリズム、天地宇宙の呼吸へと自然に近づいていくわけです。


手や足を使う運動系は、動の極みです。
そこへ意識が向かうことによって、悩みや苦しみに縛られていた心が解放されます。
一方、呼吸は静の極みです。
そこへ意識が向かうことによって、心が落ち着いていき、悩みや苦しみが霧散していきます。

静動の違いはありますが、どちらも自我の出しゃ張りが抑えられることで、天地の心が満ちていくわけです。

この世は、天地自然の流動に満ち満ちています。
存在の大きさによって見た目の速さは異なりますが、全ては同じ一つのリズムに収斂していきます。
それは天地の呼吸です。
私たちとは天地宇宙であり、存在とはエネルギーです。

古神道でも密教でも、長い息というものが重視されてきました。
身体の腹の奥底、心の奥底まで深く落とし込んだ呼吸は、天地の呼吸に溶け合わさっていきます。

今この、吐く息、吸う息。
この一息一息が、宇宙の流動そのものです。
素粒子の世界から大宇宙の世界まで、この呼吸は万物すべてと同じ一つの呼吸となって重なり合っていきます。

私たちの呼吸は、天地の呼吸と全く同じものです。
それを感じた時、悩みや苦しみはあっという間に霧散していくことでしょう。



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