カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

気楽だからやれることも多い

2024-06-01 | 境界線

 僕がふだん観た映画や本などの感想を書いているのは、単なる備忘録から始まったものではあるが、やはり続いている大きな理由の一つは、書いていて楽しいからである。
 しかしながら、子供のころからそうだったのかというと、必ずしもそうだったわけではない。特に読書感想文というのがあって、これはちょっと苦痛だったかもしれない。
 本を読むのは比較的早い頃のことで、小学生の4年くらいの時には、すでに読書少年のようなことは言われていた。実は多少見栄を張っていたことは確かだったのだが、僕には7つ上の姉と、5つ上の兄がいるので、彼女彼らの本は当然自宅にあったし、父は場合によっては大量に本を買う人間だったので(これは遺伝していると思う)、背伸びして読む本に事欠かなかった。もちろんまったく歯が立たないものはどうしようもなかく放り出したものだが、読めない漢字はいくぶんすっ飛ばして読んだところで、あんがい意味は分かったりするものだし、適当に話し言葉から勘案して読めたりするものもある訳で、すべて読破するなんてことを考えなければ、それなりに拾い読みしていけるものだった。そうして夢中になってみると、いつの間にか読んでしまうという体験を繰り返していたわけである。
 そう、読書感想文なのであるが、だいたいにおいて課題図書のようなものがあって、これが今興味あるものと違っているというのがあった。それで課題以外から何でもいい、というものを書かされることになる。読書感想文なので、僕は読んだ感想を素直に書いていたのだが、先生からはまず、あらすじのようなものを書いて、それからそのどこに何を感じたかを書かなければ、意味が分からないと言われた。読んだあらすじを書くのが、まずは苦痛に思った。書かれている通り書けばいいのだろうが、いわゆるポイントが良く分からなかったのかもしれない。
 ところがである。それでも僕よりもっと読書感想文の下手な人というのはいて、曲がりなりにも僕は感想文を書くのであるから、手伝ってほしいと頼まれることが結構あった。何しろ僕は読書少年である。頼むなら僕だと考える友人がいたのだろう。
 で、どういう本を読んだのか? と聞くと、なんとそういう人は、ちゃんと読んでいないのである。内容が分からない上に、感想もあいまいだ(当たり前だ。たぶん読んでいないのだから)。どこがおもしろかったのか聞いても、よく分からないとかいう。それでは僕にもどうしたらいいのかよく分からないので、自分の読んだもので、適当にその人が書いたように文章を捏造して、書くことにした。まあ、ひとのものだからかえって気楽、というのがあったようで、さらにやっぱりなんとなく面倒なような感じもあって、ほとんど適当に、こんなところが面白くて感動しました、とか書いておいた。
 すると、なんとその読書感想文が、クラスのいくつかの優秀賞に選ばれた。もちろん最優秀ということではなかったのだが、良く書けていると、僕の友人は褒められた。僕が書いた僕のものは、箸にも棒にもかからなかったと思う。
それで何となく、読書感想文はつまらないものだな、と考えたようだ。だから書くのはどんどん適当になって、文字数だけは埋めるようなことになる。友人のものも、どんどん請け負って書くようになる。読書感想文だけでなく、作文なども結構代筆するようになった。何しろ僕は、書くのだけは早いのである。なんといっても適当だ。作文の時間は、二人か三人分、それぞれ原稿用紙に5枚分くらいは書いてやったのではないか。
 こういうのは慣れであって、あんまり好きではなかったはずなのに、書くのは好きなような感じになったかもしれない。得意意識は無かったけれど、書けるのだからやるだけである。算数とか理科の時間も、誰かの作文なんかをコツコツ書いてやったりして、得意になっていたかもしれない。何しろ喜ばれるのだから。
 これが原点だったかどうかはよく分からない。課題を書かされるのは嫌だったけれど、代筆で書く分には気楽で書けた。他人事(ひとごと)という言葉があるが、いわゆる他人事なら気負うことが無い。そういう風に考えられると、たいていのことは真剣にできるような気がする。感想文を書かされたりした教訓は、たぶんそんなことだったのだろう。
コメント
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