これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

私たちの本当の故郷(3)

2018-11-13 09:00:06 | 天地の仕組み (Basharサポート)
あんなことをしなければ良かった。
あんなこと言わなければ良かった。

そのような後悔に苛まれた時は、今ココで選びなおす、今ココで上書きする、それが過去の傷を癒すことになると話しました。

ただ、そこまでやってもまだモヤモヤが消えない、自己批判が収まらない場合は、もうそれは相手への申し訳なさではなく、単純に自分自身へ
のこだわり、囚われになってしまっている可能性があります。

そう聞くと、そんな馬鹿な、本当に相手に申し訳ないと思ってるのに、と反発したくなるところですが、それは申し訳ないという思いだけが上滑り
して単なる念仏というか呪文と化している恐れがあるということです。

自分に厳しいというのは一種の美徳でありますが、度が過ぎるとそれは執着になってしまいます。

やり過ぎになっても表面上は依然として真面目で善良な振る舞いに映るために、自分自身も騙されてしまう。そうなると誰も止める人が居なく
なり気づかぬうちにドンドン加速することになります。

「これが正しい」という考え方は、例外なくそのような危険を孕んでいます。

それらは本来、自らを律したり抑えたりするブレーキの役目を果たすものですが、やりすぎると逆方向へのアクセルとなってしまいます。

車体はもう停まっているのにまだ安心できず、思いっきりブレーキを踏み続ける。
ついにはバックし始め、それでもまだ不安が消えずにペダルを踏み続けて逆方向へ加速していく。

それはまるで昔懐かしトムとジェリーやウッドペッカーに出てきそうなナンセンスギャグにしか見えませんが、私たちはそれを大真面目にやって
いるわけです。





「過去の自分を責めすぎて、傷だらけのボロボロになってしまう」
「相手はもう気にしてないのに、自分で自分を許せず自己批判が止まらなくなる」
「それが間違いと分かっているのに止められない、そんな自分が嫌で仕方ない」

どれもこれも真面目で繊細な人ほど陥りやすいパターンです。

でも敢えて厳しいことを言います。

それはもはや傷つけた相手のことをおもんばかる優しさではありません。
キッカケはそうだったかもしれませんが、途中から変質しています。
つまり美徳を隠れ蓑にして、実際は自分のことしか考えてない状態になってしまっているわけです。

自分を責め続ける
そこには、親からよく思われたい、友達からよく思われたい、まわりからよく思われたい、自分で自分をよく思いたい、「ステキ自分像」に少し
でも近づきたいという思いが隠されています。

よく思われたい衝動の出どころは、孤立への不安であり、安心に対する飢えにあります。

最初のキッカケは他人に対する慮り(おもんばかり)からスタートしたとしても、いつしかそこから離れ、最後はただ惰性だけになってしまう。
思考の暴走に陥り、目隠しの無限ループにハマってしまっている状態です。

傷口に塩を塗るようではありますが、自分を責め過ぎるという負のスパイラルから抜け出すにはこの事実を知る必要があります。

自分で良かれと思ってやっていたことが、実は最も毛嫌いしていたことだったと。

だから、もっと適当でいいわけです。
チャランポランでいい。
100点なんて目指さなくていい。

正論というのは単に一つの指標に過ぎません。
100点に近づけようとする発想自体が、自らを思考の牢獄に閉じ込める行為になってしまいます。

答えらしきものを探す、相手の望む答えを探す、万人受けする答えを探す、それこそが真っ暗闇の迷宮へ一直線に突き進む道に他なりません。
それはセッセと頑張って自分を縛っている姿でもあります。

正義や正論に囚われると、景色の一部分しか見えなくなります。
何故なら、そのとき見ているのは思考の世界であり、頭の中の牢獄であるからです。

まわりが見えなくなる、つまりフィルムの全景が見えなくなるというのは、現実が見えなくなるということです。
すると、自分が起こした波立ちも見えなくなります。

自らの思考に囚われている人は、己の頭の中を見ています。
ですから、その景色には自分の信じた正義と正論しか映っていません。
信じたものしか見えていないのですから、信じたものしか存在しない世界となります。

だからこそ、それ以外のものがそこに混じると嫌で仕方なくなります。
自分の頭の中、自分の心の中に異物が入り込んだ感覚になるため、生理的に耐えがたくなるのです。

子供の頃を思い返しますと、生徒会や学級委員にもギャーギャーと規則をわめきたてる人が居ました。
優等生気質というのは自分の信じた正義と正論を何としても守ろうとします。
自分を縛るだけでなく他人をも矯正しようとするのは、自分の世界ひいては自分の心を守るための生理現象だったということです。

自分が住む、この価値観、この世界を平和に過ごしたい、わずかな波立ちも許さない。
彼らの多くが、平和主義者で、平等主義者で、世界市民であるのは、まさにこうした理由によります。

他人のことをおもんばかっているように振る舞いながら、実際は自分の頭の中からスタートして自分のことしか見えていないため、時としてその
言動は異常な形となって表れます。

自分たちを正当化して他人を矯正しようとする。
それに従わない相手は力づくでも排除しようとする。理屈でもって潰そうとする。決してそのまま見逃すことはしません。





心が自分に向いている、つまり何でもかんでも自分に立脚していると、常に不安を抱えることになります。
それはフィルムの中に取り込まれている状態とも言えます。

他者の違いを受け入れられず、正義や正論に囲い込もうとすることは、自分自身に対してもイレギュラーな言動を慎ませ、好き勝手にやっては
いけないと己を縛ることになります。


一方、まわりへ心を向け、自分との違いを受け入れますと、この世界そのものを受け入れることになります。

それは何か正しい指標を作ってそこに万人を従わせようとする行動とは真逆のものです。
みんなバラバラ、色々な考え方、色々な評価があって当然という姿勢です。

裏を返せばそれは、自分もやりたいようにやる、まわりからどのように評価されようとも関係ない、ということになります。

フィルムの中の自分も、フィルムの中の他人も、フィルムそのものも、分け隔てなく受け入れる。
それは、こちら側(スクリーンの外)にいる私たちと同じ心、同じ目線となります。
すなわち、本当の私たちと一致した状態となります。

純粋な気持ちでやったことで誰かに喜ばれるととても幸せな心地になれるのはそのためです。
それは天地と一つになった状態であり、本当の私たちと繋がった状態です。


天地宇宙が無償の愛に包まれているというのは、本当の私たちがスクリーンに流れる画像を白黒判断つけずそのまま受け入れている姿に他なりません。
その私たちと一致した状態になればこそ安心の境地となるわけです。


しかしフィルムの中の自分に軸足を置いて自分だけに心を向けてしまうと、まわりから断絶してしまい、結果としてこちら側の私たちとの繋がり
を自らシャットダウンさせることになってしまいます。

本当の自分にフタをして、根無し草となってフラフラと流浪の旅に出る。
家も故郷も捨てた孤独の身では、不安な気持ち、不足した気持ちを抱え続けるのは当然と言えます。

だから、終わることなく安心を求め続けてしまうのです。
おてて繋いでランランランを求めるのです。

優等生気質の根っこに他人に褒められたいという思いが強くあるのもそうした理由からです。

褒め言葉とは真逆のこと、つまり非難や批判を受けると、瞬間煮沸的にトンデモないヒステリー状態になる。
それというのも、もはや己の存在そのものに関わることだからです。
それは生き死にを超え、魂の根幹を危うくさせるほどの恐怖であるわけです。

相手を攻めるときはトコトン追い詰めるのに、守勢に回ると一転、ほんの少しやられただけで激しく逆上するのはそうした理由からです。

異常なプライドというのは強い自己愛がベースにありますが、その奥には、孤立に対する不安感があるわけです。

孤立感の出どころは、自分を中心に考えるというスタンスにあるのですが、そこは正視せず、その延長上で何とか解決しようとする。
正論を振りかざし、まわりを説き伏せることで不安感、不足感を埋めようとする。
異論を認めず排他的になり、合わない人たちは駆逐排除して、安心を掴もうとする。

弱者を救わねばならぬと言うのも、実際は自分の頭の中の世界を守りたい、心を波立たせたくないというのが理由なので、その人たちから「別に
そんな必要はない」と異を唱えられると「恩知らず!あんたの為にやっているのに!」とその人たちへ矛先を向けることになります。

インテリ層に左巻きが多いのは、脳で考える世界に住む人たちであり、自意識が強く、無意識のうちに自分の腕一本で生きてると思ってしまって
いるからです。

誰にも縛られたくない、誰にも指図されたくない、自由と平等を守らなければならない。
それはワガママな子供が言っていることと何も変わらず、つまるところ自分本位であるわけです。

子供の頃から自分が頑張った結果として成功を重ね、大人になってからも自分で考えたり分析をする。常に自分から外へと発信する日々を過ごし
てきた。
ある意味それは環境の犠牲者と言えなくもありません。

自分からスタートする、自分が中心になる。
自己正当化のために、正義や正論といった標識にしがみつき、自由や平等を叫ぶ。

政府が何かをやるたび、あるいは大陸や半島が騒ぐたび、弁護士や大学教授が連名で抗議する姿はいつ見ても異様なものがありますが、それは
自然な反応だと言えるわけです。

絶対正義、正論というものは、脳から生まれるものであり、優等生気質の好むところであり、柵に守られた安心安全な世界だからです。
だからこそらそれを波立たせるものは何人たりと許さない。

もちろん彼らの全員がそうだというのではありません。
ただ、一般平均に比べると明らかに大きく偏っているのは止むを得ないということです。



さてこのように書いてきたのは、決してそうした人たちを貶めるためでも、けなすためでもありません。

正義や正論、正解というものに縛られることがいかに危ういか、目隠しそのものであるかを伝えたかっただけです。

まさにそれらを生業(なりわい)としている人たちが身をもってそのことを示しているので、その役目にクローズアップさせてもらいました。

そもそも私たちは大なり小なりこうした因子を内に秘めています。
ですから、これは決して他人事ではありません。
どれもが自分のこととして、心と体に通して行く内容だと言えます。

なにより、その因子を私たちの誰もが持ってしまっている理由こそ、最も深く知る必要があります。

正義や正論に私たちが寄りかかろうとしてしまうのは、心の奥底にある不安や不足感を払拭したいからです。
そして、その不安や不足感が生じる原因は私たちが本当の故郷を忘れてしまっているからなのです。


繰り返しになってしまいますが、もう一度触れたいと思います。

私たちというのは「こちら側」にずっと居ます。
始まりも終わりなく、何万年、何億年と、今ココに居るわけです。

しかし、フィルムの全体ではなく自分だけに光を当ててしまうと、フィルムの中で孤立してしまい、こちら側の私たちからも離れていくことに
なります。
そしてその状態が続くと、親に見捨てられた子供のように、猛烈な孤独感に襲われ不安になります。

その不安から逃れようと逆のことをやってしまい、ますます脳ミソの中へ閉じこもることになり、目隠しの無限ループへと突入してしまっている。

それが今この世界で行われていることなのです。

これは誰もが例外ではありません。
天地自然の真理を追う人たちの中にも、正論主義者、正義主義者が数多くいます。

「唯一絶対の真理はどこだろう」「不安や悩みを吹き飛ばす真実がきっとある」と夢見心地でフワフワと青い鳥を追いかけるのは、正義正論を
追うガリ勉優等生とやってることは何も変わりません。

いま目の前の景色を受け入れず、何処か遠くに飛んでいる青い鳥を探している時点で、不安や悩みの解決も、また本気で真理を見極めようとする
心も、放棄しているわけです。

すべからく自分の為にと考え、思考の自縛、脳内監獄に浸りきり、その結果として孤独と不安を増幅させている。
それが「未だ目覚めぬ人類」の正体です。

目の前の景色を見渡す、広くひろく見渡す、目の前の景色を楽しむ。すべてそのまま受け入れる。

すると、こちら側(フィルムの外)の私たちの目と、景色(フィルム)の中の私たちの目が一致することになります。
そこに心を浸すうちにまるで田舎に帰ったように不安や悩みがスーッと消えてまいります。

長いあいだ行方不明になっていた子供が、ようやく自分の家に帰ってこれた時、心の底からこう叫ぶでしょう。

Mam, I'm coming home!
(ただいまー!)

「今ココ」から一ミリも動かず、過去から未来永劫、このスクリーンを見続けている私たち。
それこそが私たちの故郷なのです。






(おしまい)






私たちの本当の故郷(2)

2018-11-06 13:16:43 | 天地の仕組み (Basharサポート)
「何の因果か知らねぇけども」というのは昔の時代劇によく出てきたセリフです。

思いもよらない展開となった時、あるいは知り合いとまさかの巡り合わせになった時などに出てきました。

この因果というのは「原因があって結果が現れる」という仏教用語で、善因善果、悪因悪果などと言われたりもします。

それをもって、何かの種(たね)があって芽が生える、蒔いた種は自分で刈らねばならぬといった教えにもなっています。

これは事実そのものなので、法則としてそれを知るのはとても大切なことだと言えます。

ですがそこで原因は自分にあるというのを真面目に考え過ぎたり、辛気くさく考えてしまうと、もうスタート時点でウゲッという気持ち(=種)が
心の中に生じることになってしまいます。
そうした種を放っておくと、それが蔓(つる)のように成長して自らを縛ることになっていきます。

因果応報のことを考えすぎて新たな因果を生むというのでは笑うに笑えません。

悪いのは自分だ、これから改めよう、という程度ならばいいのですが「常に正しくあらねばならない」となるとコレはもう自縛以外のなにものでも
ありません。

抑圧が加わると反発心が生じるのが自然の摂理です。
先ほどのウゲッがまさにそれです。

真面目に考えすぎたり、反省モードになりすぎるとそれが抑圧となって自縛に至るわけですから、それを解くためには誤った流れを断ち切る必要
があります。つまり、

「今が不幸 → 悪因悪果 → 悪い種を蒔いてしまった → 種を蒔いた自分がいけない → 後悔

と、この最後の二つが余計なわけです。
しかもこのパターンにハマると、得てして青字の部分だけでグルグル回り続けてしまいがちです。

これが「反省」であればこの先へ生かすためのものなので後腐れなくスッキリさっぱりですが、「後悔」となる過去に囚われ、自身の思考に
囚われ、日を追うごとに後腐れが酷くなってしまいます。

実際のところは、自分で蒔いた種が芽生えた、というその事実を知るだけで十分だと言えます。
事実をただ受け入れる。
そこには良い悪いという価値判断は必要ないわけです。

「因果応報」という言葉にしても「応報」の部分が余計ということです。

そもそも種が芽生えたというのは画像の変化でしかありません。
因果というと大袈裟なものを考えてしまいますが、それはただ私たちのまわりの画像が変化したものに過ぎないということです。

言ってしまえば、この世は全て因果だということになります。

たとえば顔にあたる風の強さが少し違ったり、お風呂の温かさが少し違うのも因果であるわけです。
大きい小さいに関係なく、どれもこれも同じく因果なのです。

本当に大事なことは、善果を得ようと逆算して善因を仕込むことでもなければ、悪果に傷ついて悪因を悔やむことでもありません。

その仕組み、その事実を知ることが全てです。


そうすることによって目隠し状態のエンドレスループから抜け出すことが出来るようになります。

ここでの目隠し状態とは、自分の脳ミソの中から出られなくなって右往左往しているさまを指します。
するとフィルムの全景は目に入らなくなり、頭の中の苦しみに追い立てられて走り続けるようになります。

苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ、その苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ。
まさに回転ハシゴを走りつづけるネズミのように無自覚のまま条件反射的に走り続ける。
そしてそのままの勢いで盲目的に、次のフィルム、次のフィルムへと走り続ける。

今世の中だけにとどまらず、幾世も繰り返し続けてしまう輪廻の牢獄とはこのことです。

そもそも、こちら側にいる私たちは、映像を眺めて何かを「感じる」だけです。
何かを「考える」のは、あちら側で起きていることです。


しっかり感じるためには、映し出された事実をそのままに受け入れることが必要となります。
考え事をしながら食事をしていると料理の味わいがボヤけてしまうのと全く同じです。

ですが、私たちは事実(映像)から派生した考えの方に心を奪われてしまっています。

自分たちの考えのほうを眺めても、感じるものなどありません。
映画で言えば、ストーリーや画像とは関係なしに、主人公がブツブツ独り言を呟き続けるようなものです。
いつもいつもそんなものばかり観せられていたら「あぁコイツまた始まったよ」と思うだけでしょう。

こちら側の私たちにとって本当に観たいのは、自分で蒔いた種が芽生えたという、その事実、そのストーリーです。
それをボヤかしてしまうような余計な付け足し(独り言、思考の暴走)なんてのは邪魔以外のなにものでもないのです。





私たちは、ケンケンパをする子供のようなものです。
次はどの石に飛ぼうかなと楽しんでいるだけで、石自体には何の意味もありません。
まして、それによって私たち自身が変質するというようなことはないわけです。

石とはフィルムの一コマのことであり、まわりを囲む景色や現実のことです。

「一歩」というその実際のアクション、実際の行動によって、波紋のようにこちら側に刺激が伝わってくる、そして私たちの魂が色々なことを感じる。
その瞬間に「意味」が発生するのであって、一歩先の踏み石そのものに意味があるわけではありません。

私たち自身は何一つ変わっていません。
私たちは変わらずに、外の景色だけが変わります。

外の景色が理想的なものになれば幸せを感じられるというのは、単に私たちがそう信じているだけのものです。
脳で幸せと考えたものと、心や魂とは別の状態にあります。

だから、ややこしい。

脳で考えたものは、どこまで行っても満たされることはなく、むしろ苦しみが増していく。
何千年も私たちはこのループにはまってしまっています。

どうなれば幸せになれるかというのは、頭だけで判断できるものではありません。

頭で考えた理想というのは「欲望」「一般論」「価値観」に支配されがちです。

何故なら、考えというのは何もないところから捻り出されるものではなく必ず何かを起点としなければ作り出せないからです。

ですから、こちら側の私たちが感じていること、それを起点にしていればそれは純粋なものとなっていきますが、大抵はあちら側のフィルムの
中にあるものを起点としてしまいます。

自分のことばかり考えていればいるほど、そうなります。
つまり、フィルムの中に埋没していればいるほど、そうなるということです。



食欲や物欲、名誉欲、承認欲、自己満足。
こうしたものは一見バラバラですが、実は安心したいという点で共通しています。

安心したいということは、その前提として不安に感じる状態があるということです。
もとの状態を受け入れられていないのですから、そこに戻るたびに不安になります。

結果、与えられれば安心するものの、長続きしないということになります。
安心を維持するためには新たなものを与え続ける必要が出てくるわけです。

たとえば事業が大成功したら満たされるかというと、今度は綺麗な人と付き合いたいとか、野球チームを持ちたいとか、宇宙に行きたいとか、
どこまで行ってもキリがありません。

そもそも、新たな刺激を求め続けるのは私たちの本能です。
それは、こちら側の私たち、今ココの私たちが求めているものです。
それが「生きる」ということの根幹にあります。

ただ、もっともっと上のものを、と欲しがっても物質世界であるかぎり無限にレパートリーが存在するわけではありません。
また誰もがそうしたものを叶え続けられるわけでもありません。

同じ景色でも満足を感じるためには、途中に不足の状態を挟むしかなくなります。

あれ?と思うかもしれません。

私たちの人生で、苦労や不足感が絶えずやってくるのは、まさしく満足を得るための自作自演だったということになります。

ですから、とどまることのないループから抜け出したい、あるいは苦労や不足感を断ち切りたいのならば、まずは「頭で考えた幸せを追うことを
やめる」のが第一になるわけです。


下手な考え休むに似たり。

考えた幸せというのは、無限ループの迷宮路に一直線です。
何度も生まれ直す輪廻の牢獄もまた、これと同じ理屈にあります。

これは輪廻そのものが良くないと言っているのではありません。
仏教が否定的に扱う輪廻の牢獄というのは、眠り続けたままでの暴走トラック状態のことを指しています。

もとより、こちら側の私たちが刺激を得るためには輪廻こそが最良と言えます。

ただ、新しいアトラクションを嬉々として乗り替えていくのと、目隠ししたまま何が何だか分からずに同じジェットコースターに乗り続けている
のとでは全くの別物であるわけです。

自ら目隠しをして条件反射的な無限ループから抜け出せなくなる、仏教が説いているのはそのパターンです。

輪廻というものは不幸で、輪廻から解放されるのが幸福だなんて誰も言ってません。
解脱することが魂として進んでるなんていうのは幼稚な発想でしかありません。

同様に、善因善果や悪因悪果も、単に仕組みを説明するものでしかなく、悪因悪果がいけないなどとは一言も言ってないわけです。

それは、目隠しをしたまま「不条理だ」と嘆き悲しむ子供たちを見て、目を開けてみなさいと優しく教えているに過ぎないのです。





マウスの実験でこういうものがあります。

ニコチン入りの水の入った容器があってスイッチを押せば数滴ずつ出てくる仕掛けです。
依存症のマウスは一度学習すると何度でもそのスイッチを押し続けるようになると言います。

不安と苛立ちを自ら作り出し、そこから逃れるためにカゴの中をウロウロし、ニコチン水のスイッチを押す。
飼い慣らされた家畜。まだ目覚めていない人類。
グフジェフが言っているのはそういう意味でした。

豪邸を夢見てついに手に入れた、あるいは事業に成功した、そうしたものは素晴らしいことです。
ただ、その喜びというのはそうした景色そのものにあるのではなく実現の過程にあるものです。

そこを勘違いして景色そのものを喜びと思ってしまうと、ニコチンを追うマウスと同じになってしまいます。

夢を描いて泥や汗にまみれるのは尊いものです。
ただその尊さは泥や汗にあって、夢そのものにあるのではありません。
夢は方便でしかないわけです。

そこを履き違えると欲望ループに身を委ねることになってしまいます。

ですから「夢見た景色を簡単に手に入れる方法」なんていうのは本末転倒の極みでしかありません。
そこに至る過程、経験、つまりその刺激こそが真の目的だというのに、そこをすっ飛ばして結果だけ得ようとは、いったい何のために生まれて
来たのかという話です。

引き寄せの法則というのは、思い込みを捨てるための方便としては有効ですが、私たち自身をさらに深い眠りにつかせて家畜化させる危険のほうが
遥かに大きいと言わざるを得ません。

私たちの頭が夢見る「成功続き」「幸せ続き」というのはまさに無限ループそのものです。
新たな刺激を得れば得るほど依存度というものは高まっていきます。
クスリならばその先にあるのは廃人です。

アメリカの億万長者がボロボロになっていく姿をこれまで山ほど見てきているはずです。

そうした無限の欲望ループを絶つため、言いかえれば私たちを依存症にさせないために、早め早めの失敗や不幸が起きていると言うことだって
できるわけです。



「結果ではなく過程こそが目的そのもの」
その理由は、まさしく私たちが今ココから動けないことに尽きます。

今ココから一ミリも動けない私たちというのは、まわりが変化することでしか何かを感じること
ができません。
こちら側は変わらない。ならば向こう側の変化から刺激を受けるしかないということです。

何故そんな面倒くさい仕掛けになっているかは既に説明したとおりです。

もともと、こちら側しか存在していない。
もともと、今ココの私たちしか存在していない。
ただ、こちら側だけでは何も起きない。
なぜならばそれは一つの同じものであるから。

だから大いなる一つ(=私たち)は「自分以外」という概念(向こう側)を作り出したのでした。

こうすることで、外からの刺激によって内から生じるものが出来ました。

そのために私たちはこの世を生きているのでした。

結果だけにしか目を向けないというのは、わけもなくオモチャを欲しがる子供にそのままアホみたいにジャンジャン与えるのと同じです。

景色を比較すること自体が無意味なことだと分かれば、過去に戻りたいとか、あの時ああすれば良かったなどというのが単なるおママゴトでしか
ないと知るでしょう。

すべてコレでいいのです。

選択肢は無数にあります。
ただ、選択は一つです。
今ココにおいては、あれ以外の選択など無かったのです。

今ココの選択というのは常に一つしかありません。
どれが正しいなんていう概念はそもそも存在しません。
選択したもの、それが唯一絶対です。

どれが成功でどれが失敗なんてものはない。
それは単なる幻想です。
ですから将来を心配する必要も無いわけです。

「そうは言っても割り切れない」「あの時ああすれば良かった」「もっと他の選択があった」と悶々を消すことができないならば、今ココで
それをやり直せばいい。


空想のおママゴトより遥かに現実的な話です。

今ココで選択できるのは一つですが、選択肢そのものは無限にあります。
先ほどまで選び続けてきた選択を、今この瞬間に変えることもできます。

過去の選択に不満を覚えるならば、あれこれ理由をつけて続けたりせず、今ここで少しでも違った選択をしてみればいい。
大きく違うのが怖ければ、ほとんど違いが分からないくらいの選択をすればいい。

見た目が変わらなくとも、心が違えば、それは違う選択となります。
不安などというのは自作自演の幻想でしかありません。


ガチャッと行き先を変えたらそのレールの先は谷底に真っ逆さまかもしれない、なんていう不安こそが幻想そのものです。

私たちは今ココにしか存在できません。
あちら側には存在できません。
フィルムのコマの中に入り込むことはできないのです。

まわりの景色がどうなろうと、私たちは今ココから一歩も動きません。

だからどんな選択をしても絶対に大丈夫なのです。
どんな選択をしても非難する存在もいません。
こちら側はそもそも私たちしかいないからです。





これまで出来なかった選択。
それこそが、未来の私たちからすれば「やり直し」と同じ意味になります。

同時にそれは、今から見た過去においての、やることのできなかった悔やみを晴らす選択にもなります。

「過去あの時の自分が謝れなかった、けれども今この自分は謝れた」
不思議なことにそれによってあの時の悔やみは半減します。そしてそれを繰り返すにつれて、あの時の悔やみは綺麗さっぱり無くなります。

「過去あの時に怖じ気づいて選択できなかった、けれども今この自分は思い切って選択できた」
それによってあの時の自分への非難や反省は半減します。そしてそれを繰り返すうちに、あの時の傷も無くなっていきます。

何故ならば、傷ついているのはあの時の自分ではなく、今ココの自分だからです。

謝る相手や選択する内容が、今と昔で違うものだったとしても、私たちは変わらず今ココにあればこそ、その原理は発動します。

それは向こう側ではなく、こちら側に刺さったトゲです。
悔やんでいることがあるならば、それを今ココで正せば、時空に関係なく過去も癒されます。
私たちは一ミリも動かず変わらず、今ココに在り続けているのですから。

時空(時間・空間)なんていうものは所詮あちら側のものでしかありません。
単なる景色であり、その羅列でしかないわけです。

私たちが過去を悔やんでいるという時、それはその当時のまわりの景色に対してではなく、自分自身に対して向けられています。

ですから今のまわりの景色が当時と違うものだったとしても、今この自分に上書きされた最新の言動こそが時間を超えて全てを凌駕するものと
なります。

過去の自分を書き換えるには、当時に戻らなくても、今ココの自分を上書きすればいいということです。

過去に冷たい態度を取ってしまったりヒドいことを言ってしまったとしても、今ココで心から謝り新たな気持ちで接すれば、過去のモヤモヤは
すぐに消えます。

子供たちが仲直りの達人であるのは、まさにこの一点に尽きます。
そして、そうであればこそ子供たちは後悔などとも無縁なのです。





(つづく)







私たちの本当の故郷

2018-10-28 20:06:06 | 天地の仕組み (Basharサポート)
映画や小説などで、過去に戻って人生をもう一度やり直すというストーリーがあります。

あの時こうしておけば良かった、あの時あんなこと言わなければ良かった、と過去の失敗を挽回する内容です。

こうした作品は、形を変えて繰り返し何度も作られています。
それがウケるというのは、単なるエンターテイメントとしてだけではなく「他の選択をしていたらどうなっていただろうか」という思いを抱いて
いるからなのかもしれません。


「あの時の選択が違えば、まわりの景色も違うものになっていただろう」
「もっと華やかな景色に囲まれていたかも」
「もっと幸せになっていたかも」



そうした思いは純粋なものです。
今と違うものを求める思いは、変化を求めて行動を起こすための原動力になるからです。

とはいえそれは、目の前の今に対して向けられるものであって、過去に向けてしまいますと少し話がおかしくなってしまいます。

確かに昔の選択が違っていれば、まわりの景色も違うものになっていたでしょう。
ただそれは客観的な事実(つまり横並びに飾られている異なる絵画を見ているだけ)でしかなく、目に映るものが違ったからといって今より幸せ
だったかというと、それはまた別の話になります。

ここでの「華やかな景色」「今よりいい景色」というのは、たいていは仕事や家庭や人間関係といったものが明るく楽しく幸せに溢れていたり、
衣食住が充分に満ち足りている状態のことを指します。
そうなれば心おだやかにニコニコ過ごせるという論法です。

瞬間的な現象面だけ見ればそれは正しいと思えますが、私たちの心そのものが心底おだやかになったかというと必ずしもそうとは言えません。

華やかな現実に囲まれている時というのは、私たちが心の底から聖人君子になったわけではなく、単にイライラしたり悲しんだりするようなネタ
が無いだけのことです。

根本的な心の在り方というのは、まわりの景色によって変わるものではないということです。

仮に「食べ物を粗末にするのはいけない、感謝しながら汁の一滴まで残さない」という自分なりの信念があったとします。
その願いは、好きな食べ物に対してはラクラクと達成できるでしょう。
でも嫌いなものが入っていたら素直に喜べるかどうか極めて怪しくなります。

「イヤだ、いつも心から感謝していたい、だから好きな物だけ食べよう!」
そんなのは単なる偏食家、単なるお子様ランチでしょう。
いいから、体壊さないように嫌いなものでも少しは食べとけよと思うはずです。

でも、美味しい景色ばかり求めるというのはそれと同じことです。

フワフワとシャボン玉に囲まれた優しい世界。
ニコニコと喜び、感謝している自分。

それはそれで素晴らしいものかもしれません。
ただ、感謝できていることを目的化させてしまうと本末転倒になってしまいます。

どんなに景色が良くなろうとも、私たちの心そのものが今と変わることはありません。

私たちはどうしても目先の誘惑に駆られてしまいます。
仕事も家庭も苦労知らずで順風満帆になれば、自分もニコニコ温厚になれるはず、と。

繰り返しになりますが、それは心そのものが変化したのではなく、単にプラス反応を生むような刺激だけを選り好みしている状態です。
条件反射のいいとこ取りをしただけ。
お子様ランチだけ食べていれば幸せだと言っているようなものです。

いい景色になれば心も穏やかになれるという期待は、小手先の誤魔化しや単なる自己満足、果ては偽善にもなり兼ねないということです。



景色が変わることと、私たちが変わることは文字通り別次元の話です。

あの時どのような選択をしようと、私たちが今ここに居続けていること自体は変わるものではありません。
どんな選択をしようとも私たちは今ココに居るということです。

今この景色というのはたしかに、過去の原因によって顕れた結果です。(仏教でいうところの「因果」)
ですから、あの時に別の選択をしていれば確かに景色も変わったことでしょう。
でもそれは私たちの外の世界の話に過ぎません。





カタカタと映写機が一コマ一コマを写していく。
それを操作技術者が冷静に眺めている。

時にフィルムをテープで繋ぎ。
時に何もせずジーッと眺め。

しかしどんなにテープを繋いでも、コマの中に彼自身の姿が写り込むことはありません。



だからこの世界は自分で自分の姿が見えないのです。

あまりにも当たり前だと思ってスルーしていることですが改めて言います。
この世では私たちは決して自分のことを見ることが出来ません。

それは私たちは「こちら側」で、それ以外はすべて「あちら側」だからです。

それこそ当たり前と思うかもしれません。

「自分」と「自分以外」。
「内側」と「外側」という感覚。
「こちら側」と「あちら側」という感覚。


その感覚が当たり前であるならば、この先の話も当たり前だと思えるはずです。

それは「どんなに景色が変わろうとも、私たちは今ココから一ミリも動いていない」「動けないということです。

常に、今ココの自分しか存在していない。
あの時もこの時も、そして今も、ココに居る自分はこのままずっと変わっていない。

ココに居る自分があの時の景色を見ている、そへが「あの時の体験」であり、私たちの脳が「過去」として認識しているものです。

今ココに在るこの自分は、はるか何万年何億年の昔から、そしてこのさき何万年何億年たとうとも、変わらずココに在り続けている。

最初も終わりもなく、私たちというのは今ココにしか居ない。
そうしてただただ、まわりに流れる立体映像を眺めている。

死の瞬間にしても、そこにオン・オフやリセットといった断絶はありません。
まわりの景色が変わるだけのこと。
今ココの私たちは何も変わらない。

もちろん何万年何億年の時が経つにつれて、こちら側の感覚や意識はドンドン広がり深まるかもしれません。
個も全もすべて溶け合っているかもしれません。
それでも、今ココという私たちは何も変わっていないということです。

何万年何億年の昔にしても、その逆で、こちら側の感覚や意識の広がった状態からスーッと小さな点へとフォーカスしていって、その点から
広い世界を逆側から見るという流れがあったかもしれません。
それでも、今ココという私たちは何も変わっていないということです。

今ココにしか居ない自分。
ココから一歩も動かない自分。
それが目の前に映る景色から刺激を受けて、様々な反応を「内から」(=こちら側で)発生させる。

それが「この世で生きる」の全体像であるわけです。

「幸せな反応しかできない景色だけを望む」というのが、いかにナンセンスかよく分かるところです。

過去に自分は居ないし、未来に自分は居ません。
自分というのは常に「今この自分」しか居ません。

時がどれだけ経とうとも、まわりの景色がどんなに変化しようとも、私たちは一ミリも変わりません。

「今ココに生きるぞ!」なんて肩ひじ張らなくとも、そもそも私たちはそれしか出来ないのです。

今ココに集中するというのは、要は、この事実に気がつくことです。

フィルムのコマの中に自分を貼り付けず、本来の状態に素直になる。
私たちはどうあがいてもコマの中に映らないし、もうそれはそのまま受け入れてしまう。

それを別の表現で言えば、天地宇宙と一体の状態となり、心身一如となります。

天地宇宙とはフィルムのコマ全部であり、その外にある会場や映写機の全部、この空間全部のことです。
もうお分かりかと思いますが、これらは次元を一つずつ落とした表現になっています。

フィルムのコマの中に自分を意識しようとすると、他のすべてから分離して、それ以外がシャットダウンしたように真っ暗になってしまいます。

他のコマが今ココから分離して存在しているという感覚を抱いてしまうのはそのためです。
天地宇宙が大きすぎて捉えどころのない存在に感じてしまうのも、またスクリーンの外の世界が無になってしまうのも、すべてはそのためです。

そのフィルムは今ココにあります。
他のコマもすべてココにあります。
過去も未来も、すべて今ココにある。

スクリーンの1ヶ所だけに心を押し込めず、スクリーン全体を見る、全体をそのまま受け入れる。

私たちはこちら側に在り続けています。

私たちはそれしか出来ないし、この世はそういう仕組みになっている。
自然な姿、自然体とはそういうことです。

それを知れば、今ココしか無いということが、本当の意味で分かるはずです。

天地宇宙が分離する前(正しくは「分離したと仮想する前」)の、たった一つだった時というのは、今ココのこの自分だけが全てで、まわりに
流れるものは何も無い状態だったわけです。

退屈この上ないどころか、そのことすらも気がつけない状態だったと言えます。

それがあるときフト気がついた。

声とは意識。
光とは感覚。
声と光と分離は同時に起き、「今」が生まれました。


私たちのまわりに流れる景色というものが、いかにありがたいものか、尊いものか、カッコつけやフワフワした気持ちなんかではなく、心から
そう感じることができると思います。

たかだか自分一人の人生だろう、なんてちっぽけなものではないのです。

天地宇宙も、あの世も、大いなる一つも、すべては今ココにあります。




(つづく)




未知を選ぶ

2018-04-27 08:17:56 | 天地の仕組み (Basharサポート)
シリア情勢や北朝鮮問題で世界が揺れています。

西ではロシアと欧米の睨み合いが続き、東では中国とアメリカの睨み合いが続き、冷戦時代よりもキナ臭い雰囲気が漂っています。

その一方で国内は、自己保身と自己満足的な善悪に囚われるあまり、国の安全をないがしろにしてまで政権の足を引っ張ろうとする不浄に溢れて
います。

さらに国土は沸々とうごめき始め、いつ大地震や大噴火が起きてもおかしくない状態となっています。

そのどれもがあまりに大きな話すぎて、一市民としては如何ともしがたい。成るようにしか成らない。諦めるしかない。。。
そのように思ってしまうところかもしれません。

でも少し待って下さい。

この世は、いつ何どきであろうと、あらゆる方向へと広がっています。
それは5、6本のレールが敷かれているような景色ではなく、360°満遍なく広がる大平原であるわけです。

そこには「無理」とか「大丈夫」というような色分けは何一つ存在していません。

量子力学ではパラレルワールド(多次元宇宙)の存在が予測されています。
今この世界この宇宙というのは足の裏の一点です。
そして一歩先に360°広がる平原こそが、あらゆるパラレルワールドに相当します。

つまり目の前に踏み出した一歩が、先ほどとは異なる別宇宙になるわけです。

これは物理的な一歩についても当てはまることですが、ここでは心の一歩のほうについて話を進めていきます。

色々な宇宙がどこか遠くに存在しているということではなく、目の前に存在している。
それが多次元宇宙の意味です。
目の前の景色に高次元が畳み込まれていることは数学的にも証明されています。

考えられる限りのあらゆるパターンがすでに存在しており、それらは重なり合うようにして繋がっている。バラバラの存在では無いということです。

三次元の空間が重なり合って四次元になる。
四次元の時空が重なり合って五次元になる。
それは物理的なこの世の説明にもなっていますし、同時に時間的なこの世の説明にもなっています。

空間というものを連続性として捉えればそれが時間という概念になるだけのことですから、多次元の話をする時には、時間も空間も同じものと
なります。

つまりはどういうことかというと、多次元宇宙といった場合、物理的なものが複数存在していると同時に、時間の流れとしても複数が存在して
いることを意味するわけです。





多次元宇宙を「並行宇宙」と表現してしまうと、決して交わらない別々の存在をイメージしてしまいます。
しかし実際は網の目のように重なり合っています。

電車に乗っている私たちにはひたすら真っ直ぐ進んでいるように見えますが、実際はあらゆる方向に走る網の目の上を、常に自由自在にポイント
チェンジしているわけです。

その自由自在さを許可するもしないも、全ては機関士たる私たち自身にかかっています。
私たちは決してボケーッと座るだけの乗客では無いのです。

ここが一番肝心なところです。

「列車の行く先は分からないし、自分にはどうにもならない」と思った瞬間、私たちは客席でスヤスヤ眠る一乗客と化します。

世界情勢や国内情勢、はたまた天地の災害も、それが他人事になってしまった瞬間、私たちは未だ眠り続ける家畜と化します。

この世界は常に、いつ如何なる時も、私たちを中心に回っています。

今この瞬間も、私たちが天地宇宙の中心です。


ですから意識するしないに関わらず、「どのパターンを選ぶか」「どの道を選ぶか」を、全ての瞬間で私たちは選択しているということです。

怠惰を貪っていようと、あるいは深い眠りについていようと、私たちは必ず選択を続けています。
それこそ「成るようにしか成らない」とか「諦める」という選択を、常にし続けているわけです。

「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」…
という具合にです。

そのことが頭までいちいち上がってこないので自覚しないだけで、実際は心で毎瞬その判断が継続されています。

一瞬たりと選択のない瞬間はありません。
毎瞬毎瞬、必ず選択をしています。


この世に存在している限り、私たちは必ず何らかの選択をし続けているのです。

といって、ここで「だからこそポジティヴな選択をしよう」などと言うつもりはありません。

それがポジティヴな方向だろうが、ネガティヴな方向だろうが、実はどちらでも構わない話です。
ポジティヴでなければいけない、なんてことは有りません。

ポジティヴがいいように思われているのは、その方が変化に富んでいるからです。
そして、いわゆる苦しみや悩みから離れやすいからです。

でも悩みや苦しみをネガティヴに捉える必要はありません。
そもそもネガティヴを忌み嫌うこと自体がおかしなことなのです。

ネガティヴもポジティヴも単なる後付けの固有名詞、ただの概念でしかありません。

右寄りだろうと左寄りだろうと、私たち自身が何か変わったわけではない。
ネガティヴでもポジティヴでも本当にどっちでもいいのです。

「無限の並行宇宙が存在しているのに今はこんな苦しみの中にいる」
「嗚呼そのような選択をしてしまっている自分は何てダメなんだー」
「せっかくの今世を無駄にしてしまっている」
「申し訳ない」「もったいない」「これではいけない」


なんて考えること自体、無意味なのです。

どれでもOK。どの道でもOK。
道を変えずにそのまま行くのもOK。

大切なのは「この世界にはあらゆる選択肢がある」という事実をしっかり認識することです。

「私たちは常に選択し続けている」「今のこの状態こそが自ら選択したもの」「次の状態も自ら選択するもの」と理解することが何より大事で
あるわけです。
それ以外のことはオマケでしかありません。

中でも、ポジティヴがいいとかネガティヴが悪いとか、いちいち白黒判断して一喜一憂する心グセこそが最も余計なオマケと言えます。

それこそが、遥か手前で私たちを堂々めぐりさせて本質に辿り着かなくさせてしまっている元凶だからです。



私たちは無意識のうちに、選択肢は限られていると思い込んでいます。
内容によっては、ハナから不可能だとして、選択肢そのものが無いと自動判定してしまいます。

私一人が祈っても何も変わらないと思えば、何も変わりません。
それは変わらない世界へ参加したからです。

私一人でも祈れば変わると思えば、確実に変わります。
それは変わった世界へ参加したからです。

私たちは常に選択と参加を繰り返しています。

もちろん、一歩で完成された理想世界へ瞬間移動するなんてことは有り得ません。
私たちはそれをよく分かっています。
分かっているあまり「だから現実が変わるはずない」と無意識のうちに全否定をしてしまい、一歩目すら踏み出さなくなっています。

しかし実際は、網の目に広がる平原の「一歩」で、どちらの世界へ繋がっていくかが決まっています。

そこへ行くには自分たった一人がその一歩を選べばいいだけなのです。

その一歩を選んだとしても、そこにある景色は先ほどと何の変化もありません。
何の実感も伴いません。

そこで「やっぱり変わらないじゃないか」とガッカリするとどうなるでしょうか。

それは無意識のうちにわざわざ元の方向に引き返すことになります。
当然その先には何も変わらない世界が続くことになります。
何も変わらない道を選択し直してそこへ参加したからです。

せっかく新たな一歩を踏み出しても、私たちはそのようなことをしばしばやっています。

過度な期待をかけると、このような無意識の反動が起こります。

そのまんまでいいのです。
どうせ一歩目が変わらないのなら、そのままホッとけばいいだけのこと。
わざわざ元の方向へ戻らなくたっていいじゃないですか。
わざわざ元の心の状態に戻らなくたっていいじゃないですか。

あれ?景色かわんないなぁ、、、
でも、ま、いっか


そう。ホッとけばいいのです。



さて、夢見がちなポジティヴ思考が、逆に自分を縛ってしまうケースは他にも数多くあります。

大勢に思いが伝われば世界が変わる!
たった100人が同調すれば世界中へシンクロする!


それは「同じ思いの人が大勢集まらないと世界は変わらない」「最低100匹そろわないと変化は起きない」という思い込みを自ら刷り込むことに
なっています。
すると自分一人のたった一歩を踏み出せなくなったりします。

行動としての一歩があっても、心の一歩・思いの一歩が伴っていなければ、それは一歩も踏み出していないことになります。

大勢だとか100匹なんていうのは関係ない。
実際は「自分一人だけで全てが決まる」「すべてが変わる」のです。

その一歩を踏み出したあとの、結果として、少しずつ猿がそろって100匹になったり、世界の大勢が同じ思いになっていく。
そうした途中駅が存在しているだけのこと。
それらは単なる通過ポイントに過ぎないということです。

不安や心配を背負ったままウロウロしたところで、向こうから駅がやってくるなんてことは絶対にありません。

ただ一歩を踏み出すことが全て。

世界情勢のこと、国内情勢のこと、天災のこと。
どれも自分一人にとっては大きな話すぎると思うから、その場に猖獗(しょうけつ)してしまう。
自分一人では変わらないと思うから、一歩目を踏み出さなくなってしまう。

世界は大勢で変えるものでもなければ、他の誰かが変えるものでもない。
この自分一人が全てを変えている。

これまで生きてきて、自分が何もせずとも、勝手に世界は変化していた、と思うのは大間違いです。
世界の中心のあなたが、そのルートを選んだというのが真実です。

参加したから変わった、選択したから変わったのです。

それは無意識のうちにまわりに流されただけかもしれません。
それでも、あなたがその流れに参加した、流されるのを選択したのは間違いありません。

そうであればこそ、意識的に参加したり、意識的に選択する場合も、まったく同じ理屈になることが分かるでしょう。

今もまた、あなたはこれまでのように「このまま流れに身をまかせる」という選択と参加ができます。例えば冒頭に書いたような流れにです。

どちらに参加するのが良いという正解はありません。どの道もすべて等価です。

繰り返しになりますが、その一歩を自覚しながら参加することが大切というだけです。



陥りやすい勘違いをもう一つだけお伝えして、最後にしたいと思います。

道を選ぶといっても、それは「コレと決める」ことではありません。

決めつけというのは居着き(✳︎ある状態から別の状態へ変化するのが鈍いこと、遅れること)、つまり凝固に繋がります。

その場に停滞するということは、せっかくの一歩目でまた立ち止まってしまうことを意味します。

武道において居着きというのは、どこかに力みがあることによって生じます。
それは頭がカチコチになっている状態、つまり心身が自我に縛られている状態を指します。

「こうやるのが正解」
「こうきたらこうしよう」
「こうやりたい」
「これでいいのだろうか」

あれこれ真面目に考えすぎたり、気負いすぎたり、我執に囚われたり、心配や不安になると、滞りが生じます。

それは「既知を追っている状況」と言い換えることもできます。

知っているパターン、頭に描いていたパターンに乗っている時はスムーズに進みますが、そこから外れるとたちまち居着いてしまいます。
下手に成功体験があると、心配や不安もないまま無意識のうちに既知を追い、そのルートを強固にしてしまいます。

コンビネーション(✳︎打撃系での連続攻撃のパターン)が上手くハマっていくと安心と自信が増しますが、反面それ以外のパターンが脆くなって
いきます。

そのため、どんな攻撃、どんなシチュエーションにも対応できるようにコンビネーションを増やしていくのですが、実はその過程というのは、
既知のパターンへの依存を棄てていく過程でもあります。

これは私たちの日常にも当てはまることです。

ですから、もしも既知を追うのならば、ストイックなボクサーが黙々と練習を続けるようにどこまでも突き詰めていくことが大切になります。

自分の既知のパターンから外れるような想定外の状況が訪れた時に、逃げず慌てず、コツコツと向き合う真摯さが必要ということです。

ここで一番まずいのは、ある特定のコンビネーション(既知のパターン)だけに固執して、それが通じない状況に対しては目をつぶって部屋に
閉じこもってしまうパターンです。

決めつけというのは執着に通じます。
本来、目の前には無限の平原が広がっているのに、安心と不安によって選択肢を縛ってしまうとそこには決まり切った一本道しかなくなります。

ある形を追う、理想形に囚われる、それは武道であっても現実生活であっても共通するところでしょう。
それが悪いことではありませんが、そのルートで進む場合は、常に一つ高いところを追っていこうとする向上心が不可欠ということです。

つまり、今に固執せず、変化を求める心です。
それが欠けると、たちまちその場に居着くことになってしまいます。

つまりは「既知を辿りながら、未知を追い続ける」というのがこのルートの全貌になります。

たとえ難関なルートであろうとゴリゴリ真面目にやっていかないと安心できないというのが、地球共有の価値観になっています。

それはそれで何も問題はないのですが、途中でくじけてしまい、今に固執し変化を嫌がるケースが多くなっているのも事実です。

今日お伝えしている最も簡単なルートは、こだわらない、考えすぎない、気負わない、というただそれだけなので、これまでの価値観からすれば
ズルいと思うようなやり方かもしれません。

リラックスしている時、居着きは生じません。
自由自在な状態こそが未知に通じます。

不安や安心を手放す。
決めつけや価値観を手放す。
白黒つけない。こだわらない。

私たちはこれまで無意識のうちに、不安や安心を基準にしてルートを決めてきました。

しかし、道を選ぶというのは「未知を選ぶ」ということに他なりません。

未知を追う一歩一歩が道となります。

ですから、道開きとは未知開きのことを指します。
そして未知開きの神様とは私たち自身のことであるわけです。

そんなことが起きるはずない、そんなふうになるはずがない。
そのように思った瞬間が、未知開きのチャンスです。
なぜならその自問自答こそが未知を証明しているからです。

世界情勢、国内情勢、国土のうごめき。
この鬱屈した悶々を何とかしたいと思ったならば、未知を選ぶということです。
ゴリゴリと頭で考えすぎてはそこに居着いてしまいます。
既知にしがみつくというのはそういうことです。

天地は常に未知を求めています。

だからこそポジティヴもネガティヴも関係ないわけです。
あらかじめ決めつけられている価値観は、心の停滞しか生みません。

大事なことはただ一つ。

「いま目の前の、その一歩」

二歩目も100歩目も存在しない。
そこにあるのは常に目の前の一歩だけです。

心を止めない。放棄しない。

目を開いて進めよ、進め。
行く先には無限の未知が広がっています。



(おわり)



思いが創造している

2018-03-24 19:19:08 | 天地の仕組み (Basharサポート)

今日は小難しい話が続きますが、難解なところは読み流して、最後までお付き合い頂ければ幸いです。



量子力学の世界では、何もない真空の状態であっても、そこにエネルギーが集中すると物質(素粒子)が現れることが分かっています。

そしてその際は必ず、粒子と反粒子という相反する二つのものが出現します。

一つではなく二つが対になって現れることから、これを「対生成」と呼びます。

そして、その二つの素粒子が再び出会うと、その存在は物質的にはこの世から消え去り、エネルギーという形に変化します。
これを「対消滅」と言います。

要は、何も存在しないところに突如物質が現れることが物理の世界でも証明されているということです。



このことは、違う形でも確認することができます。

もともと素粒子は波という状態で存在しているのですが、観測されることによって粒子というに変化する性質を持っています。

それは、私たちの可視領域においては「観測する前はそこには何もなかったのに、観測することによって現実が現れた」と言うことが出来ます。

あるいは「観測する前はフラットな状態であったところに、観測という行為によってイベント(出来事)が現れた」と表現することも出来ます。

素粒子は、私たちが観測することによって波から粒子へと形を変え、その姿をこの世(物理世界、三次元世界、可視領域)に現す。

その現実化において「観測する時々によって出現する場所が変わる」という現象があります。

これは「不確定性原理」と言われるものです。

このことは、粒子としてこの世に現れる以前は、それが空間のどこかしこにも存在していることを示しています。

たとえば水面上を可視領域、水面下を不可視領域と見なした場合、水面下では波という形で広がっているということができます。

つまり「形」ではなく「状態」である時は、空間すべてに広がっているということです。

だからこそ空間のどこにでも出現する可能性があるわけです。
そうして観測が向いた瞬間にエネルギーが集中して、水面上で物質の現実化が起きる。

目には見えないけども、宇宙というのはもともと変幻自在な万能細胞の種(ソース)に満ち満ちた状態にあるわけです。
それが私たちの行為によって、ポンと目に見える形となって現実に姿を現すということです。


この不確定性原理は、未来というのが常に不確定であることを証明するものとなっています。

水面下からポンと現実が結晶化する時、それが現れる場所は等しいわけではなくそこには偏りがあります。
というのも、水面下に満ち満ちているとはいえ、それ自体は流動しているからです。

動いているということは、どこに現れるか確率的に高いところと低いところが生じるということです。

たとえば川の流れや風の流れでも、それが流れている限りわずかに速いところと緩やかなところが生じます。
それと同じことが起きているわけです。

流動性こそが未来の不確定性を生み出しています。

具現化する場所が常に確定的だったならば、この世はあらゆるイベントやゴールが全て決まったものとなってしまい、単調なゲーム世界でしか
なくなります。

とはいえそんな世界というのは、万能ソースが等しく満遍している状態、つまり流れることなく停止していることが前提となります。
でも、その前提ではそもそも天地は存在できませんので、世界が存在しているかぎり未来の不確定性は必然であったと言えます。

(おさらいになりますが、全ての存在は流動するものであり「流動=存在」であります)



それにしても、観測者の期待や意図とは関係ないところで現実化する、というのは本当によく出来た仕組みです。

あらゆるものは意図したものと違う形で現れる上に、現れる場所も不確定。おまけにいつ出会えるかも分からない。
この先に何が起きるのか、何が待っているのか、誰にも分からないし、まだ決まっても居ない。

これでもかというほど、想定外のことばかりが発生するように出来ています。
しかも、これから先も意図せず無限に発生する仕組みになっている。

「未知」を体験するゲーム世界を考えた場合、これほど神がかり的な仕掛けはないでしょう。



「思い」というのはエネルギーです。
そして「観測」というのは実際の行為です。

思うこと、行なうこと、この2つの重要性については遥か昔から繰り返し言われ続けていますが、実に科学的な根拠に基づいていたと言えます。

冒頭の「対生成」にしても、エネルギーが向くことによって、何もないところに突如物質があらわれました。

エネルギーが集中すると「対生成」が起きるというのは、私たちが思いを発すると宇宙のどこかで対生成が起きることを示唆しています。

整理するとこうなります。

■思いが起きた瞬間、それはこの世の何処かで現実化している。

「こうなる」という思いと「こうなった」という現実が、対生成されるわけです。

それはつまり、何も考えず過ごしているだけでは夢のような出来事はやってこないことを意味します。
黙っていて、向こうから何かのイベントが訪れるようなことは無いということです。

なぜなら、本当にしたいことや本当に望むものが自分で何か分からないうちは、それはこの世にまだ存在しないからです。

あらゆる可能性が水面下に無限に存在しています。しかし水面の上で結晶化して実存とならなければそれに出会うことはできない。

ですから、フト立ち止まって、自分は本当は何がしたいのか、本当は何を望んでいるのか、何が幸せなのか、我欲に根ざしたものではなく
客観的に淡々と自己観察することがとても重要ということになります。

ハタッとそれが何なのか気づいた瞬間、それはこの世に発生する。対生成が起きるわけです。

思いついた瞬間それはこの世に発生しています。

信じるとか疑うとかそういう次元の話ではなく、物理法則としてそうなっています。

そして疑いや恐れといった、よそ見やシャットアウトをせずほっとけばプラスとマイナスの引き合いによりそれらは必ず巡り会う。

これもまた物理法則の一つです。

対生成によって生じる粒子と反粒子は、見事に正反対のプラスとマイナスとなっています。
信じるとか信じないとかではなく、それが事実です。

そもそも天地宇宙というのは、対生成と対消滅の繰り返しで生成発展しています。

まず初めに、気づくこと。
それがエネルギーとなります。

そしてそのエネルギーによってこの世にあらわれたものは、私たちの思いと対を成しているため、必ず巡り会うようになっている。

自分が創造したものには必ずあえる(合える、会える)ようになっている。
対を成すものは、ムスビの力、結合力によって繋がってます。

違う見方をすれば私たちは自ら創造したものにしか逢えないと表現することもできます。

そしてこのことは「まわりへ発したものが自分に返ってくる」という現象そのものの説明にもなっています。

優しさを出せば優しさが返ってくる。
それを鏡の反射と表現したりしますが、それは単に、自らの思いによって対生成したものに巡り合った瞬間でしかないわけです。

祈りもまた同じ仕組みです。

ですから、神社に行ったり仏壇を前にしたり、あるいは日常において、感謝を思うという行為は量子力学的にも最善にして最強であるわけです。

「感謝というエネルギーが生じた瞬間、その感謝の具現化が起き、それが私たちの目の前に現れることになる。」

この仕組みに例外はありません。

たとえ表面上で感謝を謳ったとしても、芯の部分に打算があれば、そちらが対生成(具現化)します。

いわゆる引き寄せの法則にしても、鏡の法則にしても、見返りの思いを発した場合には、その思いと対を成すものが発生するわけです。
そしてムスビの力で固く繋がりますので、私たちは必ずそれと出逢うことになります。

同様に、妬み(ねたみ)や怒り、憎しみの思いを持った瞬間、その思いと共に対発生するものが、ムスビの力によって私たちの目の前に現れる
ことになります。

別に自業自得というような懲罰的な仕掛けではありません。
あるいは、自らを正すための教科書的なド真面目マトリックスが仕込まれているというわけでもありません。

(ここが大きなポイントです。理解したつもりになってそこで満足してしまうと、またグルグルと迷宮をさまようことになります)

この世は、善とか悪とかそんな窮屈な価値観に支配されていません。

単に「無意識の思い」×「不確定性」=「表層意識にとって最もサプライズなイベント発生」という公式が存在しているだけです。

天地宇宙は、とにかく未知を求めている。
それが最大限に極まっていればいるほど、プレイヤーの仰天リアクションは最大化します。

つまり、天地宇宙(=私たち)はビックリ仰天したいわけです。

そしてそこには価値判断など存在しません。
「ポジティブな(幸福な)」ビックリ仰天とか「ネガティヴな(不幸な)」ビックリ仰天とか、そんな枕詞は存在しないわけです。

私たちの価値判断に関係なく、天地宇宙にとってはビックリ仰天という体験が全てです。
その見た目が幸福であろうと不幸であろうと、そこはどちらでも構わない。
表層がどうであるかはどうでもよくて、ただその衝撃だけを求めている。

偏屈な美食家が、見た目の華やかさや残念さなどに左右されず、その味わい深さだけを求めるようなものです。

だからこそこの世は、ビックリ仰天を最大化する仕掛けになっているわけです。

「私たちにとってそれがどれほどの悲劇・不幸であっても、それを味わっている天地宇宙は最大限に喜んでいる」

…なんだそりゃ。そんなことは到底受け入れられんし、理解したくもない。

それで正解。それが普通の反応です。
別にそこで優等生になる必要なんてありません。

天地は天地、私たちは私たちです。
同じ感性になろうとする必要なんかありません。
理解者ヅラなんてまったく不要です。

それぞれに感じ方が違うこともまた、あれこれ味わいたがりの天地宇宙の望むところであるわけです。

あとはただ、ポジティブな方とネガティヴな方と、私たちがどちらを望むか。それだけです。

でも今のこの世界では、ポジティブを望むことで逆にそれを遠ざける現象が起きています。

それはポジティブな願いがどれも「間違えるのは嫌だ(ダメだ)」「貧乏は嫌だ」「平凡は嫌だ」などと、拒絶否定がスタートとなっている
ことが原因となっています。

ネガティヴなことに焦点が当たった状態にある限り、ポジティブな現実化は起こりません。

つまり、まず最初に必要なことは「正しい正しくない」といった決めつけ、価値判断、心グセを手放すことであるわけです。

先ほど「バチが当たる」「正さなくてはいけない」という思考が迷宮入りの元凶となると言ったのはそのためです。

天地宇宙(私たち)は私たちに完璧人間など求めていません。
そもそも何をもって完璧とするのか、その時点ですでに価値判断の世界から抜け出せていない証拠です。

「正しい・正しくない」など、天地宇宙には存在しません。
そんなものは私たちが決めたものに過ぎません。

「与えたものが与えられる」

私たちにそれを与えているのは誰なのか。
まさしくそれは私たち自身です。

スイッチを押すのは、神様ではありませんし、ハイヤー何とかでもありません。
ましてや、それ以外の何者かであるはずがありません。

世界がこうだからダメなのだ。社会がこうだからダメなのだ。生活がこうだからダメなのだ。家庭がこうだからダメなのだ。人生がこうだから
ダメなのだ。自分がこうだからダメなのだ…


残念。すべて不正解。

私たちの外のものが、そこに勝手に現れることは出来ません。
外のものが外のものを生むことは出来ないのです。

内が外に出る。

それがこの世の仕組みなのです。



(つづく)