カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

美食家宣言

2020-05-12 | 

 僕はいわゆる美食家ではない。だからと言って何を食べてもいいという気持ちではないけれど、いわゆる美食家に対して憧れも無いし、そのような生き方を今後もしないのではないかという予感がある。もちろん、大枚はたいてそのようにできる素養が無いというのは確かだろうが(大金が入るとそうする可能性がゼロとは言えない)、それなりに思うところがあるからだ。
 ハンバーガーがまずいわけではないが、自分の選択としてはまずありそうではない。いわゆるジャンクフードっぽい感じが嫌なだけかもしれない。かみさんが作ってくれるハンバーガーなら喜んで食べるが、チェーン店のものなら、まず食べには行かないだろう。
 牛丼も同じくそういう感じか。仕方なくなら入ることも無いではないが、進んで食べたいものではない。まずくはないかもしれないが、貧しさはあるせいだろうか。何か作法がありそうな感じが嫌なだけかもしれない。「つゆだくで」という言い方をしたくないのだろうとは思われるが、そういうのを説明するのがめんどくさい。常連でもないのに常連っぽい雰囲気を作らなくてはならない感じがしゃらくさい。単に考えすぎであるけど。
 そうだった、思うところある理由だった。
 寿司なんかを食っていて、特にこれを思うのである。そんなに回らない寿司を食うわけではないが、たまに食うことはある。確かに旨いし、これは回転寿司とは別物であるというくらいは分かる。さらにこの寿司屋というのは、ものすごいところがあったりする。これもめったに行かないからありがたく楽しいが、支払いは楽しいわけではない。さらにそれくらい凄いところは若気の至り以来行ってないからもう忘れそうだけど、確かに美味しかったなあ、という感動とともになんとなく襲ってくる感慨のようなものがあって、しかしこれが同じ寿司として数十倍も美味しいかといえば、果たしてそうかな、ということかもしれない。ネタによっては百倍くらい値段の違いのものも、あるかもしれない。しかし百倍旨いかという問題には、ならないのである。
 もちろん、エンタティメントとしての加算はあろう。場の雰囲気や技能に対するリスペクトや、そういうものが加味した値段でもあるし、もしもそういうものが安いのであれば、かえって口に入りにくくなり(予約が取れなかったり並んだりする時間を要したりの手間)合理性を欠けるというのも分かる。高いものは燦然と高額である方がいいと、市場経済を鑑みて正当に思う者でもある。
 しかし、もう一つの合理性を求める自分自身に、この何倍かの差をうめるべく正当な合理性を認めていないところがあるのかもしれない。そういうものが食べ物の世界であって、美食の世界への不信でもあるのだ。
 ということで、僕は食べ物に倍率を求めていない。そういう何倍もの上の旨さのあるかもしれない(または何倍も不味いかもしれない)素材があるからといって、現在食べようとしているそのものを、味わうことに集中したい。記憶をたどってどうだというのは言えるのかもしれないが、今味わっている味のことの方が、何倍よりもリアルに、今の自分の体験として重要だ。ただ今僕が旨い。そういう素直さにおいて、僕だってすでに美食家なのである。
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みじかくても中毒になるかも・2

2020-05-12 | なんでもランキング
 最初に種明かしをしてしまうと、和田誠が紹介していたので読んだわけだ。僕は正直に言って、学生時代にヘミングウェイを読んだときは、途中までで挫折した。キリマンジャロの雪とか、短いものは数編読んだが、長編はダメだったのである。文章が上手いというのは分からないではないが、内容がよく分からなかった。妙にカッコつけている気もしたし、若い僕には合わなかったのだろう。


 それで和田誠である。紹介されていたのは「殺し屋」という話だ。妙な話だが印象に残るのである。そうして、やっぱりヘミングウェイは凄いのだな、と分かる。どういうわけかいささか古くなったような気もするが、面白さは不変だろう。

 それと和田誠は、村上春樹の「踊る小人」も紹介していた。これはなかなかの凄い話で、確かに読み返しても恐ろしかった。


 でも僕は、やっぱり「納屋を焼く」が特に好きだ。これを読むと、ターンテーブルにレコードを置いて聞いていた頃があったことを思い出す。もうそういうことはしないけれど、音楽はたくさん聴きたくなる。そうしてビールもたくさん飲みたくなる。いい話では無いのだけれど、やっぱり村上春樹は凄いんじゃないか、と改めて思える。映画化された話は、ある意味で別物だが、しかしこの話の凄さに感化されて作られたことは伝わってくる。それくらい、これらの短編は力を持っている。ノルウェイの森が後に大ベストセラーになる布石が、今となってははっきり見えてくるのではなかろうか。その後の巨大すぎる村上春樹というのは、ちょっと行き過ぎてしまった嫌いはあるのだが、しかしこれらの作品が凄くないことはない。輝きはちっとも褪せてなんかいない。いや、いまだに何か新しいのである。

 そうしてアンソロジーであるが、誕生日の話なのにあまりハッピーなものが少ない。多くの作家は、いや、あるいは村上春樹の好む話は、ちょっと素直じゃないのかな、という感じかな。そうして最終的に、村上自身の作品がやはり一番すごいのである。これって反則じゃないだろうか。


 多くの作家に猫は愛されている。犬だって愛されているはずだが、猫はたくさん愛されているように見える。偏執的に猫を愛している人が多いような気もする。そうしてこれも、実を言うと村上春樹なのだ。長編小説の切り取った断片が、実は見事な短編小説でもある。もちろん、パラパラと適当に読んでも猫は楽しめる。いろんな猫は、人間の鏡でもあるようだ。


 そうして村上春樹の訳文といえば、レイモンド・カーヴァーなのである。実は僕にはよく分からない話が多いのだけど、こういうものが小説なのだな、と思うのだ。僕は小説のことをよく分かってないのだな、ということもよく分かる。それくらいよく分からない物語や展開の仕方である。でも面白くないわけではない。ときどき面白いくらいだけれども。



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