カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

古典を再構築するということ   オリエント急行殺人事件

2020-02-19 | 映画

オリエント急行殺人事件/ケネス・ブラナー監督

 あまりにも何度も翻訳されている古典的な名作ミステリ作品であるばかりか、映画はもちろんドラマで何度も制作され、モチーフとして作品化され続けている物語である。要するに筋を知らない人の方が稀だろう。そういう作品を、いわゆるシェイクスピア俳優(監督もするが)であるブラナーが手掛けたということである。これもおそらくだが、これからもクリスティ作品を古典として再発掘するという意思の表れだろう。多くの人が演じたポアロ役を自ら演じることで、何か世に問いたいところがあるのかもしれない。
 という前提がどうしても必要な作品になるが、要するに古びた作品をどう解釈しているかというのが第一にある。結論を言うと、実にオーソドックスに作られていて、意表はついていないが、まあ、確かに彼はもともとシェイクスピアだもんな、という感じだろうか。結局古典が好きなんだろう。そういう意味では、かなり頑固な作品かもしれない。
 そもそもこのお話は、僕ら日本人の目から見ると、人間中心主義的な傲慢さのある作風だと思う。知られている話なのにネタバレになるといけないので言えないが、お話の結論も、さらにそれに至る殺人の動機も同じようにそう思う。これが許されると主張しているところや、許されるために幾重にも仕掛けられている伏線もしかりである。日本の大岡越前なら、どう考えるだろうか。まあ、比較文化ではないし、それはいいだろう。
 お話の成立のための前提にある話なのだが、そもそも護衛を頼まれているにもかかわらず、ポアロが断ること自体で、僕にはたいへんに胡散臭さを感じる。これこそが西洋的な自己中心判断だからだ。自然に対峙してもなお、自己が先に来るのである。それは、本来は欺瞞だが、自己弁護のためには必要な儀式のようなものだ。お話はそれで面白くなるということになるのかもしれないが(多少の後ろめたさも含めて。いや、それは日本人的な感情かな)、結局は神の視点である。そう、実際にはメタ視力的な神の許しが必要なのだろう。そのための言い訳が、この物語には詰まっている。謎解きは、そのためのストーリーなのだ。
 一応は批判めいたことを書いたが、面白いとは思う。今後も期待もしている。知っている作品なのに楽しめるというのは、やはり力量があるからである。古典を再演出する力である。そういう自信そのものが、やはり西洋的な力の根源なのだろう。
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