ルース・エドガー/ジュリアス・オナー監督
黒人でいわゆる文武両道の優等生であるルースは、同じく黒人の女性教師のマイノリティに関する厳しい視線のようなものに反発を覚え、静かに復讐を企てていく。女性教師の方も家庭に問題があり、悩みは抱えている。そういう中で教師として、移民であり白人家庭の養子に入っているルースに隠されている危険な思想を嗅ぎ取って、問題視している。家族と面談する中で、ルースを育てている白人の夫婦も、この教師の疑問が引っ掛かるようになっていく。優等生ではあるが、過去には何か心の傷があるかもしれない息子を、さらに黒人である息子を、真から信用していいものなのだろうか……。
あえて何が起こっているのか明確には分かりにくい演出がなされていて、そのまま素直に見てしまうと、正直言ってさっぱりよく分からないことになりかねない。後でまあ、そういうことだろうな、と整理していくと、分からないではない話ではあるが、まあ、それだと行き過ぎた教師への復讐劇だったということになる。ちょっとしたひっかけで、陥れるというか。もっとも、この教師はもともと行き過ぎていて、勝手に生徒のロッカーを調べて、問題があると処罰をしてしまう。原因はそういうことへの反発なのだが、同時に黒人の置かれているアメリカ社会での居心地の悪さのようなことを、暗示的に示している。彼女はそうやって白人社会の中で、黒人としての存在を保っているのだ。ルースは非の打ちどころのない黒人らしい優等生だが、彼の中の心の闇のようなものは、白人にはまったく分からないように隠し持たれている。ルースはそれに、当然自覚的で、まさにそれを利用してのし上っているということなのかもしれない。
モヤモヤした空気と緊張感が続いていて、リベラルな白人家庭が、おそらく模範的な思想をもとに、いわゆる当然のことようにして黒人の虐げられている子供を養子にしている。本当はマイノリティの問題など居心地の悪さのようなものを抱えているはずの黒人の息子ことを、平然と隠し通している。彼らには本質が見えにくくなっていることを、いわば選択している。そういう差別的なものを、表に出すわけにはいかないのだ。そもそもそんなものは、微塵も持ち合わせていない前提こそが大切なのだ。そこに黒人優等生は、さらに内なる葛藤を抱えてしまうのだろう。
確かに重層的に難しい問題のように思えるが、黒人同士、またはアジアなど異人種を含めて、アメリカ社会の居心地の悪さをあぶりだそうとしているのかもしれない。いわゆる映画は傑作と言われているが、そういうことを議論するアメリカということを指して、差別に無頓着な人をさらにあぶりだそうとしているのかもしれない。
現状としてアメリカは、そういうリベラルへの反発があって、一定以上の差別意識が表面化している。そうして大きなうねりのようなブラック・ライブズ・マター運動が起こる。そういうものが表面化する以前に、このような問題提起がなされた作品として、意義深いものがあるのかもしれない。やっぱり日本人には、かなりハードルが高く難しく思えるが……。結局それは、そういう文化の中にいないせいでもあるのだろう。
追伸:現在奇しくも東京オリンピック組織委員長の女性差別的発言が話題になっている。今夏の五輪開催の是非について、現時点でかなり難しい状況に立たされる(少なくとも意識的には)まで問題が肥大化している。それくらい現代社会においての差別的な問題は、デリケートで非寛容になっている。ましてや人種問題になると……。ということなのである。女性差別意識のある人間がいるなんてことがありえない前提にあって、こういうことが起こる社会が日本だ、という認識なんだろうと思われる。居酒屋でご年配の爺さん同士の雑談ではないのである。まあ、辞めさせたらいい問題でも無いんだけれど。