刑事コロンボ・逆転の構図/アルフ・ケリン監督
悪妻を持ってしまったら問題というのはある。歴史的に名を成した人に悪妻のある人も多い。いや、良妻が居るのなら悪妻だって居るわけで、悪妻だから名を成すことができたのかという根拠も無いわけで、たまたまかもしれない。しかしおそらくそのことで苦労しただろうことが想像されるというのが、なんとなく親しみ深いというか、楽しげと言うことかもしれない。しかしながら殺してしまいたいほどの悪妻ということになると、ちょっと話は慎重にならざるを得ない。その運を呪うにしても、果たしてその選択でいいものだろうか。悪妻を殺して背負う罪に見合うものなのだろうか。
とはいえ犯人は殺してしまったのだから仕方が無い。コロンボの場合基本的にそういう設定になっているが、それなりの地位にある人が殺人犯になる。このリスクに見合う理由が大切という気がする。単に性格の悪い女と付き合っていくのが面倒なくらいで、普通は殺すまではしない。妻の地位というものがあるにせよ、もう付き合いたくなくなったのなら、それなりに別の方法を選択するほうが賢明だ。まあ、ことはそう簡単には運ばないのかもしれないが、女性が夫を切るより、男性が妻を切るほうが法的には難しいのかもしれない。そうするとこれは社会的な圧力に屈してしまった結果だろうか。殺人はある意味で身勝手だが、退路を断ったのが法的な問題なら、それなりに気の毒である。
気の毒なのは犯人やその悪妻だけではない。この事件に巻き込まれて殺されてしまった人の良い受刑者である。せっかく更正の機会に一所懸命なのに、あえなく騙されて殺されてしまう。僕はこの人のためにコロンボに頑張って欲しいと願うのである。これは必ず犯人は挙げられなければならない事件になってしまった。人の正直な希望を踏みにじることが、それほど罪深いと思うのだろう。もちろんお話としてはトリックとしてこの人が殺されるという展開でなければ面白くないのである。それなら恨むべくは脚本家かもしれない。そういう見方でドラマを見ている人から恨まれるとは、よもや考えていないだろうけれど…。
信用できない酔っ払いの証言の裏を取るために、コロンボが同じような立場の人間に間違われたり、物語の内容も、それなりに凝っていて面白い。そういうキャラクター遊びをするような人気が既に高まっていた証拠だろう。そういうことを語らずに面白かったものが、強調されて楽しまれるようになっている。後にピーター・フォークが、コロンボそのもののイメージの払拭が困難になり、それ以外の役を演じることが許されなくなったように、アイコンとしての確立が重層的に決定づけられていくのはこういうことなのであろう。
それにしても犯人は、身を切って自分の被害者的な立場を演出する。実はこれが一番僕にはできそうに無いことだ。そんなことで感心しても始まらない話だけれど、自分の足を銃で撃って、その後に行動できると計算した根性は見上げたものである。まあ、そういうことがなければ成功しないトリックということで、本当は疑いを持っているということではあるんだけれど…。