カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

クピドの悪戯「虹玉」

2011-12-17 | 読書
クピドの悪戯「虹玉」/北崎拓著(小学館)

 以前、吉行淳之介のエッセイを読んでいたら、「ときどき、童貞という存在を忘れる」というようなことを書いていた。その頃はなんという横柄な事を書くオッサンだと思ったものだが、この漫画を読んでいたら、なんとなく思い出してしまった。こんなようなことが僕にもあったのかもしれないが、ほとんど忘れてしまっている。吉行の言わんとすることは、そういうことだったのかもしれない。
 漫画なので荒唐無稽な話ではあるのだけれど、しかし、男女の恋愛のもつれと、その童貞の頃の男の考え方というのは、あんがい本当のことなのかもしれない。忘れてしまっているとはいえ、そんなような感じはする。そうして、確かにいろいろと余分に苦しんだようにも思う。ストーリーも二転三転して、なかなか考えさせられるものがあった。恐らく特殊体験だが、しかし同時に共通性もありそうだ。少なくともそう思わせられる上手い仕掛けが随所に仕組んであるのだった。
 如何に純粋に愛とセックスを結び付けようとしても、一方では愛の無いセックスというものが存在するのも確かそうな訳で、そのことがもしも対極的な図式であると仮定するならば、普通に考えてセックスそのものは、その範囲の中のどこかに位置するはずである。その上で、その行為を行う二人が同時に同じように純粋性を追求しようとするならば、どこかで無理が生じてしまうように思える。そういうものを求めるとしたら、相手の気持ちを信じるより他に確証しようがないのである。普通はそれは、ある程度は自明のこととして了解しているものではあろうが、疑い出すと同じようにキリが無くなる。そういう訳で、多くの場合は感情的に、男女間はもつれあうことになるのであろう。信じても裏切られることはあるだろうが、信じられる程度には自分を納得させられなければならない。めんどくさいが、そのような葛藤を確証に変えられない限りは、最終的には結婚というような決断は出来ないのだろう。
 自分自身をどうであったかということを一時棚上げにしなければ、もうすでにあの頃のことはよく分からない。しかしながら少なくとも、このような葛藤のドラマがあった方が、お互いの絆のようなものは深まるのかもしれないとも思う。この漫画が最初に設定しようとした、いわゆる純粋なままの恋愛心では、実は男女の仲は長続きが難しいのかもしれない。結論がこれでいいのかどうかはともかく、そういうことを面白がりながら考えさせられる物語なのではなかろうか。
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先輩か後輩か

2011-12-16 | ことば

 ヤンキーは先輩の事を「君」づけで呼ぶ、という話を聞いていて思ったのだが、それは単に中高生時代の名残なのではないだろうか。年代や地方によっても違うのだろうけれど、僕の十代の頃は先輩を君づけするのはむしろ普通のことだった。なんでそうなのかは分からないけど、同級生や後輩は呼び捨てなので、学校で使われる君づけ自体が、それなりの敬称として価値が高かったのかもしれない。
 役場に小学時代のサッカー部の先輩が居て、顔を見るとつい○○君とやってしまう。大人社会になると君づけというのは、むしろ年下の人に使うようになるので、その時は気付いてないけど、ひょっとすると誤解を生む可能性はあるかもしれない。
 実際に少し大きな職場などにお邪魔すると、お茶を出してくれた女性事務員を君づけで呼んでいる風景などはおなじみである。いかにもだけど、普通である。
 先輩の女性から君づけで呼ばれるのを憧れるという話も出ていた。分からないではないが、これも学生時代くらいしか覚えがない。今も仲の良い学生時代の先輩の当時の彼女からそんなふうに呼ばれていた覚えがあるけど、その先輩は現在違う女性と結婚している。カオリ先輩、今はどうしてるだろうなあ。カギが開いているので勝手に先輩のアパートにあがり込むと、「今入ってこないで!」と怒られたりしたものである。
 そういえば弟の同級生が部下として働いてくれているが、彼の事は君づけで呼んでいる。彼と同級生(高校時代らしい)も後になって転職して来たが、その友人君はさん付けである。「おまえは後から来たくせにさん付けでのぼせるな」と酒を飲んだ席で話しているのを聞いたことがあるので(彼らは仲がいいのである)、やはり君づけというのは目下という感覚が強いのかもしれない。
 そういう訳でヤンキーでなくとも僕らの世代は、君というのは上下関係どちらにも使う。意識して使い分けないが、新たな人間関係の人に使われることは少ないので、やはりなんとなく懐かしい呼称のようである。
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とりあえず、何食いますか

2011-12-15 | 境界線

 最近の若い奴は…、話は好きじゃないとはいいながら、少なからず衝撃を受けた話。
 居酒屋で「とりあえず何食おうか」という時に、いきなり「かつ丼」頼んだ奴が居たのだとか。確かに感覚的に想像を絶するアンタッチャブルな世界だ。それは無いだろうと思うのだが、しかしそれは何故なのだろうか。
 一つは個人主義だとか個食といわれる文化の背景だろうか。自分の食べたいものを食ってはいいわけだが、そこにははっきりとした断絶感がある。腹が減っているんだからかまわないじゃないかという理屈も分からなくはないし、実際にメニューにもあるわけだし、間違っているという考え方に偏狭さを感じるという意見もあるかもしれない。しかしピラフやらスパゲティとか、大皿から取り分けられるものならともかく、かつ丼はちょっと違うだろう。いきなりお茶づけを食うことと同義なのではないか。もしや、それもありなのか。
 しかしながらこれが外国人だとOKなのかもしれない。いや、外国人でもダメかもしれない。説明するのが面倒そうだけど、それは日本の文化じゃないと教えるべきことかもしれない。しかしそれは本当に日本の文化の問題なのだろうか。単なる日本人の関係性の特殊部分なのではないか。
 分からない。分からないが激しく嫌だ。出来るだけレアケースであってほしいと願うばかりだ。
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アレルギー雑感

2011-12-14 | 雑記

 録画でアレルギー治療のものを見る。
 あえてアレルギーの原因となる食品を少量から摂取していく免疫療法が紹介されていた。食べると蕁麻疹が出る恐怖から泣いて拒否していた子供が、20日後にはおいしいと言って食べるまでになる様子が映し出されていた。ごく少量から始めて段階的に食べられる量を増やしていく。体の免疫反応の許容が広がっていくということらしい。患者の子供の母親も、実際の子供の変化に、なんだか不思議だと言っていた。狐につままれたような感じでもするのではないか。しかし実際に食べられるようになったのだ。
 他にもアトピーで悩んでいた女性の皮膚がみるみる回復するのは、単に薬を丁寧に塗り続けることを実行しただけという、ある意味で当たり前すぎて驚きの結果だったりした。僕も二十年以上水虫とつきあいがあるわけだけど(一時まじめに薬を塗って症状が出ていなかった時期もありはする)、やはり塗り続けるという単純さをやりきれていないだけなのかもしれないと反省する。
 それにしてもそんな単純なことを指導してこなかった医師の側の問題が大きかったという話は、なんだかなあ、という思いだった。単にその場で薬を実際に塗ってやるという行動を示すだけで、患者は同じように薬を塗れるようになるわけだ。
 しかしながら、考えてみるとこのような事は他にもあるような気もする。ちゃんと言っておいたから大丈夫だろうと思っていたら、実際には改善がなされていないまま問題が放置されていたような事はむしろよくあることなのではなかろうか。
 また、最近問題になった石鹸の小麦アレルギーの発症の件もなかなか考えさせられるものがあった。食べても問題無かったものが、皮膚から入ることにより異物としてアレルギーを起こすようになり、一度発症すると、食べても異物認識をするように変化してアレルギーを起こしてしまう。恐ろしい話だが、これからは様々な新しいものがつくられるにつれて、そのようなリスクは益々増えていくだろうとのことだった。新しいものが、生活を豊かにしていくのと比例して、人間の身体には、新たな脅威が増える可能性が高まるわけだ。要するに人間の身体という自然は、新たなリスクに対して、実は無防備は存在なのではなかろうか。
 僕らの身の回りの物は、事実上人工のモノにあふれている。また、そのような環境を作り出すことによって、人間の生活は成り立っているわけだ。どのように抵抗したところで、過去の環境に戻ることはあり得ないだろう。しかし人間の身体は、時にはその変化に耐えられなくなり、アレルギー反応を起こして拒否する意思を見せるのかもしれない。皮肉なようにも見えて、示唆的な事のようにも思える。生命としての人間とは、本当に面白いものである。
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天ぷらの極意は蒸すことなり

2011-12-13 | 
 録画してあった天ぷらの揚げ方の秘伝を見た。単純なようで結構凄いと思った。簡単だからこそ、誰でも出来そうだからそこ、難しいものなのかもしれない。僕はバイトで唐揚げなら揚げたことがあるが、よく考えてみると天ぷらを揚げた経験は無い。敷居が高すぎるようにも思えてチャレンジしなかったものらしい。つれあいに頼んでも断られそうだけど、今度天ぷらするときは少しだけやらせてもらおうかな、なんて思ったりした。
 天ぷらは油で揚げるのだから揚げ物であることは間違いないのだけど、天ぷらを揚げるコツは蒸料理だと考える必要があるという、何やら禅問答みたいな事だった。ようは衣をつけた内部の状態の事で、衣がはがれないように力を抜いてゆっくりと油に入れる事(箸の力加減で衣に穴をあけてもいけないらしい)で、内部が蒸しあがるように出来上がったものがおいしく感じられるらしい。確かに理にかなっている。この時はお箸も太い奴が良いようだし、やけどに気をつけるなら、手で入れるなどの方がいい場合もあるらしい。衣の状態が良ければいいのだから、ゆっくりつかし込んだら、しばらくは放置しなければならないようだ。あんまり気ぜわしくやるものではなさそうだ。
 また、かき揚げは最初はバラバラのままかまわず放置して、というより、むしろ全体に広げてしまう。気泡が少なくなるくらいになって初めてまとめた方が、カリカリにあがって旨いらしい。これは小学生の子供がやっても見事に揚げられたので、恐らく僕にも出来そうに思えた。かき揚げこそ天ぷらでも一番難しそうなのに、実はこれが一番簡単そうだというのが驚いた。
 また、カボチャやレンコンなどは大きく太く切って、油にぜんぶ浸かりきれないくらいでも平気そうだった。その代り揚げた時間と同じくらいキッチンペーパーにくるんで余熱で温めるのだった。大きめの野菜をこのようにペーパーにくるんで放置している間に、エビなどを揚げて時間を合わせる。大皿に盛り付けて、天ぷらを揚げていたお母さんも一緒になって食卓を囲んでいた。揚げたてでなければ旨さが半減すると思われていた天ぷらの常識がことごとく音を立てて崩れていくのを見る思いがした。
 また、家庭で天ぷらを揚げると上手くいかないのは、油の量が少なかったり、火力が弱いせいだというのは聞いたことがあったわけだが、いっぺんにたくさん揚げるのはダメだろうけど、普通にフライパンに油をしいて揚げているのを見て、そういう常識もどうも違うらしいことも確認できた。まことしやかに伝え聞こえてきた天ぷら神話というのは、あんがい単なる思い込みだったようだ。
 天ぷら名人の見た目はなんとなく怪しいのだが、確かにこの人は凄い人みたいだ。そういうギャップも含めて尊敬に値する。実に爽快な気分だ。その上カロリーは今までの常識で揚げられたものの半分になってしまう(この辺の理屈はめんどくさいのでパス。ゆっくり入れることと、衣の状態がポイントなのだ)。まさにイリュージョンみたいだ。
 とはいえ、今からのシーズンは当然のように宴会料理で天ぷらがテーブルに並ぶことになるだろう。このような手法で作られたものはほとんどなかろうから、見る目が厳しくなって、今までのように天ぷらを楽しめなくなるような気がしないではない。上質を知るものの試練である(なんちゃって)。
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若草の萌えるころ

2011-12-12 | 映画
若草の萌えるころ/ロベール・アンリコ監督

 あの我らが永遠の青春憧れ映画「冒険者たち」の翌年に上演されたものらしい。監督さんも一緒ながら、しかしぜんぜんまったく違った世界観の映画に仕上がっている。ほとんどジョアンナ・シムカスのプロモーション・ビデオみたいな感じなんだけど、「冒険者たち」ファンからすると、ちょっとだけ、というか大変にイメージの違う彼女の姿を見せつけられることになってしまう。フランス映画なのでちゃんと服を脱ぐという潔さはあるにせよ、僕のような男にとっては、まったく意味不明な女心映画になっていた。今思い起こしてもまったくなんのことやらさっぱりで、女の人は悲しければ自分勝手になってしまうということなんだろうか。結局誰のことも好きでもなんでもなくて、自分の気持ちがほんの一時紛らわされればそれでいいということなんでしょうか。まあ、分かんなくても特にいいのかもね、という作品ではあるようだが…。
 そういう訳の分からない映画であっても、不思議と彼女の行動の行方が気にならない訳ではない。個人的にはこんなことに付き合うことは無いとは思うが、離れて行ったあとのことは思い悩むに違いない。もちろん後で顛末を聞いたところで、なんじゃそりゃ、で終わりなんだろうけど。怖くて現実を見つめられなくて、そうして家に帰りたくないというのは、おぼろげながら分かる。そうしてそういうことに付き合える男たちの様々な姿も、それなりに面白い。彼女の行動に翻弄されることが、多くの男たちのしあわせなのだろう。その割には皆さんあっさりしすぎではあるのだけれど。
 小悪魔的な魅力の女の子というのはよく語られる題材なのだけど、多くの場合、その主体である本人にも自分の行動が分かっていない場合が多いのかもしれない。自分がそうしたいという強い意志なのではなく、結果的にそうなってしまうということなのかもしれない。それで満足なのかどうかも計りかねなくて、結果的に困らされた事を自慢するより無いのかもしれない。男の持っているマゾ性というものを満足させるのは、そのようなミステリーなのだろう。
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ジュレとはなんだ?

2011-12-11 | 

 時々調味料のヒットがある。今はポン酢ジュレがそうかもしれない。単純に味がクリアに感じられて、そうして旨さもアップしているように感じる。そういうところがちょっと不思議でさえある。
 実はあんがいマヨラーである。普段は何でもマヨネーズでいいような気がしないではない。しかし、なんでもマヨネーズではやはりマズイような気がする。いや、もちろん味では無くて…。
 それに代わる万能感のある調味料は、ポン酢である場合もありのようだ。しかし普通のポン酢は液体で、料理本体から流れ落ちてしまう。結果的に皿の下に残りはするが、味が染みないということが起こるのだろう。それがゼリー状になることでその場にとどまってくれて、味を主張するのである。結果的に掛ける量も節約できそうだ。
 こういう面白さは一時性で消える場合も多いのだけど、最近の商品棚を見る限りでは、いろんなメーカーのものが並んでいるようである。少なくとももうしばらくは、この面白さは続くものと見た。
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ドクトルマンボウ

2011-12-10 | 読書

 北杜夫はかなり原初体験的な作家だった。何しろ最初に読んだのは小学生の3年か4年あたりだろう。学校の推薦図書だったのかどうか忘れてしまったが、読書感想文などでは定番の人ではなかったか。父親も有名な人だし(短歌はよく分からないが、エッセイは名文が多いと思う)、後にお兄さんも有名になった。躁病のせいもあったのかどうか、テレビでも時々見ることがあった。そういう意味では国民的な作家でもあったのだろう。
 小説の方はよく分からなかったらしくて、いわゆるマンボウものを読んだかもしれない。いちいち言い訳がましいことを書く人だという気がしていた。自信があるんだかないんだか、よく分からない。しかしながら、いわゆるユーモアというか、洒落というか、まじめに書いているふうでは無い。当時確かユーモアのある文章は日本では流行らない、というような論調があったような気がするのだけれど、小学生が読むような文章は、北杜夫をはじめとするユーモアものばかりだったような気がして、なんだか意外に思った覚えがある。
 高校生くらいになって、本棚にあった(たぶん小学生時代に買っておいたものだと思う)楡家の人々を読んで、それなりに衝撃を受けた。面白いというか、いい小説なんじゃなかろうかと思った訳だ。それからまた後に、北杜夫が影響を受けたらしいトーマス・マンのトニオ・グレーゲルだとか魔の山だとかを読んだ。そうして同じくこれらを読んだらしい友人たちとこれらの本について語り合ったりした覚えがある。まさに青春の読書である。
 実はもうすでに死んでいるものだとばかり思っていた。そういえば昆虫も好きだったんだと思いだした。どういう訳か家族にいると大変そうだという印象があって、遠くに居て楽しいおじさんというイメージだ。
僕はホンの一時の間阪神ファンだったことがあって、もしかしたら北杜夫の影響だったのではないかと疑っている。やはり過去のことであるに違いは無いが、そういう古い記憶が僕の下地になっているだろうことも間違いなかろう。
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疑問を抱かないのが吉

2011-12-09 | HORROR

 訳あってテレビとラジオに出演した。小さいながらも反応はあって、嬉しい半面冷や汗ものではある。家人が録画・録音してくれたものを聞き返してみると、やはりこういうのは改めて難しいものだと反省もする。しゃべっている時も満足感があるわけではないが、聞き返すとさらにみっともないような気がする。もう少し何とかならなかったのか。後悔先に立たず、だ。
 出ることになる前に打診があるのだが、この時に「何故俺?」という疑問があるとそれが本番に影響すると思う。スピーチでもなんでもそうだけど、誰だってこういう慣れないものは嫌なのだ。出来れば避けて通る人生を送りたい。もちろん出たい人だって存在するだろうけど、とりあえずは無視して考える。嫌なものだから面と向かって向き合わなければ上手くいかない。その向き合い方が中途半端だと、最初から上手くいかないのである。
 実を言うと前回出た時と僕のポジションは微妙に違っていた。今回は本来出るべき人が別にいるのである。後で聞いた話だけど、出る番組を分けただけのことだったようだが、なんとなく、という要素もそこにあったようにも思う。まあ、僕は便利屋のポジションもあるからね。
 そういう訳で敗因は自分の中の潔さに陰りがあったせいだと思う。上手くしゃべろうなんて最初から考えていないんだけど、しかしもう少し上手くしゃべられたはずだと考える矛盾はそこから生まれる。
 そういえば二年くらい前も同じリポーターの女の子だったわけだけど、今回は格段に本番前の雰囲気が違っていた。もちろん本番も安定していた。当たり前だけど放送のしゃべりのテンションは、普段の会話とはかなり違う。打ち合わせで話している感じと違うので、素人はその感じに呑まれてしまいがちだ。やはり場数が人を育てるんだろうなと、あらためて感じ入ってしまった。もちろん僕らはプロではないし、その水準は誰も求めていないのだろうけど、そういう感覚的なものを少し分かっただけでも、良しとしなくてはならない。
 回ってきた仕事に疑問を持たない。自分の弱さから目をそらしてはいけないのである。
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引きこもりの日

2011-12-08 | 時事

 野田首相の年内の訪中の日程がなかなか決まらないという報道を見た。12月の13日が南京事件の日らしいということの配慮であるといわれている。
 僕も確か年末あたりに南京に行ったことがあって、道を歩いていると西洋人らしい人から声を掛けられた事がある。「あなたはもしかして日本人じゃないか」と心配してくれたらしい。恐らく連日テレビで南京の日本人兵の残虐ぶりを見ていたのだろうと推察される。
いつだったかは忘れたけど、抗日の日というのもあって、この日は日本人留学生は出来るだけ外出を控えるように言われたようにも思う。学校の大きな講堂では、やはり日本の残虐行為の映画を延々と上映しているようだった。もちろんテレビもそのようなドラマばっかり。変な発音の日本語や、「馬鹿野郎」とか「貴様」という日本語がたくさん聞ける日だった。普段は何にも身の危険など感じないが、抗日の日は盛り上がっているので、ひょっとすると、という感覚はあったかもしれない。
 しかしまあ、当時の僕は若かったので、せっかく南京に来たんだからということで、南京虐殺記念館でたっぷりと日本人の虐殺ぶりも見て帰った。さすがに心が痛むものがあったが、このあたりの事は複雑なので、意見は保留します。本物らしいしゃれこうべがたくさんあって、なかなか圧巻であったことは確かだ。
 そういう訳で、その日を避けるというのは、大人としては仕方のないことだと思う。
 しかしながらこれを日本にいる人がけしからんと考えるのもどうかとは思う。中国というのは抗日運動の末に出来上がった国だという、建国にかかわる問題である。いわば彼らのアイディンティティなのだ。日本人としてはお隣の国がそういう認識であることは愉快ではないが、そういうものを持たなければ現代の中国人というものが成り立たないということも、理解する必要があるのではないか。それは中国人としてもある意味で不幸なことであって、僕はなんとなく同情すらしている。日本人の多くは、たぶんそんな感情は必要がない。それは、ある意味で僕らの方が自由なのだ。
 自由な方が少し相手の事を考えてみる。そういう視点は特に外交には必要なんだと思う。むしろ日本の国内世論は、だいぶ考え方が偏狭になりかかっている気がしないでは無い。そういう余裕のようなものが無くなるのは、大人であることの放棄なのではないだろうか。
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ココイチのハヤシライス

2011-12-07 | ことば

 家人たちがココイチにカレーを食べに行ったんだとか(僕も行きたかったな)。まあそこでそれぞれ注文して食べるわけだが、下の子はハッシュドビーフ(メニューにそうあったから)を注文して食べていたらしい。
 そこに後から来たお客が店員に「ハヤシライス」と注文した。すると店員さんは「ウチにはハヤシライスはありません」とむげに断ったらしい。
 つれあいはそこで「それは息子が食べている、このハッシュドビーフのことではありませんか」と言いたくてたまらなくなったそうだけど、言えなかったそうだ。
 それにしてもハヤシライスでないハッシュドビーフとは何なんだろう。言葉の違いはあるんだろうけど、ハッシュドビーフとハヤシライスの具は同じものであるし(そうでなければハヤシライスとは言えない)、せめてハヤシライスとはウチではハッシュドビーフと呼んでいるのですという程度には、説明をして欲しいものである。
 もちろん、だからと言ってハッシュドビーフだからハヤシライスになったという主張をしているわけではないので、あしからず。こういう事故が起こるのであれば、ハヤシライスは禁止すべきであると思うだけである。
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強迫観念

2011-12-06 | culture

 母校で雑談をしていて、学生気質の話になった。ウチの学校に講師で来る先生に「お宅の学生はよく挨拶をしますね」と必ずのように言われるのだそうだ。確かに他の学校に行くとほとんど学生と挨拶を交わすことは無い。まあ、他校だから当たり前だろうと思っていたが、確かにウチは伝統的に挨拶をする人が多いようだ、ということだった。もちろん指導その他何にもしていない。どうして挨拶をするような学生さんが集まってくるんだろう。
 適当な人数で顔見知りになりやすいとか、アットホームな雰囲気であるとか、留学生の割合であるとか、そもそも人のよさそうな人が多くて警戒心が弱いとか、いろいろ考えられそうな気もしないではない。
 ところがある先生が「それはやっぱり廊下幅の狭さじゃないか」という。廊下幅が狭いとすれ違う時に挨拶を交わさなければすれ違えないというような脅迫観念が沸き起こるのではないか、というのだ。
 そうすると無暗にバリアフリー化するのも良くないのかもなあ、ということでありました。廊下幅の広い老人ホームなんかは挨拶が少ないのかな。今度聞いてみよう。
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2011-12-05 | 映画
叫/黒沢清監督

 黒沢清映画なので一筋縄ではいかないとは分かっていたのだけれど、比較的分かりやすいというか、見やすい作品である。分かりやすいと言ったって、おいらにゃさっぱり分かりませんが。まあ、分からないなりに興味を失わず最後まで楽しく観る事の出来る作品であるということである。
 殺人事件の犯人を追ううちに赤い服を着た幽霊に出会う訳だけれど、この幽霊がはっきりと葉月里緒奈というのが何より凄いのだった。ちゃんと足だってある。まあ、途中で空を飛んだりするのでかなり変ではあるけど、変なりに不自然で無い幽霊というのが凄いのである。怖いんだけど葉月里緒奈なんだから仕方ないじゃないか。と、そんな風な開き直りさえ感じさせられる幽霊の姿だった。
 意味が分からないのだからこれ以上解説しようがないんだけど、どういう訳か自分の彼女を殺した事を許されて、なんとなくハッピーエンドなのかもしれないというが更によく分からないのであった。幽霊というのは見つけてもらえると感謝するものらしい。だからと言って探し出す気持ちにはぜんぜんなれないんだけど、なんとなく参考にはなりました。もちろん、ぜんぜん実用的は無いのだろうけど。
 それと何というか、息子を殺す父親というのもなんだか恐ろしかった。殺人っていうのはああいう風にやれば上手く行くらしいというのは分かるのだが、やっぱりやりたくないものだ。日本には拳銃が無いので、殺人というハードルが高いような気がする。どうしても殺したくなった場合、その気持ちを持続させるのも困難そうだ。多くの場合とっさに済ませられるような方法でないと、なかなか一貫して事を済ませられないということもあるんではなかろうか。
 そういう思いをして殺人をやってしまっても、人間には幽霊というようなつきあいが生まれてしまうのかもしれないということも示唆されているような気がするのだけど、それは僕自身の弱い心の持つ推論に過ぎないのであろう。
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ココシリ

2011-12-04 | 映画
ココシリ/ルー・チュー・アン監督

 人間による乱獲などで絶滅してしまった動物はどれくらいいるのだろうか。また人間が持ち込んだために問題になった外来種の事などもある。そういう経験を経て、いわばその罪滅ぼしも兼ねて、厳しく密猟を取り締まるという背景もありそうな気がする。最終的に密猟で罰せられるのは、密猟によって生計を立てている現地の人間なのかもしれない。そういう社会的な縮図が描かれていて、そうしてこれは実話をもとにしているということもあり、なんとも考えさせられる内容なのである。密猟が悪いことであるのは絶対的にそうなのだろう。しかしそれを厳しく取り締まることは、本当に絶対的に正義なのだろうか。
 僕自身は人間の命こそ地球上で一番大切なものだとはぜんぜん思っていないけれど、しかしこのような事で人間の命が削られていくという現実があることに、どうにも納得が出来ていないようだ。絶滅が危惧される動物であるとか、世界遺産のような文化的な遺産などを大切に守っていこうというのは政治的には賛同するし、まったくもって良いことなんだと思うが、しかし、その守られている生物なり文化のある現地の現在の状況を、同時にどのように対処するのかというのは大変に両立がむつかしい問題のようだ。
 ここではチベットカモシカという動物の毛皮が高値で取引される為に、他に現金の収入を得る機会の少ない現地の人たちが、まさに命を懸けて密猟している。そうしてその密漁者を取り締まる人達も、まさにサバイバルというか命懸けで密漁者を追うのである。大自然の中の小さな小競り合いにも見えない事もないが、命がかかっているので当然壮絶である。しかしそれはすべて、人間が勝手に人間社会で作り上げた理屈の上の戦いなのである。いわばその状況自体が、自然と人工の戦いに他ならない。自然は人間という動物の前にひたすら過酷に自然のままだが、そこで命を削る人間たちは、自分の都合や信念でうろうろしているようにも見える。それを見ている僕ら人間も、そういう状況をどうすることも出来ない。いや、これを見た後にどうするのかは考えどころなのだが、多くの場合、ただ見ただけのことだろう。最終的にはそういう人間の対応こそが、実はもっとも残酷なのかもしれない。人間とは本当に罪深いのである。
 もちろんそれは自分自身の感想なのだが、だからこそ罪滅ぼしに、また多くの人に見てもらいたいとも思う。そうしてこの複雑な心境を是非とも共有してもらいたい。少なくとも自然保護というものの一方的な善意の影に、実に人間臭い偽善が潜んでいることくらいは自覚すべきなのであろう。
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真ん中に立つべきものらしい

2011-12-03 | 境界線

 エスカレーターに立つ位置が東京と大阪で違うというのはよく話題になることだ。正確には大阪以外の場所から大阪に来ると、右側に立って左側を空けている風景に出くわして違和感を覚えるというのが真相らしい。大阪って変わってるな、という印象を持つという訳だ。ちなみに全国的に左側に立つ方が一般的らしいが、田舎に行けばいくほど特にどちらかを空けるというようなことをしなくなるのが普通だ。そんなに急いでどこに行く?という問題の中では、どちらに立つなんてことは意味がない。その上もともとエスカレーターはどちらかに偏って立つべきものではないのだという。急いでいる人の方が迷惑なのだ。
 何故大阪だけは右側に立つようになったのかというのは、万博の時に国際標準に合わせたためらしい。海外から多くのお客さんを呼ぶので、国際都市である大阪は右に立ちましょう運動をやったのだとか。そういう訳で日本以外の多くの場所では右側というのが普通であるらしい。自動車が日本と同じ左側通行である英国でも右らしいので、エスカレータの標準がどのような力関係でそのようになっているのかは不明である。海外から東京に出張(旅行でもいいけど)に来る人は、日本って変わってんなあ、と思うのだろうか。
 先日ヴィクトル・エリセの「ミツバチのささやき」という映画を見ていたら、人間の心臓はどこだというのを子供に教える場面があった。答えはからだの真ん中(肺の隙間の真ん中)。日本だと左側とばかり習うので、スペインというのは面白いな、と思った。もっとも救急救命の心臓マッサージなどでは心臓は真ん中と習うから、左というのは極端なのかもしれないが。
 人間は本来左側通行で、それは左に心臓があるから、というような話も聞いたことがあるようだ。スペインだけの比較では分からないが、根拠としては疑わしくも思える。日本では武士のお互いの脇刺しがぶつからないように左側を歩いたともいう。武士が一般的な多数派では無いから、その影響であるとは怪しいが。
 聞くところによると、やはり欧米では、エスカレーターで無くとも右側を歩くのが普通というか、マナーのようなところもあるらしい。そうすると人間の習性というより、習慣のようなものなのかもしれない。何故か日本(特に東京)は、それが左で定着してしまったのだろう。
 そもそもどちらが正しいと考えたがるのが現代病だから、どちらでもいい話ではある。そうはいっても大阪では右で東京では左。自然に使い分けるのがいいようです。
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