ブロークバック・マウンテン/アン・リー監督
なるほどこれは純愛であるな、というのはよく理解できた。禁断の愛というか、認められない愛という設定もなかなかズバリとストレートだ。当たり前だが、男であろうと女であろうと、これはよく理解できることだと思う。
以前の禁断の愛の代表は身分違いであったろう。海外文学にもそういうものは多いようで、人類には普遍的な共感があるのかもしれない。だが、戦後民主主義の世の中になって、そういう実感は分からなくなった。恋愛に平等はスリルがなくなるのだろうか。
子供のころの少女漫画の世界では、幼馴染ものが多かった。これは禁断というか、擬似近親相姦なのではないかと思われるが、勘違いだろうか。オタクポルノには妹ものがけっこうあるが、性愛として踏み外すスリルなのかもしれない。もしくは安易な征服欲か。
同じく少女漫画の世界では、同性愛ものはあんがい普通に描かれている分野である。どういうわけか男同士が多いのだが、女性ではなまなましすぎるのだろうか。
一方で宝塚があるんだけれど、あれは美しい男というものの憧れのようにも思う。本当に美しい男は女でなければならないのかもしれない。
女形というのもあるが、女の立ち振る舞いの美しさを演じるということに意味がありそうだ。線としては女にかなうはずもなかろうが、これが動くといったん男の視線が必要になるのかもしれない。まあ、僕にはよく分からないのだが…。
同性愛ではセックスそのものがなんとなく気になるのだが、具体的にはあんまり問題がないのだろう。構造的にいろいろ違うのではないかと思いはするが、まあ、そんなに違わないということにもなんとなく納得できる。
気持ちが悪いというのも、正直にいって感じることだ。偏見があるからそうなのだと言われると、そうなのかなあ、とよく分からない。正直言って僕にはそんなものないよといいたいが、それはやっぱり他人事で、受け入れるにはどうしても抵抗がある。やっぱり偏見なんだろうか。
性愛は自由ではないかというのにも、抵抗がある。本当にそうだろうか。欲望として自由だというのは、ポルノとしてでないとやはり問題があるように思うからだ。強姦は暴力だし、幼女性愛もやっぱり問題がある。認められないのは偏見だと本当に強弁できるか。
同性愛は異常性愛なのかというと、今は微妙になったのだろうか。病気ではないらしいが、理解者はまだ多数ではなかろう。同性愛は歴史が古いが、少数だからこそ問題が隠れてしまうのではないか。どういう文化にも、どこにでもある現象でもあるとは思われる。そうすると、やはり自然と認めるべきか。
米国の一部ではかなりオープンな場所があるらしいから、それがハッピーかといえば、まあ勝手にどうぞである。そこのあたりでは、感情的に冷たい自分がいる。しかし日本のお笑い芸人を受け入れる民衆には、デリカシーのない暴力を感じる。彼こそ本当の偏見ではないか。本当のハードゲイは、草陰に隠れて泣いているのではないか。
実は本当に心揺さぶられ感動したので、疑問は感じなかった。哀れで切なくて泣ける映画だ。
しかしながら思い起こしてみると、家族は裏切っているわけだし、偏見に耐える視点だけが強調されすぎていて、あんがい不公平なのではないかとも思えてきたのだ。実は上手く騙されたのではないか。時間がたつと、複雑な感情にさせられる問題だ。
不幸な状況がある。人間は、時代に翻弄される運命だということなのだろうか。
なるほどこれは純愛であるな、というのはよく理解できた。禁断の愛というか、認められない愛という設定もなかなかズバリとストレートだ。当たり前だが、男であろうと女であろうと、これはよく理解できることだと思う。
以前の禁断の愛の代表は身分違いであったろう。海外文学にもそういうものは多いようで、人類には普遍的な共感があるのかもしれない。だが、戦後民主主義の世の中になって、そういう実感は分からなくなった。恋愛に平等はスリルがなくなるのだろうか。
子供のころの少女漫画の世界では、幼馴染ものが多かった。これは禁断というか、擬似近親相姦なのではないかと思われるが、勘違いだろうか。オタクポルノには妹ものがけっこうあるが、性愛として踏み外すスリルなのかもしれない。もしくは安易な征服欲か。
同じく少女漫画の世界では、同性愛ものはあんがい普通に描かれている分野である。どういうわけか男同士が多いのだが、女性ではなまなましすぎるのだろうか。
一方で宝塚があるんだけれど、あれは美しい男というものの憧れのようにも思う。本当に美しい男は女でなければならないのかもしれない。
女形というのもあるが、女の立ち振る舞いの美しさを演じるということに意味がありそうだ。線としては女にかなうはずもなかろうが、これが動くといったん男の視線が必要になるのかもしれない。まあ、僕にはよく分からないのだが…。
同性愛ではセックスそのものがなんとなく気になるのだが、具体的にはあんまり問題がないのだろう。構造的にいろいろ違うのではないかと思いはするが、まあ、そんなに違わないということにもなんとなく納得できる。
気持ちが悪いというのも、正直にいって感じることだ。偏見があるからそうなのだと言われると、そうなのかなあ、とよく分からない。正直言って僕にはそんなものないよといいたいが、それはやっぱり他人事で、受け入れるにはどうしても抵抗がある。やっぱり偏見なんだろうか。
性愛は自由ではないかというのにも、抵抗がある。本当にそうだろうか。欲望として自由だというのは、ポルノとしてでないとやはり問題があるように思うからだ。強姦は暴力だし、幼女性愛もやっぱり問題がある。認められないのは偏見だと本当に強弁できるか。
同性愛は異常性愛なのかというと、今は微妙になったのだろうか。病気ではないらしいが、理解者はまだ多数ではなかろう。同性愛は歴史が古いが、少数だからこそ問題が隠れてしまうのではないか。どういう文化にも、どこにでもある現象でもあるとは思われる。そうすると、やはり自然と認めるべきか。
米国の一部ではかなりオープンな場所があるらしいから、それがハッピーかといえば、まあ勝手にどうぞである。そこのあたりでは、感情的に冷たい自分がいる。しかし日本のお笑い芸人を受け入れる民衆には、デリカシーのない暴力を感じる。彼こそ本当の偏見ではないか。本当のハードゲイは、草陰に隠れて泣いているのではないか。
実は本当に心揺さぶられ感動したので、疑問は感じなかった。哀れで切なくて泣ける映画だ。
しかしながら思い起こしてみると、家族は裏切っているわけだし、偏見に耐える視点だけが強調されすぎていて、あんがい不公平なのではないかとも思えてきたのだ。実は上手く騙されたのではないか。時間がたつと、複雑な感情にさせられる問題だ。
不幸な状況がある。人間は、時代に翻弄される運命だということなのだろうか。