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これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

今年一年ありがとうございました

2018-12-31 19:15:00 | 感謝のこころ
もうすぐ一年が終わろうとしています。

新年というのは世界中の人たちが新鮮な気持ちで迎えるものです。

それを待ちきれずに、多くの国では大晦日からパーティーのように盛り上がります。
しかし昔の日本人は最後の夜を静かに迎え、除夜の鐘をしんみりと聞きながら過ごしていました。

私たちは今でこそ夜遅くまでドンチャン騒ぎをするようになりましたが、それでも最後の15分くらいはシーンと音もなく過ごしています。

子供の頃には何故お通夜のような暗い雰囲気になるのか分かりませんでしたが、それは謂わば、瞑想のごとき無の状態であり、つまりはあらゆる
囚われから解放されたニュートラルな状態に戻っている瞬間であるわけです。

決して来たるべき爆発のためにエネルギーを貯めているわけではなく、ご先祖様たちの過ごしてきた習慣の名残りであり、無意識のうちに神妙
なる時を過ごしているということです。





この世界は躍動に溢れています。

特に日本には四季の変化があります。
環境として物理的な切り替えが起きるのはありがたいことです。
結果として私たちはそうした区切りの中で日々を過ごすことになります。
それによって無意識のうちにシュッと日々が締められているというのが実態です。

これと同じように一年、一年という区切りが存在することでシュッと締められた一年に成っているわけです。
のんべんだらりと時間がただ経過して一年が終わるということでは無くなります。

色々なことがあった一年が終わります。
とにもかくにも、私たちはこの一年を乗り切りました。

一年とは一生のミニチュア版です。

大変だった、楽しかった、その一年を完走し、美味しいものを食べ、自らをねぎらう。
仲間や家族とともにお互いをねぎらう。

それはとても大事なことです。
それによってこの一年すべてにOKを出すことにもなります。

そしてしっかりと区切りというものを無意識の中へ落とし込むことになります。

それは電車の乗り換えに喩えることができます。

実際のところ私たちは常に電車の乗り換えを繰り返しています。
同じ電車に乗っているように見えますが乗り換えをしている。
それが目に見えてハッキリと分かるのが一年の終わりということです。

また一年の切り替えというのはケンケンパの次の輪っかへのジャンプにも喩えることができます。
同じ景色、同じ日々が続いているように見えても、それはすでに次の輪っかの中であるわけです。

元旦から始まる新たな一年とは、新たな一生のミニ版です。

新年に向けて沸々と湧き上がるエネルギーはその現れです。
だから世界中の人たちが喜びに弾けるわけです。


それは、オギャーとこの世に生まれた瞬間の喜びに通じるものと言えます。

もちろん理屈で考えると、そこには一新するような要素は何もありません。根拠も何も無い。
今日と同じ明日が来る。今年と同じ来年が来る。
そのことは誰もが経験上わかっているはずです。

いつもの私たちならば「どうせ変わらない」「同じだ」と思考を停止させて、湧き上がる喜びを感じ取ることもせずフタしてしまうところでしょう。
思考の内側に監禁された、いまだ目覚めぬ人類のままに。

しかしこの瞬間だけは、そうした縛りから解かれるわけです。
この瞬間だけは、私たちは目覚めているのです。


仕事にしろプライベートにしろ、懸案はひとまず横に置いて、ただ一年が終わろうとするその時の流れに浸りきる。

それはあらゆる自縄自縛から解放されている状態に他なりません。



あらためて、一年が終わろうとしています。

本当に色々な日々がありました。

大晦日は自分で自分を褒める時であり、私たちの完走をアシストしてくれたすべての存在に対して感謝を伝える時です。

「今年一年ありがとうございました」
「来年も宜しくお願いします」

棄権することなく一年の最後まで走破したことに乾杯し、そして明日からの新たな生まれ直しを大いに祝いましょう。







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裏・イマジン

2017-10-18 20:02:07 | 感謝のこころ
想像してごらん
仕事がなくなり 明日をも知れぬ日々を過ごすことを

想像してごらん
不況がひどくなって 収入が半分以下になることを

想像してごらん
中学も高校も 選ばれた人しか教育を受けられなくなることを




海外ではそんなこと当たり前という国がたくさんあります。
私たちの国は、求人倍率は1.0を超え、経済もなだらかなプラス成長を続け、学校も何とか通わせることが出来ています。

実感が伴わないとか、もっと楽になりたいとか、恩恵を受けたいとか、不足感にばかり目を向けていると、今のありがたさを本当に忘れてしまい
ます。

平和ボケよりもさらに深刻な、幸福ボケ。
今がいかに幸福であるか忘れ、本当の不幸を想像することもできない。
それこそが、不満だらけの世の中の正体です。

もちろん、世の中をもっと良くしようと思うのは自然な感覚です。そのようにして私たちは文明文化を築いてきました。
しかしその大義名分に寄りかかって、今ココに対して不平不満の限りを尽くすのは全くもってのほかです。

その先は、夢の国を語り合うお友達同士が集まって今の恩恵を全てちゃぶ台返しにしてしまい、ついには今の当たり前の全てが失われることに
なります。

今のこの当たり前が何とありがたいことだったのか、それを失って初めて気づくことが出来た。
そのようなことが実際に起きます。

この世というのは、そのありがたさに気づかないならば何としても気づかせてくれる仕組みがあります。
たとえ不幸になろうとも、生きているうちに気がつかせてくれるというのは、天の優しさ、母心であるわけです。



想像してごらん
話の通じない人が 目の前にいるところを

想像してごらん
その人が突然おそってくることを

想像してごらん
自分ではなく 家族が傷つけられることを




「戦争反対、暴力反対、話し合いで解決しよう」
そんなのは誰だって当たり前に願うことです。
我慢して嵐が去るならば、耐え続けるのがいいに決まっています。

でもそれはギリギリのところまでの話です。
問題はその先です。

相手の側に、殴っただけで終わらせる気なんて全く無かった場合、どうしますか?
嵐が去ることなど無い、あとは死あるのみ。
それを知った時にどうするか。

「それでも耐え続ける、反撃したらケモノと同じだ」
もちろんそう思うのは自由です。
でもその場合、それが人間の尊厳などではなく、単なるポリシー、こだわりでしかないことをハッキリ自覚する必要があります。

信念・信条に殉じたいということであれば、まわりが止めるものでありません。
それはそれで一つの生き方だからです。

ただ、そこに家族が居た場合、その家族までも自己満足に付き合わせて死なせるという事実を直視しなくてはなりません。
決して目を背けてはいけない。
言い訳に逃げてはいけない。

この世に絶対の正義などありません。
すべては単なる選択でしかないわけです。

無抵抗というのが人間らしさや寛容であると考えるのは一つの判断、一つの価値観でしかないということです。

もしも本当の意味で人間らしく生きたいというならば、
「死にたくない」
「何としても生き抜く」
というのが自然体であるはずです。

心の声とは真実そのもの。
ドロ水をすすってでも生きようとする、それこそが人間の尊厳であるわけです。

カッコよかったりスマートなのが人間の尊厳ではありません。
みっともないとかカッコ悪いなどという発想自体が自我の囚われでしかない。背伸びしようとする子供でしかないということです。

想像したならば分かるはずです。
最後の最後に死を覚悟した時、そこは石に齧りついてでも生きる。家族を守る。
そうなるのが自然体です。

そうであれぱ、最後まで生き抜くために日頃からコツコツと努力をするのが人間らしさであり、その反撃の手があればこそ、いざとなったら家族を守れるわけで、だからこそギリギリ死の間際まで我慢し続けるという構図が成立するわけです。

そこに人としての誇りと気高さが生まれるということです。

何もせず怠惰に過ごし、綺麗事だけ並べて、いざという時には相手の温情にすがる。
全てが他人事。自分は何もジャッジしない。
それのどこに人間の尊厳などあるのでしょうか。

この世が様々なことを楽しむためのアミューズメントであるのは事実です。
だからといって、自分の命を軽んじていいはずが無い。
それでは安っぽいバーチャルゲームと何も変わりません。

この世を薄っぺらなアミューズメントにするのも、重厚なアミューズメントにするのも自分の心次第です。

最後の最後まで石にかじりついても生き抜こうとする真剣味があってこそ、この世は詰まり詰まった真実と化し、その結果、私たちの味わいも
途轍もない深みを持つようになるわけです。


天地は初めから定まっているのではなく、私たちがそれを決定しています。
文句を言う時点で本末転倒なのです。




ジョンレノンは『イマジン』により私たちの意識を、愛と平和に向けさせました。

それというのは当時が、目の前のことに囚われすぎて物欲と本能の暴走に満ちた世の中だったからです。
他人を蹴落としたり、いがみ合ったり、ドロドロの戦争に突入したり。
だから本当の幸せとは何かを想像(イマジン)させたのでした。

地に足つけずにフワフワと夢見心地に酔うことを謳ったのものでは決してありません。
ドロ沼の現実にドップリ浸かりすぎて動けなくなっている人たちに送ったメッセージだったということです。

そこを履き違え、ラブ&ピースを免罪符にして、目の前の現実を拒絶して現実逃避に身を投じるというのでは、駄々をこねる子供と何も変わり
ません。

そもそも地に足つけずして、愛や平和を語ることなどできるものではありません。

何よりもまず今この目の前の現実を受け入れ、今ココを感謝するところからスタートしなければ、その先などあるはずがないということです。

私たちは生かして頂いている。
そのことに感謝を思えば、誰かが叫ぶ美辞麗句を耳にしても、すぐに不自然な引っかかりを感じ取ることでしょう。

不満からは不満しか生まれません。
疑心では真実は見えません。

自我に囚われない。執着に走らない。
不安も不満も自我の囚われでしかありません。
森の中の、葉の一枚に注意を向けさせて不平不満を煽るのは彼らの常套手段です。

感謝の心、謙虚な心は、すべてを真っさらに清らかに見通します。

本当に大事な場面では、頭でっかちにゴリゴリ考えたりせず、全てを手放して「今に感謝」という原点に帰るのみです。

今回の選挙は、私たちがどれだけ今に感謝できているかを現すものだと言えるかもしれません。


(『国を護るのは私たちです』2015-7-13)
http://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/67198a7fb3479515861eda7890ce2144



(おわり)


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大祓いのすゝめ

2016-12-30 23:24:13 | 感謝のこころ
今年も残すところあと一日となりました。

この一年、楽しいこと、つらいこと、色々なことがありました。
そんなこんなを思い返すことで、今この人生を生きていることをしみじみと実感できます。

ただ、そんな楽しさもつらさも、目に見えないお陰様があればこそ味わえているというのをつい忘れてしまいがちです。
ありがたいことに日本には、年末最後にそれを思い出させてくれるイベントがあります。
それが『大祓い』です。

もともとは宮中祭祀として行われていたものが、一年の罪穢れを取り除くための行事として民間に定着したと言われています。

「知らず知らずのうちに犯してしまった罪穢れ」というのは、良くない『行ない』に始まり、良くない『言葉』、良くない『思い』に至る
まで、様々な身口意によって自分に付いてしまった汚れを指します。

そこに他意があろうがなかろうがダメなものはダメですので、自覚をしないままに塗り重ねてしまうこともあります。
さらに、自らがそれを発しないように気をつけていても、それを発する人と関わったり、そうしたものが溜まった場所に身を置いただけでも
同じことになってしまいます。

それらを避けて通るというのは、人里離れた山奥に引きこもらないかぎり叶わない話ですが、そもそもそうしたことを忌み嫌ったり、
いちいち気にすること自体が天地の理に反していることと言えます。

例えば、私たちのまわりには顕微鏡で覗けばどれも雑菌がついているのが当たり前で、そうしたものに一切触れずに暮らすことは不可能です。
雑菌を一つも付けたくないといって、いちいちすべて完全滅菌させてから触るというのは正しい姿ではありません。

つまりここでは、雑菌を悪いものと決めつけること自体、馬鹿げているということになります。

罪穢れもまた、私たちが生きているかぎり避けることができないものです。
それは垢や埃と同じで、黙っていても付いてしまうものです。

自然に付いてしまうものだからどうしようもない。

といって、それが積もり積もって汚れたままを放っておいて良いということでもありません。
この世は何事もバランスが大事です。
身体を洗って垢や埃を落とすように、罪穢れも洗って落とすことが必要ということです。

もし垢や埃は付くのが当たり前だからとそのまま風呂に入らず暮らしていたら、社会生活など成り立たなくなります。
それだけではなく、汚れたままでいると、目に見えない引力も働き出すということもあります。

例えば、垢まみれの汚れた姿でピカピカの綺麗な場所に身を置くと、場違いすぎて居たたまれなくなります。
できれば身体を洗って服も綺麗なものに着替えたくなるものです。
それが叶わず汚れた姿のままで居続けるなら、どこかピカピカでない場所を探してササーッと移動するでしょう。

心がホッと落ち着くというのはそういうことです。
闇は闇を好み、闇は闇を呼ぶのです。

自分自身を穢れたままにしておくと、知らず知らずのうちに穢れた境遇に引き寄せられることになります。
私たちの目から見れば闇が向こうからやってくるように見えてますが、実際は私たちの方から闇を求めて近づいているわけです。

これと同じ理屈で、罪穢れを払えば、自ずと天地自然の清らかな環境へ知らず知らずのうちに向かうようになります。

それが大祓いです。


さて大祓いの流れとしては、人の形に切り抜いた紙切れに名前と年齢を書き、それでもって全身を撫でて罪穢れの転写を行ないます。
まさしく写し身、移し身、映し身です。

この時、手早くササーッと撫でて「ハイ、おしまい」というのもありますが、折角だから一つ一つきっちり転写を図りたいと思ったりもします。

たとえばこんな感じに。


ハイ、まずは頭。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
髪の毛、前とか後ろとか、あとてっぺんも「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
眉毛、両眉を「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
次は、右目と、左目と「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。

あと。耳か。
あ、最近なんか左耳痛いことあるんだよなぁ、左耳だ、左耳。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。



調子が良くない個所はとりわけ念入りに祓おうとしますが、何も問題ないところも「悪くなりませんように」と気持ちを込めて祓うものです。

初めは打算的な願いから一つも漏らさないように撫でていくのですが、そうしていくうちにある心の変化が起こります。

というのも、最初はもっと早いペースで足もとまで行くつもりで居たのに、思ったよりも先へ進まないからです。

何ヶ月か前に歯が痛くなったことを思い出すと、それまでボヤーッと一つの塊でしかなかった「口」に、たちまち20本の独立した歯が
現れ、舌や唇もポーンと現れます。

すると「あ、右の奥歯も祓っておかないと。あと口内炎もなったらヤダから口の中も」となってきます。

始める前は、無意識のうちに「顔」「手」「胴体」「足」くらいの大雑把なイメージでササーッと終わるつもりで居たのが、いざ始めて
みると、みるみるうちにいくつにも細かく分かれていく。

日頃、私たちがどれだけ身体のことを意識していないかを知らされるのです。

そして、その数の多さ以上に驚くのは、そうしたものの多くが何の不具合もなく健康でいるという事実です。
そんなの当たり前とかいう以前に、普段はそのことに気がついてすら居ない。

胸のあたりを撫でるにしても、「あ、ココは心臓があった、あと肺もだ、それと気管支も」というように、日頃は全く忘れているものが
次々と表面に現れてきます。

それまで存在していなかったものが次々と出現するたびに人形で祓うのですが、今になって祓うまでもなく常日頃からその存在を消して
淡々と健康に動いていたことに気付かされます。

臓器の一つ一つ、指の一本一本、そして指の先には爪もあります。
それらが表舞台に引っ張り出され、突如スポットライトを浴びる。
正直、膵臓や脾臓の存在など普段は完全に忘れていますし、指がしっかり5本あることを意識できていないのにも驚きます。
知識としては分かっていても、感覚として5本をしっかり意識しては居ない。
薬指とかは本当に消えてしまっているようです。

肺や心臓は痛みや苦しさでたまにその存在を知ることがありますが、実際に胸の数十センチ奥に物質としてあるのだと生々しく意識する
ところまではいきません。

人がたで祓っていくごとに、水面下に眠っていた一つ一つが現実にはっきりと存在を現します。

その時になって初めて、完全に忘れ去っていた存在たちが、いつも健康に動き続けていたことを知らされます。
そして同時に、この世に存在しなくなっているほどに忘れ去っていたことにも気づくわけです。

その時その瞬間、心の底から申し訳なさとありがたさが溢れ出します。

頭のてっぺんから下へと一つ一つ撫でていきますと、筋、骨、臓器、それら驚くほどの多さに言葉を失います。
こんなにも沢山のおかげさまに支えられている、
生かされているのかと。

それが大祓いであるわけです。

神社でイメージするような仰々しさとか堅苦しさは必要ありません。
それはそれで大事なことですが、大切なのはその中身。心です。

ですから、近くの神社で大祓いをやっていない場合は、例えばシャワーで流すというのもいいと思います。

もともと水で洗い清めるのは水垢離といって禊祓いの一つです。
冷たい水ですから身も心を引き締まり、いかにも修行らしいと言えますが、実際は一意専心に集中するところに意味があります。
本当に心を決めれば、温かい水でも禊祓いになるでしょう。

それに大晦日に冷たい水で気合い入れるというのはさすがにハードルが高い。
勿論やれるならやった方がいいのですが、ハードルが高いからといってそれをやらない理由にしてしまうのでは本末転倒になってしまいます。

やることに意味があります。
あったかいシャワーでいいのです。

ただ、いつもより時間がかかってガス代がもったい無いというのは、この日だけは目をつむってしまいましょう。

そして大祓いと同じように、頭のてっぺんから一つずつ手で撫でながら温水を流していきます。
祓いたまえ清めたまえと言えるならば言うのがいいですし、抵抗があれば言わなくてもいい話です。

言葉のエネルギー以上に、思いのエネルギーの方が強力です。
ネガティヴな感覚が伴うことはやらないほうがいい。
祓うはずが逆のことになってしまいます。

むしろポイントは、一つ一つの細胞や臓器、身体の節々の存在をしっかりと認識していくことにあると思います。

手で撫でながら湯を当てて流していく。
そこに何があるのか、日頃存在しているのか、黙々と健康に生きていてくれているのか、私たちを支えてくれているのか。

そうした思いこそが、禊祓いになっていくのではないかと思います。

そして最後に大きく3回、全身の端々の細胞からサーッと風が流れ出ていくようにして、口から息を吐き出します。

これで身も心もスッキリ。
あとはゆっくりお風呂に浸かって、年越しそばであります。

今年一年ありがとうございました。



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