夏になると特に、平和を願う人たちの目を覆うばかりの蛮行が目立つようになる。平和のための暴力性が際立つのは、その正義の正当性の確信がそうさせるものと思われる。イスラム原理主義などと同じで(あくまでイスラムだけでなく、原理主義的なものすべてだが)、正義が明確な人は、いつも暴力的になってしまう。さらにそのことに無頓着で、反省も無い。
学生の頃、ある人の紹介で長崎市の平和運動活動家といわれる人に会いに行ったことがある。なかなか熱いおじいさんで、しかし、僕らはシンポジウムのようなものを企画していたのだが、他の参加予定者の面々のお話になると、強烈に批判に転じて、驚いた。印象的だったのは「私は子供が毒の飴玉を舐めようとしていたら、手をはたいてでも阻止する」という言葉だった。比喩としては面白いが、ちょっとこれは上手くいかないな(というか周りの安全がどうかなというか)、と思って結局お呼びすることは無かった。
僕はいわゆる活動家ではないし、信念を持って何かを主張される人については、それ自体については、特に何も言うつもりはない。しかしながら、そのことで自分の周りの人に、何か影響があるような場合には、黙っている訳にはいかない。その時は自分から会いに行っている訳で、単に驚いてしまったことだったが、しかしかえってお会いできて良かったかもしれないとは思った。それまで平和活動家というのは、何か信念に至る思いがあって、いわば偉い人なんだとばかり思っていたが、お会いしてみると、単にちょっと変な人に過ぎなかった。賛同される人もいるのかもしれないが、普通の感覚では、むしろ反感を買うような気分になる場合の方が多いのではあるまいか。彼の場合そういう分かりやすい人だったので、僕は話の途中であったが、これは無理かもしれないと率直にお話した。そうしたらそのおじいさんは、素直に認められてご破算になった次第だ。
僕は誰もが分かり合えるというような話は信用していない。話せばわかるというのは、非常に無責任な態度であるとさえ思う。もちろんだからといって対話を否定している訳ではない。特に説得においては、ある程度は根気よくという姿勢は必要だろう。しかしながらそれが一方的にいつまでも続くような関係というのは、単に不自然なだけでなく、不毛であるということに過ぎないと思う。分かり合えないことを、お互いに尊重しあうべきなのだ。
もちろんいつかは夏は終わる。不愉快なものは通り過ぎていく。もちろんまた巡ってくると、また不快なことは確かだが、蝉の声だって、生きているうちのことであろう。切ないまでも、いつまでも共感のない夏。それは、僕にとっての長崎の夏でもあるのである。