私たちというのは、自分の観たいものしか見えませんし、聴きたいものしか聞こえません。
実際の現実がどうであるかに関わらず、自分の目に映るものしか観えませんし、聴こえません。
意識的にそのようにしている場合もあれば、無意識のうちにそうなっている場合もあります。
前者であれば、意識を切り替えれば焦点が変わりスルーしていた景色も観えるようになりますが、後者はいくら意識を切り替えても観えない
ままです。
後者についてそれを妨げているのは、固定観念や社会通念、囚われや我欲です。
ノイズが入ると画素数が落ちて、ついには見えなくなるのと同じ理屈です。
そもそも視覚とは、電気信号が脳内で再変換されて作られるものですから、無意識の雑味が影響してくるのは当然と言えます。
インプットデータが途中から歪んでしまう場合もあれば、元の情報はクリアなのに、受け取る側の無意識の好き嫌いで門前払いしてしまって
いる場合もあります。
一部が欠落した状態でデータが入りますと、自動補正により架空の情報が補完され、結果として自然な姿形となって映ることになります。
この自動補正については無意識のうちに処理されるものなので、補正されたことに自分で気づくことはできません。
そして実際に目の前にちゃんとした映像があるため、それを信じてしまって疑わないということになります。
それはちょうど錯視のようなものです。
錯視とは、同じ色にも関わらず、違う色に観えるといった現象です。
これなどは、何かとの比較により無意識のうちに勝手な補正が働いた結果であるわけです。
私たちというのは、現実を有りのままに観てはいないということなのです。
それは視覚的なものに限らず、思考的なものにおいても日常的に起きていることだと言えます。
現実の出来事に対しても、一の情報に対して十の補完がされてしまい、実際のものとは違う形となって認識されてたりするということです。
そして錯視と同じように、自分にとって本当にその通りの姿に映るために、それを疑ったりリセットして真っさらに見直すというところまで
思いが至ることはないわけです。
私たちの固定観念や思い込みというのは、それほどまでに厄介なものということです。
自分の観ている映像が正しいか正しくないか、本物なのか思い込みなのか、それを自己確認するのは非常に難しいことだと言わざるを得ません。
怒りや喜びといった感情によってテンションが上がってしまった時、それを手離して、映像について冷めた目で見ることができるか。
それしかないわけですが、すでに思い込んでしまっている状態からそこまで持っていくというのは途轍もなく困難なことでしょう。
だからこそ審神者(さにわ)という存在が、とても大切になってまいります。
審神者というのは、古代の神道において祭祀で受けた神託を解釈する役割の人です。
主に巫女が神託を受け取る役目を担い、その神意を解釈する役目を審神者が担っていました。
もともと目に見えない存在からの言葉であるため、その真実性というのはとても危ういものでした。
そのため、それを受けた人間のフィルターを通して歪んではいないか、あるいは降ろした存在自体が悪神でないかどうか、それを第三者的に
判断したわけです。
さて、現実世界そのものがすでに人によって見えかたが違っているという話をしました。
先ほどのイラストのように、実際の映像(認識)として本当に違っているわけです。
そうなりますと、既成概念にないものは見えないという話にもなってきます。
極端な話、神様やUFOが現れても、見える人と見えない人に分かれるかもしれないということです。
そこまで極端でなくとも、固定観念によって目に映るものが実際に異なってくる。
固定観念には個人差がありますので、見えるものが違うのは当たり前ということになるわけですが、それでも出来れば真実に近い姿を
そのままに見たいものです。
それでは私たちが日頃過ごしていく中で、この思い込み画像というものを、どのようにして審神者に計ればよいのでしょうか。
答えは簡単です。
映像に間違いがないかを計るには、他の映像と照合すればいい。
私たちの映像とは違うものが見えている人たちに協力を頼めばいいということです。
つまり、私たちのまわりのあらゆる人が、私たちの審神者であるわけです。
私たちとは違う意見、違う判断、そういうものに対して真摯に耳を傾けていけば、自ずと私たちの囚われも薄まっていくということです。
無意識が切り替われば、観えるものは変わります。
固定観念に縛られなくなるほどに感性は細やかになり、広がりを持つようになっていきます。
味わいの深さや広さが変わっていくわけです。
子供の頃は、固定観念も社会通念もないため、同じ一枚絵でも大人の見えていないものを観ています。
それは、世界がキラキラと輝いていた理由の一つであるということです。
今この世界をよりクリアに見たいという純粋な思いというのは、幼い頃の原体験に因るのかもしれません。
さて、意識や無意識の違いで見えるものが変わってくるということは、世間一般と固定観念が違えば世界の見え方も違ってくる、視野がズレて
くるということでもあります。
いわゆる能力者という存在は、巫女のような役割の場合もあれば、単にズレているだけの場合もあります。
ただ、どちらにしても普通の人たちと何か違って特別ということはありません。
よくある話ですが、そうした人たちを特別な存在として上座に置こうとするのは誤りです。
誰もが等しく尊い存在であるわけです。
大昔はそのような人たちは、一般の人たちと暮らしを分けられていました。
もちろん畏れ多いということもありましたが、現実的な問題として、お互い一緒に暮らすには
ズレが大きすぎるということがあったからです。
その一方で、共通意識からズレた視野を維持させるために、あえて人里離れて暮らしたということもあったでしょう。
以前に書きましたが、宮崎駿監督は映画作りの佳境に入ると日頃は閉じてるフタがパカンと開いてしまって、のちのち現実生活に戻るのに
大変苦労したといいますが、まさしくそれはそういうことだったのではないかと思います。
一種の能力者と言えるような人たちもまた、普通の人とは違う苦労をしているわけです。
もしかすると逆に、私たちに見えているものが見えていないことだってあるかもしれません。
宮崎監督が言っているように、社会とズレてしまって適合障害に陥っていることだってあるのです。
良さげな一面だけを見て憧れるのもいいでしょうが、それだけでその人の全てを過大評価してしまうのは短絡的ですし、そもそも失礼です。
それは単なる思考放棄でしかありません。
この世では誰もがみんな苦労を抱えています。
IQの高い人だろうが、超能力者だろうが、進化した宇宙人だろうが、神様だろうが、みんなそれぞれの苦労があるわけです。
ただ、それを私たちの考えるところの「苦しみ」と捉えているかどうかはまた別の話というだけのことです。
幾つになってもそれ相応の苦労が訪れることは、私たちも経験的に知っていることです。
たとえば部活を始めた頃は、先輩たちがスイスイやってる姿を見て、自分も上手くなれば苦労が減ると思ったものです。
でも当然ながら、その立場になればまた新たな苦労を抱えることになりました。
どこまでレベルアップしてもそれは同じ。
むしろ上になるほど苦労は増えるものです。
会社でも、汗水たらして働いていた若手の時に、私たちをアゴで使っている部長は楽チンだろうと思ったわけですが、実際その立場になると
想像もしなかった苦労を背負うことになるのです。
自分よりも上だからハッピーだろうと羨むのは浅はかな発想でしょう。
どの立場になろうとも、一所懸命に「今」に集中すること、させられることに変わりないのです。
上も下も無いということです。
ですから、普通とは違う能力があっても、それは単にイレギュラーというだけのことで、決して優秀ということではないわけです。
比較しようとする心癖は本当に厄介です。
憧れという根っこがどこにあるのか落ち着いて見てみますと、依存か優劣という比較意識が隠れていることが多いものです。
誰かに自分の今を改善して欲しいという思いは、相手の方が上だという解釈から生まれます。
相手を上に置くにせよ、自分を卑下するにせよ、依存というのは比較意識でしかないわけです。
「あの人のように自分もなりたい」という憧れにしても、それがその空気感や雰囲気を指しているのならば別ですが、単に見た目の姿形や
立ち位置を指しているのなら、それは比較意識でしかないということです。
人より特別な存在であるとか、人より上だという気持ちは、つまらない比較意識の賜物でしかないのです。
そもそも比較というものは、どこまでいっても満たされることはありません。
なぜならば、その尺度が自分の外にあるからです。
お金を持つことが目的になると、どれほど大金持ちになっても満たされることがないのと同じ理屈です。
そもそも、見えないものが見えたとしても、それ自体に何の意味もありません。
正直、見えたって見えなくたって、関係ない話なのです。
物心がつく前はみんな見えてたのですから、今さら大騒ぎする話ではありません。
そんな即物的なことよりも、雑念を捨てて身軽になった方が遥かにラクで楽しい日々を暮らせます。
無意識のゴチャゴチャしたものが静まって清らかになれば、爽やかに風が吹き抜けます。
結果として、それまで考えられなかったような景色や味わいが現れてきます。
大病が一夜にして治ったという話や、傷が一瞬で消えたという話は、囚われが微細な結晶となって天地へと昇華して、瞬時にして霧が晴れた
結果であるわけです。
それをまた特別なことだ、凄いことだと大騒ぎすると、話が捻じ曲がってしまいます。
様々なお陰さまに心から感謝することはあっても、見た目の奇異を追うようなものではないということです。
それこそ、おかしなものを呼び寄せることにしかなりません。
自分の外に何かを求めなくても、今しがみついているものを手放せば、世界は変わります。
傷や病気のように、見えていたものが見えなくなったというのは、裏返せば、見えていなかった
景色が見えるようになったということでも
あります。
まさしく傷の無い景色、病気の無い景色が映ったわけです。
数ある一枚絵の中からそれを選んだ結果とも言えますし、魂とその他のお蔭さまが高い視点からその一枚絵に向かわせたとも言えます。
決して、自分の外にある奇異なことや特別なことが自分の世界を変えたということではないわけです。
そしてそれというのは、条件が揃ってそのようになった、「結果」でしかありません。
もしもその結果を初めから求めて、それを期待しながらやってしまうと、そもそもの前提条件が崩れてしまい、成るものも成らなくなります。
結果や上っ面に執着してそれしか見えなくなってしまうと、有形無形の邪気が介入する隙を与えてしまいとても危険です。
天地とは違った視点からの介入、つまり禍々しい存在が関わりますと、見た目の結果、上っ面だけを強引に持ってくるものです。
キズぐちに肌色の絆創膏を貼ると見えなくなるのと同じで、見ため華やかな現実を貼っつけて「今」を見えなくさせてしまうわけです。
これは、病気やキズに限らず、ご利益全般に言えることです。
奇異を求める心とは、普通ではないこと、つまり特別なことを求める心です。
それは限定商品という響きに高揚感を覚えて、ホイホイ飛びつく行為と何ら変わりません。
それは比較意識であり、優劣意識そのものであるわけです。
しかしながら、そのように私たちが見た目の誤魔化しに騙されてしまっている時でも、お蔭さまや自分自身は、様々な手を使って元の道に
戻そうとします。
そうした時、本来の状態と今とのギャップが大きいほど、その揺り戻しは激しくなります。
すっかり騙されている時はその状況を幸せだと思い込んでいるため、そうした揺り戻し作用が起きると必死に抵抗してしまいます。
しかしそれというのは、自分を護ろうとしている存在と綱引きを繰りひろげていることに他ならないわけです。
実に馬鹿馬鹿しい話ですが、そうまでして多くのお蔭さまは私たちを守ってくれているということです。
にも関わらず、それでもなお駄々をこねて耳を塞いでいると、ついにはお蔭さまも何もできなくなってしまいます。
そうなると私たちは、最早あちらの世界へ一直線となります。
崇高な存在は、私たちを見守ることしかできません。
かなり強引な手を使ったとしても、少し離れた所にヒントを置くくらいです。
本人の意思には手を出しません。
それこそ何をするのもオールOK。
すべてを見守り受け入れる天地の心とはそういうものです。
この世は、最初から最後まで、私たちが全ての決定権を持つわけです。
ですからそもそも外部に何かを求めるのは、その原理に反する無駄骨でしかないということです。
その天地の原理を無視して直接的な形で私たちの決定権に介入してくる存在があれば、その多くは
天地の心ではない存在ということになります。
つまりは、我欲に濁った存在ということです。
有形無形を問わず。
人であっても、人ならざる者であってもです。
ただし、私心なきままに直接的な介入が許されるケースもあります。
それは、親子愛やそれに相当する場合です。
我が子が盲進しているのに、それをそのままにするということはありません。
我欲の濁りなく透き通った心のまま、頬を叩いてでも直接介入するものです。
介入の動機が透明なものであれば、それは天地の心と何も矛盾していません。
そういう意味では、直接行動が出来るのはこの世だけの特権と言えるでしょう。
そのために私たちはこの世に生まれてきたとも言えます。
さて、先天的に能力のある人は、天地から何かしらのメッセージを受け取ることがあります。
それは極めてレアなケースで、基本そういう人は正体をバラしませんので、居ないものと考えたほうが正解です。
人知れず想像もつかないような御苦労様とお陰様に、頭が下がるとともに心から感謝です。
一方、後天的な場合でも稀にそうしたことはあるでしょうが、そういう人は得てしてそうしたものを拒んでいるものです。
自ら奇異を求めているような心根で、純粋な存在が現れるようなことはまずありません。
むしろ危険が大きすぎます。
おまけに不純な存在は、当然ながら、純粋そうな姿で現れます。
純粋な存在こそ恐ろしい姿で現れると言ってもいいでしょう。
なぜそのように振る舞うのか、そこにこそ本質が表れているわけです。
人間社会でも、おいしい話の裏には怖い人が居るものです。
最初はニコニコ優しそうに近づいてくるのはよくある話です。
どうしても見た目に惑わされてしまう人は、君子危うきに近寄らずです。
上っ面を求める人間は、赤子の手を捻るように簡単に騙せます。
私たち人間同士でもそうなのですから、いわんや人間以外の存在をや、です。
自分の中心にしっかりと太柱を立てて、上っ面など追いかけず、お天道様の下を堂々と歩くのが一番です。
そもそも天地の心を持つ存在は直接的な指図はせず、内発的な形で啓発します。
自分の胸の奥にポッと小さな火が灯り、ジワーッと広がるようにです。
それはサーッと風が全身を吹き抜けるような感じで思いが伝わってくるかもしれませんし、濃縮エッセンスがポーンとくるかもしれません。
いずれにしても聖書や精神世界にあるようなド派手なものではなく、普通に自問自答だったり、ふと頭に浮かぶようにして現れます。
ことさら変わったものでもなければ、特別な感じも全くないでしょう。
まず、それとは分からないくらいの日常の一瞬と言えるようなものです。
いわゆる能力者というのは、その現れ方がほんの少しズレているだけと言ってもいいかもしれません。
もしもわずかなズレもなく精度100%となれば、まるで自分自身で思いついたような感覚となるでしょう。
つまり、わざわざ奇異など求めなくとも、誰もがすでに高次からのメッセージをキャッチしているということなのです。
しかも間接的な啓示に比べて、遥かに精度の高い形で。
当たり前だと思っていること、普通だと思っていることが、実は凄いことなのです。
そのようなことが分かった上で、手品を楽しもうとするのであれば、おかしな存在に騙されることも無いでしょう。
楽しんでいると自覚している時は、決して鵜呑みにすることはないからです。
そもそも自問自答であろうと、巫女的な神託であろうと、メッセージというのはどれも自分の内から出てくるものですから、自分の中を通る時、
当然ながら自分の色がつきます。
濃縮還元でメッセージが来る場合なども、10倍や100倍に薄める作業の中で、自分の固定観念や思い込みの影響を受けてしまいます。
口寄せの形であっても、あるいは耳に聴こえる形であっても、自動書記の形であっても、映像で観る形であっても同じことです。
特に映像などは、この現実世界の物理学においても錯視が働くのですから、目に見えない世界からの受信となれば錯視が働かないはずがないと
言えます。
ですから、自分の知らないことが出てきたからといって、それがそのまま天の声だとか、真実であると決めつけるのは気が早すぎるという
ことです。
自作自演に喜んでしまうと、せっかくの真実までも取りこぼしてしまいます。
純粋なものは10%残っていればいい方で1%も無かったりします。
いや、自分の場合は50%だ、90%だとムキになっても、それこそ我執でしかありません。
本人も、周りの人も、鵜呑みにしすぎて自分の中心を失ってしまわないことが大切です。
それはそれとして「ふーん、そういうこともあるかもネ」くらいでちょうどいい。
「これは超貴重なレア情報だから有りがたい」なんてのは完全アウトなわけです。
だからこそ、昔の人たちは審神者を置いたのです。
巫女と審神者を同一人物にやらせてしまうと、脱線の危険があるからです。
ですから、誰か他の人を審神者として、自分は頭を真っ白にして謙虚にその意見を聞くのがとても大切ですし、もしそこに第三者がいなければ、
自分の中にもう一人の審神者を置くのが良いわけです。
それは、自分が巫女役の場合も、あるいは、聞き役である場合でも共通することです。
ピンと来なければその時点で自分には縁の無い話ですし、オッと心が反応したならそこだけをつまみ食いすればいい。
無理して全部を食べる必要はないわけです。
それは決して不敬でも何でもありません。
馬鹿にするのではなく、楽しむのです。
私たちが純粋に楽しんでいる姿を怒るような存在は、取りも直さず我欲の存在でしょう。
それこそ、恐れずノーです。
怖い人は、物怖じすればするほどズルズルと絡みついて来てしまいます。
とはいえ、もともとの動機が不純だった場合は、毅然としたノーは危険になりかねません。
たとえ相手が我欲の存在であったとしても、その相手が悪意をもって近づいてきたわけでなく、こちらが引き寄せたものだからです。
そのような場合は決して軽んじず、お詫びとともに心から感謝することが必要となります。
本来の天地というのは、ただ見守るだけで、直接的な手助けは絶対にしません。
ひたすら優しく見守っています。
手を出せるのは、天地の心とは違う存在です。
ご利益を求めてアチコチに手を合わせに行っているにも関わらず、何も叶わなかったとしたら、それはお蔭さまが全力で護ってくれていることに
他なりません。
私たちの自然な変化というのは、私たちの内側からしか起こりません。
そしてお蔭さまは、そのサポートを惜しみなくしてくれています。
自分の外側から起きる変化というのは、天地宇宙とは相容れない、不自然なことなのです。
火遊びは早いうちに断つのが鉄則です。
万引きやクスリというのは、最初はみんな軽い気持ち、好奇心や出来心からやってしまいます。
そして気づかぬうちにズブズブと深みにはまっていきます。
面白そうだ、刺激が欲しい、気分転換になる、心がラクになるかもしれない…
そういう軽い気持ちで超常現象に頼ろうとするのはとても危険なことです。
そして、さらに危険なのは本当に結果が伴ってしまった場合です。
それは極めて深刻で、考えただけでゾッとすることです。
呑気に喜んでいる場合ではありません。
但し、奇異というものが全てダメかというとそうではなく、それなりに効を奏する場面もあります。
しかしその場合も、自分の中心点だけは絶対に1ミリも動かさないことです。
中心は自分に置いて、視野を広げるように観ることが大前提になってきます。
効を奏するといっても、本来は劇薬であることに変わりありません。
漢方にもあるように、毒草も微量ならば薬になるという、あれです。
分量を間違えれば完全に毒薬ですし、そもそも世の中にはたとえ微量であっても身体を害する毒草の方が圧倒的に多いものです。
それだけのリスクを胆に銘じた上で、自分の中心にガツンと太柱を立てれば、大怪我は少なくなるでしょう。
さすがにそこまでして危ない橋は渡りたくないという場合は、天然由来の漢方薬もあります。
それは「趣味」です。
あまりにも身近すぎて拍子抜けするかもしれませんが、その効果はなかなかのものです。
ここでいう「趣味」というのは習い事に限らず、旅行でも何でも、とにかく日頃の生活パターンとは違う状態になるものを指します。
固定観念というのは、いつもと同じ生活環境、いつもと同じ人間関係の繰り返しによって強められていくものです。
決まり切った日常に新しい風を吹かせれば、分厚く覆われた雲にも晴れ間が生じます。
もちろん、慣れ親しんだ日常とは別世界ですから最初はストレスを感じることでしょう。
ただ、そのストレスは今までの景色とのギャップから生じるものです。
そこでウンザリするのではなく、まさにそのストレスこそがこれからラクになれる保証だと思った方がいいでしょう。
新しい世界では、今まで見たこともない価値観に出会うかもしれません。
そうした刺激が変化を呼び、気分転換となります。
今もし何かに心惹かれているならば、わざわざ劇薬に手を出さなくても十分なわけです。
ただ、たとえ天然由来であったとしてもそれはお菓子やデザートでしかなく、主食にはならないことを知っておかなくてはいけません。
私たちの命を生かすものは、今ココでしかありません。
世の中には酒に強い人もいれば弱い人もいます。
ちゃんとした大人は、自分のことを理解した上で、お酒を楽しみます。
しかし中にはアルコールや雰囲気に飲まれて、自分の中心を放り捨てて前後不覚になる人もいます。
自分の中心が定まっていれば、そのようなことにならずに楽しむことができますが、世の中には、その前後不覚の状態を好んで求める人も
いるものです。
精神世界や超常現象、あるいは健康的な趣味の世界であっても、度が過ぎるとこうした宴会と同じであるわけです。
私自身、飲むのは好きです。
日本の神様も、車座になって宴会を楽しんでいます。
要するに、楽しみ方の問題ということです。
昼の生活がつまらないためそのストレスを夜に爆発させる人が居るとします。
夜な夜な大宴会を繰り広げて大騒ぎです。
そして昼間は魂が抜けたように静かになって、ひたすら夜が来るのを待っているという感じです。
こうなると、もはや現実逃避することが日々の勤めとなってしまっています。
ここでの昼とは現実世界のこと、夜とは精神世界あるいさ趣味のことを指しています。
昼には仕事や家事に集中して汗をかけばこそ、夜のビールが美味しく感じるものです。
昼の苦労があるから夜の飲み会が一服の清涼剤になります。
悶々を晴らして、翌日に全力投球です。
私たちの住む世界は、この昼なのです。
日の当たる、表の世界なのです。
夜は家に帰ってメシ食って寝るだけです。
本当のところは飲み会なんて無くても済むわけです。
ただ、たまの息抜きくらいならば、頭がほぐれて明日への活力になります。
酒乱のケがあったり、前後不覚になる怖れがあったり、乱痴気騒ぎが苦手ならば、最初から宴会に
参加しないことです。
お酒も適量を超えると毒でしかありません。
飲み会は、節度を保って楽しむものです。
ですから、心の切り替えというのがとても大事になります。
宴会のノリのままで会社に行ってしまうと、まわりはドン引きでしょう。
精神世界と現実世界。
あちらの世界と、日々の暮らしとは別のものです。
目がどこかイッちゃってる感じにキラキラ輝いて、フワフワ浮き足だった歩いている姿が、果たしてマトモに見えるでしょうか。
自分の中心がしっかり今に定まっていることが肝心です。
感覚をフルオープンに広げたあとは、地に足つけて、目の前の仕事に集中するだけです。
「普通」という概念は、まわりとの比較で決まるものではありません。
地に足つけ、今ココを中心にして上下左右に偏りのない状態こそが、本当の「普通」です。
他人との差異ではなく、自分の中心からのズレこそが、「普通」か「普通でない」かの分かれ目になります。
私たちは、数多くのお陰様のおかげで日々を平穏無事に過ごせてます。
落ち着いた景色だからこそ、振り回されることなく色々なことに集中することができます。
普通であるというのは、本当にありがたいことなのです。
私たちは、今この景色を味わうために生まれてきています。
わざわざ振り回されるために特異な景色を求めるなんて、おかしな話です。
もう火遊びに喜ぶ年齢でもないはずです。
普通が一番。
特別になろうとする必要などありません。
素直で清らかな心にあれば、それだけで爽やかな風がサーッと心地よく、私たちを吹き抜けていくことでしょう。
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実際の現実がどうであるかに関わらず、自分の目に映るものしか観えませんし、聴こえません。
意識的にそのようにしている場合もあれば、無意識のうちにそうなっている場合もあります。
前者であれば、意識を切り替えれば焦点が変わりスルーしていた景色も観えるようになりますが、後者はいくら意識を切り替えても観えない
ままです。
後者についてそれを妨げているのは、固定観念や社会通念、囚われや我欲です。
ノイズが入ると画素数が落ちて、ついには見えなくなるのと同じ理屈です。
そもそも視覚とは、電気信号が脳内で再変換されて作られるものですから、無意識の雑味が影響してくるのは当然と言えます。
インプットデータが途中から歪んでしまう場合もあれば、元の情報はクリアなのに、受け取る側の無意識の好き嫌いで門前払いしてしまって
いる場合もあります。
一部が欠落した状態でデータが入りますと、自動補正により架空の情報が補完され、結果として自然な姿形となって映ることになります。
この自動補正については無意識のうちに処理されるものなので、補正されたことに自分で気づくことはできません。
そして実際に目の前にちゃんとした映像があるため、それを信じてしまって疑わないということになります。
それはちょうど錯視のようなものです。
錯視とは、同じ色にも関わらず、違う色に観えるといった現象です。
これなどは、何かとの比較により無意識のうちに勝手な補正が働いた結果であるわけです。
私たちというのは、現実を有りのままに観てはいないということなのです。
それは視覚的なものに限らず、思考的なものにおいても日常的に起きていることだと言えます。
現実の出来事に対しても、一の情報に対して十の補完がされてしまい、実際のものとは違う形となって認識されてたりするということです。
そして錯視と同じように、自分にとって本当にその通りの姿に映るために、それを疑ったりリセットして真っさらに見直すというところまで
思いが至ることはないわけです。
私たちの固定観念や思い込みというのは、それほどまでに厄介なものということです。
自分の観ている映像が正しいか正しくないか、本物なのか思い込みなのか、それを自己確認するのは非常に難しいことだと言わざるを得ません。
怒りや喜びといった感情によってテンションが上がってしまった時、それを手離して、映像について冷めた目で見ることができるか。
それしかないわけですが、すでに思い込んでしまっている状態からそこまで持っていくというのは途轍もなく困難なことでしょう。
だからこそ審神者(さにわ)という存在が、とても大切になってまいります。
審神者というのは、古代の神道において祭祀で受けた神託を解釈する役割の人です。
主に巫女が神託を受け取る役目を担い、その神意を解釈する役目を審神者が担っていました。
もともと目に見えない存在からの言葉であるため、その真実性というのはとても危ういものでした。
そのため、それを受けた人間のフィルターを通して歪んではいないか、あるいは降ろした存在自体が悪神でないかどうか、それを第三者的に
判断したわけです。
さて、現実世界そのものがすでに人によって見えかたが違っているという話をしました。
先ほどのイラストのように、実際の映像(認識)として本当に違っているわけです。
そうなりますと、既成概念にないものは見えないという話にもなってきます。
極端な話、神様やUFOが現れても、見える人と見えない人に分かれるかもしれないということです。
そこまで極端でなくとも、固定観念によって目に映るものが実際に異なってくる。
固定観念には個人差がありますので、見えるものが違うのは当たり前ということになるわけですが、それでも出来れば真実に近い姿を
そのままに見たいものです。
それでは私たちが日頃過ごしていく中で、この思い込み画像というものを、どのようにして審神者に計ればよいのでしょうか。
答えは簡単です。
映像に間違いがないかを計るには、他の映像と照合すればいい。
私たちの映像とは違うものが見えている人たちに協力を頼めばいいということです。
つまり、私たちのまわりのあらゆる人が、私たちの審神者であるわけです。
私たちとは違う意見、違う判断、そういうものに対して真摯に耳を傾けていけば、自ずと私たちの囚われも薄まっていくということです。
無意識が切り替われば、観えるものは変わります。
固定観念に縛られなくなるほどに感性は細やかになり、広がりを持つようになっていきます。
味わいの深さや広さが変わっていくわけです。
子供の頃は、固定観念も社会通念もないため、同じ一枚絵でも大人の見えていないものを観ています。
それは、世界がキラキラと輝いていた理由の一つであるということです。
今この世界をよりクリアに見たいという純粋な思いというのは、幼い頃の原体験に因るのかもしれません。
さて、意識や無意識の違いで見えるものが変わってくるということは、世間一般と固定観念が違えば世界の見え方も違ってくる、視野がズレて
くるということでもあります。
いわゆる能力者という存在は、巫女のような役割の場合もあれば、単にズレているだけの場合もあります。
ただ、どちらにしても普通の人たちと何か違って特別ということはありません。
よくある話ですが、そうした人たちを特別な存在として上座に置こうとするのは誤りです。
誰もが等しく尊い存在であるわけです。
大昔はそのような人たちは、一般の人たちと暮らしを分けられていました。
もちろん畏れ多いということもありましたが、現実的な問題として、お互い一緒に暮らすには
ズレが大きすぎるということがあったからです。
その一方で、共通意識からズレた視野を維持させるために、あえて人里離れて暮らしたということもあったでしょう。
以前に書きましたが、宮崎駿監督は映画作りの佳境に入ると日頃は閉じてるフタがパカンと開いてしまって、のちのち現実生活に戻るのに
大変苦労したといいますが、まさしくそれはそういうことだったのではないかと思います。
一種の能力者と言えるような人たちもまた、普通の人とは違う苦労をしているわけです。
もしかすると逆に、私たちに見えているものが見えていないことだってあるかもしれません。
宮崎監督が言っているように、社会とズレてしまって適合障害に陥っていることだってあるのです。
良さげな一面だけを見て憧れるのもいいでしょうが、それだけでその人の全てを過大評価してしまうのは短絡的ですし、そもそも失礼です。
それは単なる思考放棄でしかありません。
この世では誰もがみんな苦労を抱えています。
IQの高い人だろうが、超能力者だろうが、進化した宇宙人だろうが、神様だろうが、みんなそれぞれの苦労があるわけです。
ただ、それを私たちの考えるところの「苦しみ」と捉えているかどうかはまた別の話というだけのことです。
幾つになってもそれ相応の苦労が訪れることは、私たちも経験的に知っていることです。
たとえば部活を始めた頃は、先輩たちがスイスイやってる姿を見て、自分も上手くなれば苦労が減ると思ったものです。
でも当然ながら、その立場になればまた新たな苦労を抱えることになりました。
どこまでレベルアップしてもそれは同じ。
むしろ上になるほど苦労は増えるものです。
会社でも、汗水たらして働いていた若手の時に、私たちをアゴで使っている部長は楽チンだろうと思ったわけですが、実際その立場になると
想像もしなかった苦労を背負うことになるのです。
自分よりも上だからハッピーだろうと羨むのは浅はかな発想でしょう。
どの立場になろうとも、一所懸命に「今」に集中すること、させられることに変わりないのです。
上も下も無いということです。
ですから、普通とは違う能力があっても、それは単にイレギュラーというだけのことで、決して優秀ということではないわけです。
比較しようとする心癖は本当に厄介です。
憧れという根っこがどこにあるのか落ち着いて見てみますと、依存か優劣という比較意識が隠れていることが多いものです。
誰かに自分の今を改善して欲しいという思いは、相手の方が上だという解釈から生まれます。
相手を上に置くにせよ、自分を卑下するにせよ、依存というのは比較意識でしかないわけです。
「あの人のように自分もなりたい」という憧れにしても、それがその空気感や雰囲気を指しているのならば別ですが、単に見た目の姿形や
立ち位置を指しているのなら、それは比較意識でしかないということです。
人より特別な存在であるとか、人より上だという気持ちは、つまらない比較意識の賜物でしかないのです。
そもそも比較というものは、どこまでいっても満たされることはありません。
なぜならば、その尺度が自分の外にあるからです。
お金を持つことが目的になると、どれほど大金持ちになっても満たされることがないのと同じ理屈です。
そもそも、見えないものが見えたとしても、それ自体に何の意味もありません。
正直、見えたって見えなくたって、関係ない話なのです。
物心がつく前はみんな見えてたのですから、今さら大騒ぎする話ではありません。
そんな即物的なことよりも、雑念を捨てて身軽になった方が遥かにラクで楽しい日々を暮らせます。
無意識のゴチャゴチャしたものが静まって清らかになれば、爽やかに風が吹き抜けます。
結果として、それまで考えられなかったような景色や味わいが現れてきます。
大病が一夜にして治ったという話や、傷が一瞬で消えたという話は、囚われが微細な結晶となって天地へと昇華して、瞬時にして霧が晴れた
結果であるわけです。
それをまた特別なことだ、凄いことだと大騒ぎすると、話が捻じ曲がってしまいます。
様々なお陰さまに心から感謝することはあっても、見た目の奇異を追うようなものではないということです。
それこそ、おかしなものを呼び寄せることにしかなりません。
自分の外に何かを求めなくても、今しがみついているものを手放せば、世界は変わります。
傷や病気のように、見えていたものが見えなくなったというのは、裏返せば、見えていなかった
景色が見えるようになったということでも
あります。
まさしく傷の無い景色、病気の無い景色が映ったわけです。
数ある一枚絵の中からそれを選んだ結果とも言えますし、魂とその他のお蔭さまが高い視点からその一枚絵に向かわせたとも言えます。
決して、自分の外にある奇異なことや特別なことが自分の世界を変えたということではないわけです。
そしてそれというのは、条件が揃ってそのようになった、「結果」でしかありません。
もしもその結果を初めから求めて、それを期待しながらやってしまうと、そもそもの前提条件が崩れてしまい、成るものも成らなくなります。
結果や上っ面に執着してそれしか見えなくなってしまうと、有形無形の邪気が介入する隙を与えてしまいとても危険です。
天地とは違った視点からの介入、つまり禍々しい存在が関わりますと、見た目の結果、上っ面だけを強引に持ってくるものです。
キズぐちに肌色の絆創膏を貼ると見えなくなるのと同じで、見ため華やかな現実を貼っつけて「今」を見えなくさせてしまうわけです。
これは、病気やキズに限らず、ご利益全般に言えることです。
奇異を求める心とは、普通ではないこと、つまり特別なことを求める心です。
それは限定商品という響きに高揚感を覚えて、ホイホイ飛びつく行為と何ら変わりません。
それは比較意識であり、優劣意識そのものであるわけです。
しかしながら、そのように私たちが見た目の誤魔化しに騙されてしまっている時でも、お蔭さまや自分自身は、様々な手を使って元の道に
戻そうとします。
そうした時、本来の状態と今とのギャップが大きいほど、その揺り戻しは激しくなります。
すっかり騙されている時はその状況を幸せだと思い込んでいるため、そうした揺り戻し作用が起きると必死に抵抗してしまいます。
しかしそれというのは、自分を護ろうとしている存在と綱引きを繰りひろげていることに他ならないわけです。
実に馬鹿馬鹿しい話ですが、そうまでして多くのお蔭さまは私たちを守ってくれているということです。
にも関わらず、それでもなお駄々をこねて耳を塞いでいると、ついにはお蔭さまも何もできなくなってしまいます。
そうなると私たちは、最早あちらの世界へ一直線となります。
崇高な存在は、私たちを見守ることしかできません。
かなり強引な手を使ったとしても、少し離れた所にヒントを置くくらいです。
本人の意思には手を出しません。
それこそ何をするのもオールOK。
すべてを見守り受け入れる天地の心とはそういうものです。
この世は、最初から最後まで、私たちが全ての決定権を持つわけです。
ですからそもそも外部に何かを求めるのは、その原理に反する無駄骨でしかないということです。
その天地の原理を無視して直接的な形で私たちの決定権に介入してくる存在があれば、その多くは
天地の心ではない存在ということになります。
つまりは、我欲に濁った存在ということです。
有形無形を問わず。
人であっても、人ならざる者であってもです。
ただし、私心なきままに直接的な介入が許されるケースもあります。
それは、親子愛やそれに相当する場合です。
我が子が盲進しているのに、それをそのままにするということはありません。
我欲の濁りなく透き通った心のまま、頬を叩いてでも直接介入するものです。
介入の動機が透明なものであれば、それは天地の心と何も矛盾していません。
そういう意味では、直接行動が出来るのはこの世だけの特権と言えるでしょう。
そのために私たちはこの世に生まれてきたとも言えます。
さて、先天的に能力のある人は、天地から何かしらのメッセージを受け取ることがあります。
それは極めてレアなケースで、基本そういう人は正体をバラしませんので、居ないものと考えたほうが正解です。
人知れず想像もつかないような御苦労様とお陰様に、頭が下がるとともに心から感謝です。
一方、後天的な場合でも稀にそうしたことはあるでしょうが、そういう人は得てしてそうしたものを拒んでいるものです。
自ら奇異を求めているような心根で、純粋な存在が現れるようなことはまずありません。
むしろ危険が大きすぎます。
おまけに不純な存在は、当然ながら、純粋そうな姿で現れます。
純粋な存在こそ恐ろしい姿で現れると言ってもいいでしょう。
なぜそのように振る舞うのか、そこにこそ本質が表れているわけです。
人間社会でも、おいしい話の裏には怖い人が居るものです。
最初はニコニコ優しそうに近づいてくるのはよくある話です。
どうしても見た目に惑わされてしまう人は、君子危うきに近寄らずです。
上っ面を求める人間は、赤子の手を捻るように簡単に騙せます。
私たち人間同士でもそうなのですから、いわんや人間以外の存在をや、です。
自分の中心にしっかりと太柱を立てて、上っ面など追いかけず、お天道様の下を堂々と歩くのが一番です。
そもそも天地の心を持つ存在は直接的な指図はせず、内発的な形で啓発します。
自分の胸の奥にポッと小さな火が灯り、ジワーッと広がるようにです。
それはサーッと風が全身を吹き抜けるような感じで思いが伝わってくるかもしれませんし、濃縮エッセンスがポーンとくるかもしれません。
いずれにしても聖書や精神世界にあるようなド派手なものではなく、普通に自問自答だったり、ふと頭に浮かぶようにして現れます。
ことさら変わったものでもなければ、特別な感じも全くないでしょう。
まず、それとは分からないくらいの日常の一瞬と言えるようなものです。
いわゆる能力者というのは、その現れ方がほんの少しズレているだけと言ってもいいかもしれません。
もしもわずかなズレもなく精度100%となれば、まるで自分自身で思いついたような感覚となるでしょう。
つまり、わざわざ奇異など求めなくとも、誰もがすでに高次からのメッセージをキャッチしているということなのです。
しかも間接的な啓示に比べて、遥かに精度の高い形で。
当たり前だと思っていること、普通だと思っていることが、実は凄いことなのです。
そのようなことが分かった上で、手品を楽しもうとするのであれば、おかしな存在に騙されることも無いでしょう。
楽しんでいると自覚している時は、決して鵜呑みにすることはないからです。
そもそも自問自答であろうと、巫女的な神託であろうと、メッセージというのはどれも自分の内から出てくるものですから、自分の中を通る時、
当然ながら自分の色がつきます。
濃縮還元でメッセージが来る場合なども、10倍や100倍に薄める作業の中で、自分の固定観念や思い込みの影響を受けてしまいます。
口寄せの形であっても、あるいは耳に聴こえる形であっても、自動書記の形であっても、映像で観る形であっても同じことです。
特に映像などは、この現実世界の物理学においても錯視が働くのですから、目に見えない世界からの受信となれば錯視が働かないはずがないと
言えます。
ですから、自分の知らないことが出てきたからといって、それがそのまま天の声だとか、真実であると決めつけるのは気が早すぎるという
ことです。
自作自演に喜んでしまうと、せっかくの真実までも取りこぼしてしまいます。
純粋なものは10%残っていればいい方で1%も無かったりします。
いや、自分の場合は50%だ、90%だとムキになっても、それこそ我執でしかありません。
本人も、周りの人も、鵜呑みにしすぎて自分の中心を失ってしまわないことが大切です。
それはそれとして「ふーん、そういうこともあるかもネ」くらいでちょうどいい。
「これは超貴重なレア情報だから有りがたい」なんてのは完全アウトなわけです。
だからこそ、昔の人たちは審神者を置いたのです。
巫女と審神者を同一人物にやらせてしまうと、脱線の危険があるからです。
ですから、誰か他の人を審神者として、自分は頭を真っ白にして謙虚にその意見を聞くのがとても大切ですし、もしそこに第三者がいなければ、
自分の中にもう一人の審神者を置くのが良いわけです。
それは、自分が巫女役の場合も、あるいは、聞き役である場合でも共通することです。
ピンと来なければその時点で自分には縁の無い話ですし、オッと心が反応したならそこだけをつまみ食いすればいい。
無理して全部を食べる必要はないわけです。
それは決して不敬でも何でもありません。
馬鹿にするのではなく、楽しむのです。
私たちが純粋に楽しんでいる姿を怒るような存在は、取りも直さず我欲の存在でしょう。
それこそ、恐れずノーです。
怖い人は、物怖じすればするほどズルズルと絡みついて来てしまいます。
とはいえ、もともとの動機が不純だった場合は、毅然としたノーは危険になりかねません。
たとえ相手が我欲の存在であったとしても、その相手が悪意をもって近づいてきたわけでなく、こちらが引き寄せたものだからです。
そのような場合は決して軽んじず、お詫びとともに心から感謝することが必要となります。
本来の天地というのは、ただ見守るだけで、直接的な手助けは絶対にしません。
ひたすら優しく見守っています。
手を出せるのは、天地の心とは違う存在です。
ご利益を求めてアチコチに手を合わせに行っているにも関わらず、何も叶わなかったとしたら、それはお蔭さまが全力で護ってくれていることに
他なりません。
私たちの自然な変化というのは、私たちの内側からしか起こりません。
そしてお蔭さまは、そのサポートを惜しみなくしてくれています。
自分の外側から起きる変化というのは、天地宇宙とは相容れない、不自然なことなのです。
火遊びは早いうちに断つのが鉄則です。
万引きやクスリというのは、最初はみんな軽い気持ち、好奇心や出来心からやってしまいます。
そして気づかぬうちにズブズブと深みにはまっていきます。
面白そうだ、刺激が欲しい、気分転換になる、心がラクになるかもしれない…
そういう軽い気持ちで超常現象に頼ろうとするのはとても危険なことです。
そして、さらに危険なのは本当に結果が伴ってしまった場合です。
それは極めて深刻で、考えただけでゾッとすることです。
呑気に喜んでいる場合ではありません。
但し、奇異というものが全てダメかというとそうではなく、それなりに効を奏する場面もあります。
しかしその場合も、自分の中心点だけは絶対に1ミリも動かさないことです。
中心は自分に置いて、視野を広げるように観ることが大前提になってきます。
効を奏するといっても、本来は劇薬であることに変わりありません。
漢方にもあるように、毒草も微量ならば薬になるという、あれです。
分量を間違えれば完全に毒薬ですし、そもそも世の中にはたとえ微量であっても身体を害する毒草の方が圧倒的に多いものです。
それだけのリスクを胆に銘じた上で、自分の中心にガツンと太柱を立てれば、大怪我は少なくなるでしょう。
さすがにそこまでして危ない橋は渡りたくないという場合は、天然由来の漢方薬もあります。
それは「趣味」です。
あまりにも身近すぎて拍子抜けするかもしれませんが、その効果はなかなかのものです。
ここでいう「趣味」というのは習い事に限らず、旅行でも何でも、とにかく日頃の生活パターンとは違う状態になるものを指します。
固定観念というのは、いつもと同じ生活環境、いつもと同じ人間関係の繰り返しによって強められていくものです。
決まり切った日常に新しい風を吹かせれば、分厚く覆われた雲にも晴れ間が生じます。
もちろん、慣れ親しんだ日常とは別世界ですから最初はストレスを感じることでしょう。
ただ、そのストレスは今までの景色とのギャップから生じるものです。
そこでウンザリするのではなく、まさにそのストレスこそがこれからラクになれる保証だと思った方がいいでしょう。
新しい世界では、今まで見たこともない価値観に出会うかもしれません。
そうした刺激が変化を呼び、気分転換となります。
今もし何かに心惹かれているならば、わざわざ劇薬に手を出さなくても十分なわけです。
ただ、たとえ天然由来であったとしてもそれはお菓子やデザートでしかなく、主食にはならないことを知っておかなくてはいけません。
私たちの命を生かすものは、今ココでしかありません。
世の中には酒に強い人もいれば弱い人もいます。
ちゃんとした大人は、自分のことを理解した上で、お酒を楽しみます。
しかし中にはアルコールや雰囲気に飲まれて、自分の中心を放り捨てて前後不覚になる人もいます。
自分の中心が定まっていれば、そのようなことにならずに楽しむことができますが、世の中には、その前後不覚の状態を好んで求める人も
いるものです。
精神世界や超常現象、あるいは健康的な趣味の世界であっても、度が過ぎるとこうした宴会と同じであるわけです。
私自身、飲むのは好きです。
日本の神様も、車座になって宴会を楽しんでいます。
要するに、楽しみ方の問題ということです。
昼の生活がつまらないためそのストレスを夜に爆発させる人が居るとします。
夜な夜な大宴会を繰り広げて大騒ぎです。
そして昼間は魂が抜けたように静かになって、ひたすら夜が来るのを待っているという感じです。
こうなると、もはや現実逃避することが日々の勤めとなってしまっています。
ここでの昼とは現実世界のこと、夜とは精神世界あるいさ趣味のことを指しています。
昼には仕事や家事に集中して汗をかけばこそ、夜のビールが美味しく感じるものです。
昼の苦労があるから夜の飲み会が一服の清涼剤になります。
悶々を晴らして、翌日に全力投球です。
私たちの住む世界は、この昼なのです。
日の当たる、表の世界なのです。
夜は家に帰ってメシ食って寝るだけです。
本当のところは飲み会なんて無くても済むわけです。
ただ、たまの息抜きくらいならば、頭がほぐれて明日への活力になります。
酒乱のケがあったり、前後不覚になる怖れがあったり、乱痴気騒ぎが苦手ならば、最初から宴会に
参加しないことです。
お酒も適量を超えると毒でしかありません。
飲み会は、節度を保って楽しむものです。
ですから、心の切り替えというのがとても大事になります。
宴会のノリのままで会社に行ってしまうと、まわりはドン引きでしょう。
精神世界と現実世界。
あちらの世界と、日々の暮らしとは別のものです。
目がどこかイッちゃってる感じにキラキラ輝いて、フワフワ浮き足だった歩いている姿が、果たしてマトモに見えるでしょうか。
自分の中心がしっかり今に定まっていることが肝心です。
感覚をフルオープンに広げたあとは、地に足つけて、目の前の仕事に集中するだけです。
「普通」という概念は、まわりとの比較で決まるものではありません。
地に足つけ、今ココを中心にして上下左右に偏りのない状態こそが、本当の「普通」です。
他人との差異ではなく、自分の中心からのズレこそが、「普通」か「普通でない」かの分かれ目になります。
私たちは、数多くのお陰様のおかげで日々を平穏無事に過ごせてます。
落ち着いた景色だからこそ、振り回されることなく色々なことに集中することができます。
普通であるというのは、本当にありがたいことなのです。
私たちは、今この景色を味わうために生まれてきています。
わざわざ振り回されるために特異な景色を求めるなんて、おかしな話です。
もう火遊びに喜ぶ年齢でもないはずです。
普通が一番。
特別になろうとする必要などありません。
素直で清らかな心にあれば、それだけで爽やかな風がサーッと心地よく、私たちを吹き抜けていくことでしょう。
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