カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

小鳥たちは知らないのかもしれない

2010-04-21 | 雑記
 現実問題として、日本の将来、それもかなり近い感じのものだけど、それがかなり危ういというのは共通認識だと勝手に思っていたのかもしれない。同業関係だけじゃなくても、ちょっとばかり近しい関係になったときに、なにげなく、やっぱり危ないなということを言うと、相手はなぜかヘラヘラ笑うことが多い。ちょっとだけ不思議に感じていたんだけど、これはそんなことわかんないよ、というサインなんだということが薄々分かってきた。何だ、共有する以前に無知なんだ。
 僕は預言者じゃないよ。だけど、もう逃げられませんよ。今からどうにかなるというのは既に幻想に近い。何でそんなことも見ないで済ませられる人が多いんだろう。そのことの方がはるかに異常なんです。ま、だけど力入れて言うことでもないね。ジャズの世界なんだろう。
 もう諦めてから既に何年かにはなるんだろう。しかし、僕自体は努力はやめません。それは僕の為でもあり、正直言って僕の後の世代の為でもある。報われない努力はしたくないから辛口になるということはあるにせよ、手遅れでもあるんだということは分かってはいるんだ。矛盾を抱えたまま戦うのは本当につらい。僕自身は一人では無いはずだ。それだけが、こころの支えだったのかもしれない。しかし、そういうものはたぶん無いのだろう。一人でも立てる世の中。厳しいが、それ以外に選択肢さえなくなってしまったのかもしれないのであった。がーん。しかし、やはり考えるのは止めるわけにはいかない。小出しにするので、受け止める人よ、あらわれよ。
 なんか新興宗教みたいだな。とほほ。
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1Q84 book3

2010-04-21 | 読書
1Q84 book3/村上春樹著(新潮社)

 読み始めていきなりあれっというような裏切りを感じないではなかったけど、まあ、物語は作家の自由だ。その時点である程度結末は予想できないではなかったけど、本当にその通りになるのかはそれこそ分かったものではない。読書体験としては素直に楽しいひと時ではあった。続編がどうだという議論ももちろんあるが、それは勝手にどうぞという気はする。ただ12月が過ぎたらたぶん1Q84も終わる。スターウォーズのように過去にさかのぼる手が無いではないが、天吾君のお母さんの謎など話が、このラブストーリーの支えになるものだろうか。
 物語自体はそれなりに単調である。それがつまらないかというとそんなことはないのだけど、二冊で構築された世界が広がりを見せる展開というよりは、収束に向かって坦々と準備を進めているという感覚はあった。もちろん多少は危ういサスペンスはあって、全体を見通せる読者の目としては、もう少しお互いに慎重になるべきではないかという気分にはなる。肝心なところでそれぞれに考えられないミスを重ねているようにも見える。準備の割に本番に弱いというか。まあ、僕自身だってうまく立ち回れる自信はないのだから、他人のことを言えた義理ではないが。
 オウムの影響が色濃くあるのだという。実は僕はそれはあまりにも直接的な背景のような気がして、かえってピンとこないところでもあった。オウムの場合実はインテリで、それなのに何故という図式がなんとなくあるのだが、さきがけにはそれが感じられない。リトルピープルはデビット・リンチのように音楽的だが、笑えないディズニーでもある。この部分が確かによく分からないけれど、彼らの宗教なんだからそれはそれでいい。それにしても犠牲が多すぎるなあとは思うが、人間というのは彼らにとって何なの分からないので仕方がない。
 僕は運命論者なのではないと思う。しかし、恋愛というものの物語や歴史においては多少の運命は必要な気がしないではない。そんなものが無くても全く支障はないともいうことはできるが、そのように見える恋愛であっても、よく考えると運命的な要素はまったくないとはかえって言えない。それが小学生の時の一瞬であったというのは、なるほどそういうものかなとは思うが、彼らがそうなのならそうなのだろう。現在の彼らが満足であって、将来においてもそれが支えになるというのならそれでいい。実は多かれ少なかれ、僕らにとってもその物語が支えになることは確かだからだ。恋愛に連続性はあるが、もちろん強弱もある。弱い部分の補強は、運命に補ってもらう必要があるのではないか。上手く補強ができていないものは、壊れてしまう可能性もある。その後修復可能ならば問題なかろうが、その前に運命の力が強力であれば、事前に対応可能なのではないか。
 村上春樹は一人っ子だそうだが、そのことでの影響は確かにあるのかもしれないとは感じた。僕自身は6人兄弟の三番目の二男坊だから特にそう感じるのかもしれないが、出てくる人物のきょうだいなどの影がやたらに薄い。それに個人個人がものすごく孤独である。確かに大人になると肉親との付き合いはそれなりに減る。減りはするが無くならない。それが(僕が感じているだけかもしれないが)ある程度は普通の家族の中の個人という状態であって、天涯孤独という状態は、ものすごくまれな人の特殊な状態なのではないかと思う。しかし、その人を丁寧に書いていくにしたがって、そういう状態がますます希薄になっていく登場人物たちを眺めていて、やはり特殊な人たちばかりが登場する物語という感じを抱かざるを得ない気がするのだった。よくもまあ揃いも揃って孤独なものよ。彼らが集まっても結局はバラバラにしかならない。皆違う道を歩むしか無かろう。
 人間は最終的に一人だということは確かにそうだ。そしてその孤独というのはなかなか厄介だ。しかし村上作品は、そういうことを特に好んで共感を求めているきらいがある。少なくともそういう感じは確かにある。しかし実はそれが大きな共感があるらしく、多くの支持を得ているようなのだ。僕自身を鑑みても、その共感の大きな柱は、孤独への希求のようなものなのかもしれないとは感じている。誰も認めてくれなくてもかまわない孤独な自由。しかしそれは誰かが説明してくれなくては上手く表現することができないのだ。
 村上作品に上手くとっつけない人がそれなりにいるのはよく分かる。そういう共感に冷めたものを感じてしまうからではないのか。どこか白々しいものを感じてしまうのかもしれない。しかし、村上作品が求められ成功しているというか、これだけ影響力があるということには、おそらく誰もが持っている個人的な欲求を代弁しているからだということが感じられる。うまく説明できないし分かってもらえない心のひだのようなものを、作中の人物がある意味で語ってくれるからではないのか。読書はある意味で現実逃避だ。普段は活字を読まない人まで巻き込んでしまうのは、それはブームのなせる業であるとはいえ、そのままある程度引き込んだまま離さない村上作品の魅力は、そのような人たちの代弁者だからではないかと、薄々僕は疑っているのである。
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