カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

眠れなくなるか眠たくなるかの話

2015-08-18 | HORROR

 本当はめんどくさいので考えたくないのだが、宇宙に果てがあるのか問題、というのがある。いきなり言われても困るだろうが、考えたことのある人もあるだろう。そもそも宇宙の果てってなんだろう。行き止まりがあって、果てであるとわかるものなのだろうか。
 結局今のところ確かめようがない問題なんだが、やはり同じ人間として、学者として、この問題を真剣に考えて、一定の結論を計算によって導き出している人たちというのがいるらしい。これも頭のいい人たちが事実と考えている説だが、宇宙はビッグバンという大爆発によって始まったとされている。そうして現在宇宙はどんどん膨張している。146億年という歴史があって、その間ずっと光より早い速度で膨張している。何故なら光を当てても果てにたどり着かないのだから。将来的に膨張しすぎて崩壊するとも、反転して縮小に転じて崩壊するとか、途中でちぎれてしまって崩壊するとか言われている。安心していいのは、人間にとっては先のこと過ぎるので、地球は当然太陽に呑みこまれて無くなっているし、人類は跡形もなく存在していないだろう未来の話だ。
 要するに宇宙には果てはあるということだ。しかしもう少ししつこい人なら、当然のことながらその果ての外はどうなっているのか、ということが気になるだろう。答えは分からないと言いたいところなんだが、宇宙の外には別の宇宙があるのではないかと考えられている。宇宙は一つと思われていたからユニバースとも言われているのだが、実は考えが甘かったことになる。一つじゃないので、今はマルチバースであるという。平行宇宙ともいう。じゃあ、そういう宇宙がどれくらいあるのかということになって、2の十乗をさらに118乗したくらい宇宙が存在すると計算が出ているらしい。あまりに数が多すぎるのでかえって胡散臭いが、それくらいの数の宇宙ということになると、確率的に今僕らの存在している宇宙とまったく同じ宇宙が、この中には存在できるらしい。凄いのは分かるが、もうかなり馬鹿らしい気分にはなる。さらにどうでもいいことだが、このような宇宙から他の宇宙を見ると、膨張しているのに縮んで見えることもあるんだという。もうだからどうした、である。
 これは別段、人間が空想して作り出した理屈ではない。理論を組み立てて、現実を勘案して、その事実に基づいて計算をして導き出された結論である。だから確かめられないことをいいことに、この説が有力ということになる。もちろんこの理屈を覆す計算式が生まれるまでは、ということになるが、むしろこの説を裏付ける事実が見つかる可能性もある。宇宙には果てはあるが、事実には果ては無いのかもしれない。
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ちゃんと日本を日本人が理解しよう   イギリス人アナリストだからわかった日本の「強み」「弱み」

2015-08-17 | 読書

イギリス人アナリストだからわかった日本の「強み」「弱み」/デービッド・アトキンソン著(講談社+α新書)

 なんだか小林製薬の商品みたいに直接的な題名である。内容が隠喩なしにあらわされている。表紙に伝統芸能の衣装のような和服を着用した著者が映っている。肩書もしっかり書かれていて、現在は小西美術工藝社という日本の老舗企業の社長さんでもあるらしい。実はテレビのカンブリア宮殿に出演しているのは見たことがある。実に合理的に偉い人というのはだから知っていたが、日本語が堪能というだけでなく、実直に物事を考える人らしいというのもなんとなくわかっていた。
 書いてあることはそれなりにまっとうである。本人も自覚的に気を付けながら書いていることだろうけれど、数的な根拠を持って話を展開させているからだ。それは日本人が無自覚に勘違いしていることを晒していることにもつながって、いわゆる一般的な常識的な感覚とはかなり違うのではないかと思われていることも含んでいる。慎重に論を展開しているのだが、これが気に障る人もそれなりにいるのではないか。たとえば日本の戦後復興などは、日本人自ら奇跡的だと信じているはずなんだが、戦前から先進国だった日本の現状と人口の多さから、当然すぎるくらい当たり前のことに過ぎないと無碍もない。
 面白いのは、日本人がとてもめんどくさがりで生産性が低いという指摘かもしれない。まったくその通りで、前例をかたくなに崩さない保守性や、権力者の意見に安易になびく姿勢というのは、結局あえて面倒くさいことに巻き込まれるのが嫌なだけだし、生産性が低くても余分な仕事にしがみついて合理的に仕事をやろうとしないし、上司もそれを求めていない。日本人の僕でも常日頃それは感じているので、面白く指摘されて大いに同意するのだった。
 大筋で日本の一人あたりのGDPを伸ばす必要性と、そのための処方箋として、今の弱みである観光産業を伸ばすということに行き当たる。著者の仕事と関係があるので我田引水の感もあるが、しかし仕事にしているからこそ実直にそのような根拠にも敏感であるということだろう。日本人の勘違いのおもてなしでなく、日本人だけが自分本位にいいと思うよりも、実際にいいものに目を向けた方がいい。普通に古いものと新しいものを同時に大切にする日本人らしさを発揮するだけで、観光は確かにまだまだ伸びそうである。まあ、まだまだやれることがあるというのは、そのまま大変な努力を必要とする訳ではあるが。
 問題の多くは、多くの日本人が彼の言っていることを本当に理解できるのか、ということにもかかっている。残念ながら日本人の多くは、自分の素晴らしさを誇って日本人でよかったなどと思っているような人が大半だ。それは何も日本人だからという気質では何もないことだけれど、かたくなに日本人の資質だと信じ込んでいる。個人的にそう思う分にはそんなに害のないことに思われる向きもあろうけれど、これが大きな障害になっていることは間違いが無い。実際に諸外国と比較して素晴らしい日本人という見方は、日に日に強くなっていると感じる。それはすなわち思考停止に過ぎないのではないか。このままでは、まだまだ日本人は凋落していくだけのことだろう。そうして実際にそうなっていっている過渡期にあるわけだが、それで本当に終わってしまうのは単にもったいないだけのことである。実は伸びしろがあるということでもあるという見方に気づくだけで、どれほどの変化を期待できるだろうか。ダメな日本をちゃんと見つめてスタート地点に立てることが、まずは本当に大切なことだと感じている。
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武将や皇帝の食事も凄いが…

2015-08-16 | culture

 だいたい中世くらいからの風習がもとになっているのかもしれないが、戦国時代や江戸時代になると、多くの武将や藩主は客人を盛大な食事でもてなしている。自分の力を誇示するということもあるが、やはり客人に素直に喜んでもらおうという配慮であろう。
 基本は式三献。魚の膳が三段階になって出てくる。あるとき信長が家康をもてなした記録を見ると、一の膳だけでも、蛸・鯛の焼き物、鯛と野菜のなます、鮒のなれ寿司、菜汁、香の物、飯など。二の膳で、鮎の内臓の塩辛、海鼠と山芋の煮物、鮑の煮物、鰻の焼き物、鱧の焼き物、鯉の汁、海鞘の冷汁。三の膳で、焼き鳥、巻貝の煮物、渡り蟹の塩茹で、山芋と鶴の汁、鱸汁。さらに四の膳、五の膳と続き菓子四品が付いたという。家康は粗食を常としたらしいからとても食べきれなかっただろうが、目で楽しみ歓待に感激したことだろう。
 さらにこの時に酒の飲み方が、一杯を三口で飲み干すというもの。これが後に庶民に伝わり、婚礼の時の三々九度になったらしい。
 西洋の王様などもだいたい30品近くの品数の食事を楽しんだというし、中国の皇帝なども、やはり毎食数十品口にしたようだ。もっともそれらしい記述から推測するしかないが、連日このような食事をする貴族などには、糖尿病などに苦しんだ者も多かったという。
 しかしながら考えてみると、年末の宴席や結婚式などの席上でも、現代の食事はそれなりに豪華になっている。中国の皇帝料理というのは、皇帝一人の食事代が、現代のお金に換算すると、一食100万は下らなかったという。現代人は一人1万も出せば、食べきれないごちそうにはありつけるのではないか。ものすごいデフレである。
 そうして誰もが痛風や糖尿病で苦しむ機会を得ている。病院代もかかるが、現代人は、多くの武将や皇帝をはぐくんでいるようなものなのではないだろうか。
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トンネルに入りこまない演奏

2015-08-15 | 音楽

 世の中には器用な人というのはいて、以前テレビで見たことがあるのだが、ピアノを片手で弾きながら、片方でフライパンを振って料理をするような人がいた。これはピアニストが、もともと左右別の作業をこなすことが出来る人たちであるという話だったと思うが、ピアノを弾かない人間にとっては、まさに尋常ではないようにも思える。
 一人でいくつもの楽器を演奏をするというのは、時々ネットなどでも見かける。尊敬する地元ミュージシャンの家はっちゃんは、ベースを弾きながらドラムを叩いていた。最初見たときは、ほんとに驚いて笑ってしまいました。それも正確なんだよな。リズム隊には時々こういう人がいるようだ。まさに恐るべしである。
 いくつも同時演奏する大道芸人のような人もいる。主旋律はアコーディオンで、口ではハーモニカ。足元ではシンバルなどの打楽器など。紐をあちこちにくくりつけてあって、いろいろ音を出せるというような人もいた。ちんどん屋みたいで楽しいわけだが、工夫次第では本当にいろいろ同時に音が出せるようになるようだ。正確に弾くのは困難だろうが。
 同時演奏と言えば、フォークシンガーなどは、結構普通にギターを弾きながら歌い、ハーモニカとかカズーとかを吹いたりしている。やってみると分かるが、これは結構器用である。だいたい慣れないうちは、ギターを弾きながら歌うのもあんがい難しい。慣れてくるとそうでもないというが、凝った弾き方をしたり、歌いながらソロめいたことが出来る人もいる。ギターじゃないけど、ベースラインを弾きながら主旋律を歌うような、例えばポール・マッカートニーみたいな人もいるが、これはそれなりに高度な技である。ドラム叩きながら歌うのも、結構曲芸っぽいが、カーペンターズだとか、イーグルスだとか、つのだ・ひろ、CCBなんかもいて、あんがい極端に珍しいわけではない。
 楽器演奏で、あんまり多くの楽器を同時に演奏すると、ほとんどジャグリングの世界のようにも感じる。曲芸だから共通点も多いが、なんとなく落ち着きが無くなって、スリルの方が勝るという感じかもしれない。演奏が終わると、それなりにホッとする。
 物事を集中して行うと、他のことが手につかなくなる。これをトンネリングという。トンネルに入ると、出口の一点しか見えない。要するに周りのことが分からなくなるということだ。集中というのは、一見いいことのように思えるが、場合によっては生き物としては少し危険である。だからもともと注意散漫、極度に集中できない性質が人間にはあるらしい。
 ところが音楽というのは、このトンネリングを引き出す効果が案外あるように思える。酒を飲んで会話しているときに、なんか好きな曲がBGMに流れたりすると、相手の会話の内容がよく分からなくなることがある。これはちょっと失礼だと思うが、そういう注意を奪う力が、音楽にあるのだ。だから多くの演奏家は、興に乗ってくると、もうほとんど無我の境地に陥ってしまうようにも見える。タイタニック号が沈んでいく最中に演奏した人があったそうだが、目の前の危機でさえ、とりあえず考えなくてもいいような気分になるのではなかろうか。普通はたぶんそんなことしないだろうけど。
 器用な演奏家の人というのは、ある程度そのような集中がありながら、しかし冷静さも残しているのではあるまいか。そのようなコントロールを可能にするのは、やはり練習の成果、いわゆる訓練のたまものということなのかもしれない。
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普通の人の話が恐ろしい

2015-08-14 | culture

 本当は僕にもよく分からない感覚に、真夏の怪談、というのがある。夏の夜を涼しげに過ごすという趣向らしいが、だいたい人が集まるだけで暑苦しい。子供の頃にキャンプなどで怪談話をするのはそれなりに楽しかったけれど、大人になって楽しいかは別である。怖いというのはその時の気分が大きくて、妙に怖く感じる場合もあるし、平気な夜だってある。自宅の裏が墓である関係もあるんだろうが、夜に墓を散歩しても平気であるくせに、薄暗い廃墟の影を覗くのが恐ろしく思える時もある。墓はなじみがあるのに対して、廃墟には得体がしれない感じがあるせいかもしれない。
 西洋の、特に北欧の人たちからすると、日本の真夏の怪談というのは、まったく理解不能であると聞いたことがある。意味が分からないだけでなく、ホラー話の時期が合ってない感じもするんだそうだ。彼らにしてみると、真冬の吹雪の夜などに怪談を聞かされて震えるというのはあるらしく、寒い時期にさらに怖がるのが一般的なのだという。シチュエーション的に良く理解できるが、夏の開放的な気分では、やはり怖くないという意味なのだろう。
 日本の場合肝を冷やすとか冷や汗をかくとか、恐らくそういう言葉のイメージが最初にあるのではないか。さらにお盆で人が集まるというのと、やはりその時期に死者のことを思うというのがあるのかもしれない。ホラーというのは死と密接に関わりがあるから、そういう時期に怖い感覚と連想がつながりやすい。涼しげであるのかはやはり僕には分からないけれど、時期的に都合がよいから怪談を聞くようなことになるんだろう。
 余談だが、基本的には怪談話はほぼ作り話である。それでまったく問題ないが、そういうときに本当にあった話というのが少しばかり混ざる。これはテレビの影響もあるのだろうけど、おそらく、やはり死者との生前への思いがよみがえるということも関係あるのではなかろうか。親しい人が幽霊になったところで何も怖いことは無いが(幽霊であっても時には会いたいという人は多いだろう)、この感覚との距離感で、怖く感じる人も居るだけのことだろう。またにわかに信じられない怪しさがあって、ふだんは普通に信用のおけるような人が、変なこと言うような不思議な感覚も生まれる。そういうところから恐ろしさのようなものが感じられるのではなかろうか。まあ、本当に不思議なことというのはあるわけで、何もかもすんなりと分かるようなことにならない方が、世の中というのは楽しいのかもしれないけれど。
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死ぬ前に食うもので悩む

2015-08-13 | なんでもランキング

 雑誌をぱらぱら見ていたら、死ぬ前に何を食いたいか?というようなことが書いてあった。死ぬような時というのは具合がどうなのか、という疑問もあるが、例えばキリストのように元気な立場で食事をする場合もあろう。しかし文化的な背景もあるから、日本人としての自分だとか、家族の目の前だとか、単なる好物でなくて、その場にふさわしいもの、ということも配慮せねばなるまい。だからであろう、回答者の答えは、あんがい素朴なものが多かった。
 ということでふと考えるべきところだが、そういう前提にいろいろあるし、特に格好をつけている訳でないのだが、なんとなくピンと頭に浮かぶものが無い。死ぬ前に腹が減っているのならがっつりとステーキでも食ってもいいかもしれないが、なんとなく威勢が良過ぎてふさわしくないようにも思える。だからといってお茶漬けさらさらというのも、まあ、悪くないが、そんなに納得がいかない。いや、悪くは無いのだが…。
 僕は休肝日や寿司でなければ、晩の御飯にご飯粒を食うことは稀だ。そのためか、最後にご飯という感覚に遠い気がする。帰りのタクシーを待っているときに、塩辛なんかをちょっとつまみ直すような感じだと、少しはしっくりする。腹が減る感覚は理解できるけど、だからと言って安直に食うのは、やはり後がつかえる、という感じではないか。たいがい飲んでいるので、空腹で寝られないということは無い。だから食うと言えば食うけど、ひもじいからではない。しかし、だいたい後は寝るだけというのは、意識を失うだけに、死ぬ前のようなものなのではないか。
 特にお酒を飲んでいる必要もないかもしれないが、チャーシューだとか、海苔だけでもいいんだが、ラーメン屋だと、妙に気を遣う。早く食べて帰ってくれ、というのが本音かもしれないし。
 死ぬ前に静かに食事をするのでなければ、家族がそばで一緒に食事をするのであれば、皿うどんのようなものもいいかもしれない。いわゆる大皿料理。みんなで食べて、楽しく死んでしまいたい。
 それにしてもやはりなんとなく、そのようなものは本来的な死とは遠いもの、という気もする。まったくそれは僕だってそれなりに若いせいだろう。確かに死に近づいてはいる気がするけど、ボチボチではない。まだまだ食いたいものがあるわけで、そんなに最後にしたくは無い。胡瓜の浅漬けなんかをボリボリ食うのはいいかも、とは一瞬思ったが。それならついでに天ぷら揚げなんかも食いたいな、と考えてしまう。今は少し腹が減っているのかな。一品で終わるのが惜しい。
 いくつかランク付けしようと考えたけれど、ちょっとまだ無理みたいである。
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ひどい場所に生まれた悲しみ

2015-08-12 | 時事

 夏になると特に、平和を願う人たちの目を覆うばかりの蛮行が目立つようになる。平和のための暴力性が際立つのは、その正義の正当性の確信がそうさせるものと思われる。イスラム原理主義などと同じで(あくまでイスラムだけでなく、原理主義的なものすべてだが)、正義が明確な人は、いつも暴力的になってしまう。さらにそのことに無頓着で、反省も無い。
 学生の頃、ある人の紹介で長崎市の平和運動活動家といわれる人に会いに行ったことがある。なかなか熱いおじいさんで、しかし、僕らはシンポジウムのようなものを企画していたのだが、他の参加予定者の面々のお話になると、強烈に批判に転じて、驚いた。印象的だったのは「私は子供が毒の飴玉を舐めようとしていたら、手をはたいてでも阻止する」という言葉だった。比喩としては面白いが、ちょっとこれは上手くいかないな(というか周りの安全がどうかなというか)、と思って結局お呼びすることは無かった。
 僕はいわゆる活動家ではないし、信念を持って何かを主張される人については、それ自体については、特に何も言うつもりはない。しかしながら、そのことで自分の周りの人に、何か影響があるような場合には、黙っている訳にはいかない。その時は自分から会いに行っている訳で、単に驚いてしまったことだったが、しかしかえってお会いできて良かったかもしれないとは思った。それまで平和活動家というのは、何か信念に至る思いがあって、いわば偉い人なんだとばかり思っていたが、お会いしてみると、単にちょっと変な人に過ぎなかった。賛同される人もいるのかもしれないが、普通の感覚では、むしろ反感を買うような気分になる場合の方が多いのではあるまいか。彼の場合そういう分かりやすい人だったので、僕は話の途中であったが、これは無理かもしれないと率直にお話した。そうしたらそのおじいさんは、素直に認められてご破算になった次第だ。
 僕は誰もが分かり合えるというような話は信用していない。話せばわかるというのは、非常に無責任な態度であるとさえ思う。もちろんだからといって対話を否定している訳ではない。特に説得においては、ある程度は根気よくという姿勢は必要だろう。しかしながらそれが一方的にいつまでも続くような関係というのは、単に不自然なだけでなく、不毛であるということに過ぎないと思う。分かり合えないことを、お互いに尊重しあうべきなのだ。
 もちろんいつかは夏は終わる。不愉快なものは通り過ぎていく。もちろんまた巡ってくると、また不快なことは確かだが、蝉の声だって、生きているうちのことであろう。切ないまでも、いつまでも共感のない夏。それは、僕にとっての長崎の夏でもあるのである。
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ドローンに立ち向かう

2015-08-11 | HORROR

 首相官邸に落下して話題になった小型無人飛行機(というかヘリ)のドローン。用途を考えると、実に様々な有効手段があるとは思われるが、それだけ悪意のある使い方にも、利用可能なものであるらしいことが見て取れた。実際にこれを使った盗撮などは行われている可能性は高く、まさに知らないうちに監視されている社会に突入したということかもしれない。またお祭りなどのイベントなどには、主に撮影を目的としたものであろうけれど、個人の所有する複数機が空を舞う事態になって、そうして人ごみに頭の上から落下してくるような事故も予想されている。先日散歩していると自衛隊の金網に、ドローン飛行禁止の張り紙がしてあったが、場所によってはかなり敏感に規制を始めているところもあるのではあるまいか。
 ところでこのドローンの飛行音をマイクで捉え、位置を探知するシステムが開発されたという。開発したのは沖電気工業。複数のマイクで音を捕捉してドローンの飛んでいる方向や距離、高度などを割り出す仕組みであるらしい。マイクを増やして探査範囲を広げれば、監視センターのようなところでドローンを監視することも可能だという。音で捕捉することで昼も夜も監視可能ということになり、ドローンを使った悪質な攻撃から身を守ることが出来るのだという。
 こういうのは技術のいたちごっこという側面もあるので、この音に対する飛行音の工夫も将来はなされるかもしれない。公的に売られるものは、そういうことをさせない規制なども整備する必要もあろう。既に市場にある製品である限り、単純な規制だけで守られることは不可能だろう。たとえ日本で発売を禁じたとしても、かえってこれを海外から手に入れる悪徳団体の利益になるだけかもしれない。そうであるならばやはり技術で解決するより他に無く、例えそれがいたちごっこであろうとも、やるよりほかに仕方がないのかもしれない。
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暑くて馬鹿みたいだ

2015-08-10 | 散歩

 散歩も暑いとやってられない。日中歩いていると、ほとんど馬鹿みたいである。自分ではそう思うが、しかし歩いている人はいる。それも散歩ではなく仕事で。役場なんかはクールビズで統一されているけれど、行商のビジネスマンには黒服の人が居たりする。かなりぎょっとするが、正気らしい。馬鹿に見えるが、しかしこれはこれで偉いものである。何が偉いかはよく分からないが…。
 人間も暑いが犬だって暑い。特に道路は、ほとんどアスファルト加工されている。地面の熱気に近い分だけ、たぶん犬もつらかろう。さすがに日中の太陽の盛んな時間ではないにせよ、夕方になっても熱がこもっている。家を飛び出す勢いは激しいが、ちょっと歩いただけで、呼吸が激しく、まさにあえいでいる。
 杏月ちゃんの場合は小さいながら少し足は長いのだが、毛が黒いので暑さがこもるのかもしれない。立ち止まってしきりに顔の周りを足で掻くようなしぐさをすると、もうあんまり歩きたくねえな、というようなサインでもある。本当は抱っこしてくれと飛びついてくるのだが、抱っこしても暑いというのは知っており、要するに立ち止まって涼しいところで休めよ、という意味であるらしい。そんなところが散歩道のあちこちにあるはずもなく、適当なところまで我慢してほしいのだけれど、まあ、今がその時の場合には、仕方なく暑いまま、抱っこして歩くことになる。お互いの熱気で温めあいながら、構わず汗をかきながら歩く。これもやはりなんだかバカみたいだな、とは思うが、まあ、バカだから仕方がないじゃないか。
 そんな風にしてボチボチ歩いているのだが、それでも汗の流れは激しくなる。地球には重力があるから、頭の上からかいている汗が、容赦なく下の方へしたたってくる。上半身の汗だって下半身に流れていくだろう。下半身の汗だって…、というような順繰りがあって、脛のあたりでも汗がしたたるのを感じる。これは靴の中が臭くなって当然だな、と思う訳だが、これは靴箱が文句を言わないので何とかなっているのだろう。
 しかしまあ、こんなことをやっているのは馬鹿げてはいるものの、歩いているのは僕だけではない。中には颯爽と大きな手振りで真剣な人もいる。あれは何とか健康法とかあるんだろうな。小さいバーベルをつかんでいる人もいる。足首に重りを巻いている人もいる。暑いのにウインドブレーカーのようなものを着込んでいる人なんかもいる。そんなにみんな自分をいじめて何になるんだろう。本当にマゾッけの多い世界になったもんだ。暑いといろいろイカれることもあるのかもしれないな。しかしまあ馬鹿がたくさんいると、それなりに安心でもある。まったく早く家につかないものか。そもそもなんで家を飛び出してこんなことをしてしまったのだろう。
 暑さというのは、人間に不毛なことばかり考えさせるようである。
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働く追い風

2015-08-09 | 時事

 景気の動向もあるが、障害者雇用が少しばかりよくなっているという話がある。これにはいろいろ前提があって、言いにくいこともいろいろあるんだが、パートさんを雇うような作業において、障害者の労働力が素直に見直されているということもあるんだという。まあ、そういうことにしておいて、さらっと話を進めると、つまるところ、少しばかりの配慮をすることで、障害者がちゃんと働けるようになるのだという話である。
 そこまでは当然と言えば当然なのだが、様々な障害を抱える人でも、いわば、今までの職場の人たちと、同じような環境で、同じような動きを求めていたことに、無理解と困難があったということである。たとえば作業内容を説明する際に、知らない単語が入っているのに、素直に知らないと言えずに、注意を怠るということがあった。注意するものが何なのか、写真や図で示すだけで、何のことは無く理解して、ミスを犯しにくくできる。要するにお互いのコミュニケーション不足を、どのような工夫で補うかというのがポイントで、今までの工場などでは、何が理解されていなかったのかさえよく理解されていなかったために、不必要に作業に活かされることが無かったのである。
 さらに対人関係の苦手な人というのは多くて、しかしそのような自閉的な傾向のある人には、作業能力が逆に高い人も多い。単純な作業でも根気が続き、集中力のぶれが少なかったりする。しかしそういう人が動きが緩慢になるときがあり、それは実は作業そのものができないということではなくて、作業場における他の人の動きが気になるだとか、他の要因が大きい場合が多いのである。そういう人の視点に他人が入らないように作業区分をつくるだとか、可能ならば場所を離すなどの工夫ができると、十分に能力を発揮することが可能になったりする。個別にどのようにアプローチするのかということを、アイディアで乗り切ることができれば、仕事としても高いレベルで働いてもらうことができるということだ。
 障害者雇用においてネックになっているのは、いわば事業所が福祉的に心の問題として、障害者の雇用を考えなければならないというとらえ方をしていることにもあると思う。障害者が、人的な戦力として魅力的だということが理解されれば、もっと働いてほしいという流れにもなろうというものだ。もちろん今までもそうなるように働きかけはしており、実際にはかなり惜しいところまで来ていたことは確かなのである。ただ単に橋渡し問題というだけでなく、雇用確保が厳しくなったという追い風があって、その雇用をする上での工夫自体を、企業側が考えるようになったということが大きいように思う。図らずも国内の産業の空洞化が、多くの労働者の流出にもつながり、サービス産業への人的な移行が進んだ。ところが円安が進んで、また再度国内生産で採算をとろうとする業種において、雇用が枯渇するということが起こったのである。
 いつまでもこのような状態が続くのかというのは未知数だが、実際に現場で戦力として働く人が増えることは、さらに多くの人の雇用の後押しになろう。空洞化を埋める担い手として、障害者ほどうってつけの人材は無いのである。
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テレビを録音した世代

2015-08-08 | 音楽

 先日テレビで原田知世が出ていて、子供の頃にカセットデッキをテレビの前において録音していた、と語っていた。原田は僕と同じ学年であるから親近感があるが、当然体験的にも同じだったのだな、と改めて思った。
 テレビをなんで録音しなければならないのか、という疑問のある人もいるかもしれない。しかしながら逆に僕らからすると、もし今の子供がテレビを録音しないとすると、どうしてなのだろう? ということにもなろう。当時もレコードは売ってあったが高価であり、まだレンタルショップもなかったから、テレビを録音したのである。ラジオであればそのままカセットで録音できたが、ラジオでかかる音楽番組などが子供になじみがあったわけではない。これは少し年上の人たちのものだった。さらに当時はテレビをプラグなどでつなげて録音する術を知らない子供だったので、家族みんなに静かになってもらって、テレビのスピーカーから出る音を拾って録音したのである。技術の問題もあるが、子供なりに金が無いことへの工夫だったのだろう。
 単にそういうことなんだが、テレビを録音して聞いてみると、音の劣化が激しい。まさにテレビで聞くような音とは程遠い。また時折家族の話声なんかも聞こえて、訳もなく恥ずかしいような気もするし、腹立たしくもある。結局苦労して録音した割には再生回数は少なく、新たに工夫をしてプラグなどを買ってもらってきて、クリアな録音技術を会得したり、素直にラジオ番組を検索して録音時には茶の間から消えるようなことになっていく。こづかいも貯めて、駄菓子以外では初めてレコードを買うようなことになっていくのだ。
 音楽だけならそういうことだが、実はまだビデオというものがそんなに普及していなかった。だから僕の姉などは、映画やドラマをそのまま録音していた。映画はタイムリーで見るが、録音で再度科白を確認したりしていたのだろう。思い返すと不憫にも感じるが、まあ、当時としてはそんなに悲壮なものではなくて、それなりに楽しい思い出だ。もちろん思い起こせばということであって、やはり音が悪くて聞き返すのはそれなりに苦痛だった。このような思いが、のちの音の良い音楽機器への購入の欲求に繋がっていったのであろう。
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海が楽しかったなんてどうかしてた

2015-08-07 | 境界線

 こう毎日暑くちゃ、まったくやってられない。夏なんだから仕方ないんだけれど、野外活動なんてとんでもなくて、日陰から日差しを眺めるだけで、これはもううんざりする。
 ところで夏になると、なんとなく浮かれている人も多いように感じられる。特に海などに繰り出す人なんかも居たりして、ちょっと考えらない感じだ。子供が小さいころにはプールにも連れて行ったけれど、確かにそれでちょっとは面白かったけれど、もう今はせがまれたりはしないけれど、本当にこれは無くなって良かった。恐らくそんなことになったら死ぬだろう。
 しかしながら若いころには、自発的に海に泳ぎには行っていたのである。自転車を一時間以上もこいで、ついでに醤油なんかも持って海に泳ぎに行っていた。プールにも行っていたし、川にも行っていた。とにかく泳いだり飛び込んだりしていた。車を運転するようになってからも、一時期は毎週のように海に繰り出していた。水着の女の子でも見に行っていたんだろうか。時にはヤンキーの怖い兄さんに絡まれても、懲りずに海には行っていた。浜辺でビールも飲んでいた。カキ氷も食っていた。たいして面白いこともなかったが、まあ、そうであっても楽しい気分だったようにも思う。夏が来たことを喜んでいた時期は、僕にもあったのである。
 つれあいとも話をするんだが、夏というのは若いから楽しいのであって、僕らのように年を取ると何にも面白くもないものなのである。つれあいなんて若いころには髪も長かったし、実は僕も長髪だったりしたのだが、ああいう格好で夏に過ごしていただけでも、本当に奇跡のように信じられない。炎天下でも道を歩いていたんだから、やはりどうかしていたんである。若いっていいな、とはぜんぜん思わないけれど、夏に楽しい気分というのは、少しくらいはあってもいいかもしれない。
 まあ、ビールが旨いことくらいが今でもしあわせなんだが、それも涼しくなければ嫌である。夜も暑苦しく熟睡している感じもない。睡眠時間は何故か短くなって日中は眠い。暑くても会議は開催される。聞きたくないことばかりだが、意見はそれなりに求められる。海に行くよりましかもしれないが、昼寝でもしてやり過ごしたい毎日なんである。
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正直見直して観ました   インターステラー

2015-08-06 | 映画

インターステラー/クリストファー・ノーラン監督

 未来世界では地球の気象の変動などで、人類は滅亡の危機に瀕している。地球外の星への移住以外に生き延びる道はなさそうだが、その候補の星を探査する使命を帯びた人間ドラマと、地球に居続けた家族などの関係を描いた作品。まあ、要約はそうだけど、正直言ってそれなりに難解で、巻き戻して見直して確認してもはっきりしないところは残った。まあ、そんなに分からなくてもいい話なのかもしれないが…。
 SF的に論理上ありうる方法で星間飛行をしていたり、速度や重力の関係で時間の流れが違ったり、また、時間や空間そのものがねじれたような異次元の世界があったり、説明が最小限なので、なんじゃこりゃというものがたくさんあって、そうして登場人物たちも型通りの行動をしないために、どうしてそうなってしまうのだろうというような、観客を置いてけぼりにしがちな展開である。大筋ではそういうことだったんだな、ということが分からないではないが、でもだからどうなの?という疑問に答えられるものではない。そういうお話なんだからね、という突っぱねた態度は変わらないし、実験的な映画でありながら、妙に愛の物語だったりして、困る。
 もともと絶望的な状況だったんだから希望の話になりにくい、ということはあるのかもしれない。最初の展開でオカルトじみたことが起こるが、それが伏線になっていたことを後で気付かされる訳だが、しかしそれは実はやはりパラドクスめいた時間と空間のゆがみがなしえるエピソードと、何らかの偶然を感じる。しかし、それは人類の未来のためには必要だったということも言えそうで、きわめて人間中心的な宗教めいた運命論を感じさせられる。しかし多くの犠牲も同時にあって、生きている間において、彼らがしあわせだったのかは大いに疑問だ。仕方がなかったのかもしれないけれど、実は不幸への選択に過ぎなかったのではあるまいか。特に主人公はいろいろなことを悟りながらも、実は自分自身が不幸への扉を次から次へと叩いて歩くような生き方をしている。それでも行動に移していくところがいかにもアメリカ的な感じはしたが、未来のことだからそれでよかったのかどうだか。
 いろいろと地味なんだが、なんとなくすごい感じはあって、不親切だが、よくまあヒットしたものだと思う。むしろマニアックな観念的作品だと思うが、宣伝が上手ければ興行というものは成り立つという現代的な位置にある作品かもしれない。そんなに面白い話ではないけれど、観ておいて混乱しながら理解を深めることは、それなりに有意義な行為なのではないだろうか。
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ガパオライス、遠し。

2015-08-05 | 

 東南アジアの食べ物というのは、日常的にあんまりなじみが少ない。友人もいなかったわけではないのに、ちょっと不思議という気もする。日本とアメリカの関係もあるし、それを言うと経済的なものが背景にあるのかもしれない。国としてはそうだが、個人としてもどうか。それなりに知っているものもあるんだが、日常となると、非日常のカテゴリーの中に入る気がする。
 テレビの話だが、以前コウケンテツがアジアの国々を旅して、その地の料理を一緒に作ったり食ったりしていた。強火で炒めるものが多くて、そういうところは中華との共通を感じるが、しかし根本的には、やはりかなり違うらしいというのは感じ取れた。食材に使われる調味料が違う。さらに混ぜ合わされる野菜やハーブが違う。
 決定的に違うというか、東南アジアに共通というか、そういう作り方に、食材をすりつぶすように混ぜるというのがあるように感じた。石の壺のようなすり鉢に、ひき肉や魚やハーブや胡椒や、さらにはココナッツミルクや何かかにやを放り込んでひたすらペースト状になるまで混ぜる。混ぜやすいようにもっと大きな器にすればいいのではないかと思われるのだが、こぼれそうになっても、とにかくひたすらすりつぶしながら混ぜる。この下ごしらえをしたものを、最後に掛けたり、炒めものに和えたりする。ドロドロだったりべろべろだったりして、正直にいって見た目には旨そうなのかよく分からない。テレビでは匂いが無いのでさらに分からないが、ひたすら辛そうだったり、逆に微妙に甘そうだったり、緑が異様だったり、とにかく訳がよく分からない。しかしながら彼らや彼女らは、このペーストの出来具合で、うーんとかムーとか唸りながらうまそうに味見なぞをしていたりする。それを見て、やはりなんとなく気になって食ってみたくはなるわけだ。
 そのような料理番組で、先日はやはりタイのガパオライスというのを紹介していた。ガパオという葉っぱがあるらしいのだが、それはちょっと現地でなければ無いようなんだが、その名前の由来のものより、中身のそぼろ状に炒めたものが、ご飯と相性が良くて旨いらしい。挽肉でも魚肉でもなんでもいいらしいが、あちらでは鶏が人気であるらしい。先にニンニクやら唐辛子を炒めて挽肉を投入。順に玉ねぎなど切っておいた野菜を入れ、むせながらかぎ混ぜている。猛烈な火力と、調味料と混ざった食材が、周りにいるものをむせさせる威力があるらしい。レポートをしていた俳優さんや、そばで見ていた店員さんも思わずむせて咳き込んでしまって、なかなか楽しいのだった。もちろんいつの間にか先にペースト状にしていたガパオの葉っぱやハーブや魚醤などを投入して、2分弱で出来上がり。油で揚げた目玉焼きと、またしてもガパオの葉の天ぷら、ちぎったガパオの葉などを添えて、それらをご飯に混ぜて食べるらしい。
 簡単といえば簡単で、しかし食材は特殊だし、なかなか同じような感じの味には、家庭ではならないのではないかと思われた。また、タイ人が料理するような店というのはなかなか近所にはない。あったとしても流行るものかは未知数だ。東京などに出張の折に探して食べるかというのも、夏を前にして少し決意のいるものかもしれない。
 見て楽しい食べ物であったが、実際に食べるまでの道は、それなりに険しそうであった。
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待たされた上の仕打ちとは

2015-08-04 | 雑記

 世の女性の買い物の長さに辟易させられる話は、洋の東西を問わない。それだけお金に対する感覚がシビアだという説もあるし、やはりセンスに敏感だったりするのは女性に多そうだというのは分かる。さらにやはり決断に悩む人(時間のかかる)が、女性の方に多い、慎重に物事を考える人が多いせいではないか、とか、軽率な人が少ないせいではないか(ほんとか?)、などとも言われる。
 いや、厳密には女性のことを言いたい訳ではなかった。とにかく買い物に時間のかかる人というのはあって、それに付き合う人がいる場合に、多少の軋轢が生まれるというか、困る人がいるということを言いたい訳だ。最近の男性諸君にも、買い物が長い人は多いように思われるので、これは女性特有の問題なのではない。買い物に慎重になるのは分からないではないから、慎重になるあまり、人を待たせても構わないか問題ということになるかもしれない。
 何度か書いているが、僕のつれあいはものすごく買い物が速い人で、僕はほとんど買い物には興味が無いからぶらぶら歩いていると、ぶらぶらする暇もなく買い物が終わってしまって、ちょっと物足りないくらいである。朝からお出かけして一時間くらい車に乗って買い物に行ったとしても、ものの10分で済んで、トータル2時間10分で帰ってくるようなことになる。福岡あたりまで買い物に行っても、買い物済んで昼飯食べて、午後の2時前に家に帰ってくるようなこともある。そういうことなんで、時々つれあい以外の人が買い物してるような時には、それなりに驚く。なんで(例えば)消しゴム一つ買うのに、そんなに時間がかかるのだろう。これでは一日が短かろうな、と思ったりする。
 だから僕にせよつれあいにせよ、他の人との買い物においては、いつも待たされ組になるらしい。まあしかし何か欲しいものがあるんだろうから、選びたいだけ選んだらいいという心情はある。買い物なんだから、買いたいものを買えばいい。急かされて買いたくないものを買うようなことは悲劇だから、それくらいは待たされても、素知らぬふりをしているくらいのことは、表面上はするかもしれない。
 でも、それでもなんとなく待たされて、イラッとするとか、そこまでなくても不条理に疲れさせられる行動がある。それというのも、散々選んであれやこれや意見を言わされて、さらに最終的にその人が何も買わなかった時である。そういうときはさすがに「なんでっ!」という気分になるし、これまでの徒労感というか、消耗感というか、とにかく激しい損失のようなものを感じさせられる。相手にしてみれば今回は買わないという選択を下したということかもしれないが、僕らには何の選択権もない上に、なんだか何か一方的に敗北したようなものである。
 ある程度までは待ってもいい。とにかく決断の道は、買う方向までよろしくお願いします。
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