「よし原日本堤」
日本堤は浅草聖天町から下谷三之輪まで続く長大な堤防で、約1,500メートルに及ぶ。荒川の氾濫から江戸の市民生活を守る重要な役割を果たしたが、明暦3年(一六五七)に日本橋にあった吉原が浅草に移転すると、その通い道としても大いに栄えた。百軒にのぼる茶屋が軒を連ね、「吉原堤」とも呼ばれるようになる。当時の川柳にも、「日本を出るとアリンス国へ出る」日本堤を出るとすぐに吉原遊廓に着く、との意。アリンスは吉原独特の廓言葉といわれた。右奥に見えるのが吉原、その手前、画面右端には、遊客が名残を惜しんで見返ったという、有名な「見返り柳」が描かれ、堤の両側にはよしず張りの茶屋が並ぶ。
春日井市在住、1935年私的な挿絵等に全て自由にご使用ください。
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