kosakuの雑念

英語とか読書とか覚書メモとか思ったことなど

意味記憶とエピソード記憶

2010-10-26 11:57:03 | 日記
TIME November 1, 2010

Remains of the day.
Can a new device help amnesia patients outsource memory?
を読む。

センスカムとかいう首にぶら下げて30秒毎に広角レンズだか魚眼レンズだかで、写真をガンガンとっていくデバイスがアムネジア(健忘症という訳で良いのか?)の人の助けになるか否かという記事。
42枚のセンスカムによる写真が出ていたが、それを用いた患者(クレアという49歳の女性)は12時間活動し、2,299枚の写真が撮影されたらしい。
見直すのも大変だ。
見てると頭がクラクラしてくる。

健忘症というのは、もう新しいものが覚えられないものなのかと思っていたが、そうではないらしい。

She remembers, for instance, how to drive a car, and she could learn to play the piano if she wanted, although she would have little or no memory of receiving lessons.

へ!?そうなの!?って感じ。
episodic memoryというやつ駄目だが、semantic memoryはOKなんだとか。
人の顔が覚えられないのは人の顔は意味情報ではないということなのか。
でもエピソード記憶ではしっくりこない。
よくわからんなあ。












在庫と蔵書は知識の代替物

2010-10-25 11:19:58 | 日記
「古書店めぐりは夫婦で」(L&N・ゴールドストーン)は私の好きな本のひとつだ。
原著1997年、邦訳1999年。
ハヤカワ文庫。680円+税。
本の中に出てくるある老人が言うには
”蔵書とは、自宅史上最高の偉人たちの頭脳を並べてあるようなものだ。”(17ページ)
この老人がぐだぐだと語る部分は原著で読んでみたいなと思ったがそのままになっている。
電子化されて、原著と邦訳を切り替えて、ちょっと原文の表現をみたいときにチェックできる環境だったらいいよなあと夢想する。
DVDで洋画をみるときにセリフを確認できるみたいに。
出てくる単語、人名もサクサク辞書で調べられたらいいよなあと夢想する。
読んだ本を全て蔵書とすることができて、しかもいつ読んだのか、どれくらいの頻度で読んでいるのか、そういったものが全て残っていたら、なんか面白そうな感じはする。
たぶん、流行りの新書とか小説ばっかりになるんだろうけど。
データだけだったら、読んだ本がすべて残ってなくともいいのか。
じゃあDVDレンタルみたく、月ぎめ定額で、8冊までとか読めるサービスがあればいいのに。
とくに新書や小説は基本的に1度読んだら捨てるだけだし。
まあそんなことはどうでもいいんだが。

”要するに、在庫とは知識の代替物のことである。線上に赴く兵士が自分は36発きっかりしか銃弾を発射しないとわかっていれば、それ以上の銃弾を持って重量を増やす必要はないし、さまざまな救急用具など、使いもしないものを持っていく必要もない。つまり、知識がない、ただそれだけのせいで、そうした在庫を備えとして持っていかなければならないのだ。”(ソーウェル「入門経済学」203ページ)










電子書籍が高いのはしょうがない

2010-10-25 03:21:32 | 日記
紙で印刷されていないのに高い感がする電子書籍なんだが、けっきょくそれって我々は印刷された紙という手に触れることのできる部分にお金を払っていると思ってきたものが、実はコストの構成要素の主たるものではなかったというだけのことだったということ。
もちろん経済の教科書に出てくるように、ハードカバーとソフトカバーのコスト差があれほどの販売価格差を説明できるほどの差がないという話からしても分かっていたはずなんだけど、実はサッパリわかっていなかったんだなあという話。
つまりソフトウェアに金を払っていたのにハードウェアに金を払っていたのだと錯覚してたわけだ。
なんか恥ずかしい。
そんなのいっぱいあるんだろうな。



ABCD包囲網

2010-10-25 01:02:02 | 日記
西尾維新「傷物語」を読んでいたら、ABCD包囲網というむかし歴史の時間に習ったような気がする用語を使った冗談があった。
山川出版社の詳説日本史をチェックしてみたが、そのような用語はなかった。
米国の日米通商航海条約の破棄通告(1939年)というのがそれらしいが、どこにも英中蘭など出てこない。
フランスが一切出てこないのも分からない。
スポーツ新聞の見出しのごときものを真面目に教えていた光景を思い浮かべると相当に笑える。


英語教育大論争ってあったよな

2010-10-21 20:48:03 | 日記
朝日新聞(2010年10月20日)

オピニオン欄で「これからの英語」ということで鳥飼玖美子さんのインタビュー記事がありそこそこ熟読してみた。
ここでも出てくる「英語教育大論争」というのをむかし読んだことを思い出した。
もっとも、その時点で古本屋のワゴンで買ったハードカバーを読んだのだから相当に古いはずだが、30年以上前から、いやおそらく戦後から英語教育に関してはいろいろ論議を読んでいるのだろう。

当時は渡部昇一の言うところの「知的格闘」というコトバにそこそこ心酔したと思うのだが、よくよく考えると外国語を勉強するときにおこる悪戦苦闘が、その後の人生に資することがあったとしても、それは副産物であって、英語を勉強するときの目的は英語ができるようになることである。

数学を勉強するのだって数学ができるようになるためで、将来使うことがなくとも数学の勉強で得られた論理的なものの考え方が役に立つの類いの話はよく聞く。ところが世の中に出れば実際数学が必要な仕事は多々あるわけで、論理的云々の話はおかしいと思う。
さらにしつこい話をすると歴史を勉強するのは歴史を知るためであって、べつに語呂合わせの能力やノートにまとめる能力をつけることが目的ではないはずだ。

それはともかく、鳥飼教授の言うように一般の人は英語教育の現状をまるでご存知でない。
文法偏重というよりはむしろ会話に偏りすぎている気さえする。
もっとも、私も中学高校の教科書をたまたま読む機会があったから知っているに過ぎないし、語学教育に関わりのない人が知らないのも無理はないと思うが。

むしろ多少は語学教育に関わって日々思うのは、読むか話すかという以前に日常の政治経済社会問題やら環境問題やらを話し合うのには皆の知っているボキャブラリーがあまりにも少ない。

あとインドにはインド英語があるみたいな議論はマジでどうでもいい。
あんなの我慢して聞いてやってるだけで(少なくとも私はそうだ)、通じりゃいいなんて現場レベルでの最後の手段でサバイバルイングリッシュなんて教育でやんなくてもいいだろう。どうせビジネスではやらざるを得なくなるんだし。
とはいえ、なんらかの国際英語があったほうがいいとも思う。
考える以上に我々(私だけかも知れないが)の英語はアメリカの口語表現(ハリウッド映画?)の影響を受けていて通じない表現も結構あるから。
かっこつけてしゃべって通じないとバツが悪いんだよなあ。
もっと勉強しろよ特にイギリス人(笑)