くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

ニャチャンとはホワイトハウスという意味?

2018年02月07日 | Weblog

◼️ニャチャンに着くと例の軍人さんと別れ、ホアン君に連絡して4時半まで市内をぶらぶらして時間を潰すことにした。ニャチャン鉄道駅の近くにあるトミーホテルWWW.tommy-hotel.comへ行って見たが主人はテトは日本でということで日本語わかる人いないみたい。ホアン・ヴァン君のところは遠くてわかりにくいので市内観光だけなら市内のホテルのほうがいい。下見をかねてあるいてみた。

ニャチャンセンターの4Fレストランがいい。海岸を一望に展望できる。日本食のすしを食べてみた。60K、300円で4,5個の反転巻き。気のせいか旨いと思う。気のせいかここの日本食は日本以上ではないかと思い込んだりする。ここはベトナムの海産のメッカであり、海老など日本に輸出しているし、ガイドブックにもここの日本食堂は一見の価値ありとある。

2,30分も歩くとニャチャン市内のおおまかな広さの把握ができる。海岸線のチャンフー通りに直行するエルシン通りと南側を斜行するレ・タントン通り、とタイゲン通りとその2つが中央で他の5つの通りと一緒に交差するロータリーがあり、そこに大聖堂のあるマリア広場がある。

少し北にあるダム市場にも行ってみた。ちかく大きな改修がありそうな感じだった。海岸通では、博物館とパスツール研究所がある。どちらも見ることは出来なかったがパスツール研究所はエルシン博物館のことであるらしいとわかった。

アレクサンドル・イエルサンはペスト菌の発見者である。日本では北里柴三郎が発見者となっているが同時に発見したもののペスト感染との直接関連を示した彼が発見者としてペスト菌にはイエルサンの名がついている。14世紀にはヨーロッパの人口の1/3が死亡した黒死病と呼ばれた人類史上最悪の感染症である。スイス系フランス人でパスツール研究所のイエルサンはベトナムのここに住んだのだ。彼の家が白い家だったのでNhaTrang(白い家)と呼ばれるのだという説もある。ガイドブックなどには何ものっていない。ハノイの歴史研サイトで偶然に知ったが、このことをどれだけのベトナム人が知っているだろうか?機会があれば訪れたいところだ。

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ニャチャンに出発

2018年02月06日 | Weblog

◼️朝9時の電車でハノイ駅を出発してニャチャンに向かう。コンパートメントは3段2列のベッドになっていてお婆ちゃんと若い母親と3歳の男の子と一緒になった。男の子 はベン(ベンジャミン )と言ってネイティブなみの英語を話す 。母親( 英語名マリア )はこなれた英語を話し、英語で外国人にベトナム語を教えているらしいがベンは生まれた時から英語とベトナム語のバイリンガルで教えていて、彼女自身も英語はネットで勉強したというので驚いてしまった 。
ちょっと気にな って 聞くと父親は別居で シングルマザー と同じだとか 。こんなにとと手 のかかる子供 といつも一緒でよく やっているなぁ。ベトナム女性は すごいよ。
彼女達はゲアンで降りた。
その後、タインホアの軍人で通信機器を扱う男性と同室になりiPhoneのgoogle翻訳と身ぶり手振りのコミュニケーションでニャチャンまで過ごした。テトに仕事というのも大変だ。タインホア名物のネムチュアをお土産にくれた。これは2日しかもたないから早く食ってくれといっているようだ。

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ベトナム残留孤児

2018年02月05日 | Weblog

◼️明日のニャチャン行き の準備。久しぶりに散髪屋に行った40k。夕方 ジャイカの入っているコーナーストーンビル 11階 で「引き裂かれたベトナム残留孤児家族 」のビデオ を見る 。5年前に放映 されて昨年 再編集 されたものが 天皇 ベトナム 訪問に 合わせえて放映され脚光を浴びた 。日本が 敗戦 した時を狙って 1945年9月ホーチミンが 蜂起 しベトナム独立の声を上げる。現実的なベトナム 解放は1954年ディエンビエンフーで仏軍 に圧勝してからだが、それまで引き上げなかった日本兵はベトコンに巧妙に勧誘されて ベトナム 兵を 訓練し 共に 仏軍と戦って いたのだ。
共産党の資料からも敗戦した日本兵は既に敵ではないから利用すべきだという記述が ある。しかし、北緯17度で南北に分かれ、冷戦が始まると日本はアメリカと共に 南の支持にまわり、北には中ソの軍事顧問がベトコン軍の訓練に 投入され、日本兵の 介入は歴史から消されて行く。54年 以前の 日本兵は妻子を 連れて帰国が 許されなかったのに10年後 は許されることに なったのだ。夫の 帰国を 知らされないまま 子供を 育て上げた 老いた母親と 、日本兵の隠れた 功績を知らない若い子供達にいじめられ、差別を受けて育った 孤児達のその後をフォローしたドキュメントである。とても感動的で終わると自然に拍手が湧いた 。
北ベトナム の話であってハノイだけの特殊な事情である。両国の子供や孫達が再会し友情を深めるという筋書きなのだがなんといっても遅すぎた。登場人物は殆んど亡くなっている。日本兵の功績を知る証言を している 人望の厚いザップ将軍 も先日 亡くなったばかりだ。孤児たちの子供がもう70歳をすぎるくらいなので集まることすら難しくなっている。この活動を支援してきた小松さんはこれからどうして行くのかと聞かれ、正直に わからないと答えた 。若いベトナム人に託したいと言った。昨年の天皇訪問で脚光を浴びるまでは調査は遅々として 進まず、日本語教師の 在留資格で共産党政府との対応には 多くの危険や妨害があったようだ。
上映会 には日本語を勉強しているベトナム学生さんが何人も来ていて 声を掛けると誘われて その後の食事会に同席させてもらった。 何の会だか知らないけど日越大学の先生が来ていた。学生さんとベトナム 語の会話練習を、、、。早々に 引き揚げてタクシー でピッタリ 10時 半に帰宅 。タクシーで守衛のタンさん(新く入った おじさん)に始めて 電話したらアパート玄関で 待っていてくれた。 最近少し ベトナム語を話しているという実感が出てきた。学校で勉強 初めて 半年 。あと半年でなんとか、、、。



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ホアンキエム遊歩・ニャチャン行き切符

2018年02月03日 | Weblog

■10時玉山祠門前にぴったり到着。ビエット君は既に30分前に到着していたがビッチさん来ない。随分待っても来ないのでSNSを確認するとWiFiが入っていなかった。ビエットのスマホのWiFiを借りてSNSをつなぐと、なんと昨晩彼女は体調不良でこれないとのメッセージを出していて、僕は気づかなかったのだ。

ビエットは僕と同じ国家大学の工科大学の卒業生で流体工学専攻で3月に「エンジニア」として埼玉のF1のエンジンを作っている企業で3年働くそうだ。すっげえ!と思ってしまった。もし実習生と同じで行くならこの会社うまく使ってるなあ、と思う。先輩が日本永住でベトナム人の嫁さんを連れて行っているというから、その形で行けそうだがもし問題あるようなら相談にのるよ、と言った。その送り出しはエンジニアだけ送っているのか、実習生セットで送っているのか興味あるところだ。

ホアンキエムめぐりは歴史研究会の「ガイド」を持って彼に説明しながら歩いた。彼は歴史的な背景は0に等しい。国際郵便局前にある「和風塔」と呼ばれるレンガの塔はいつも新郎新婦の記念写真のバックに使われているが、これは150年以上前に郵便局の場所に作られた広大な「報安寺」バオアンといわれる寺の跡に唯一つ残っている門柱だということは誰も知らないようだ。

チャンティエンプラザは元仏植民地で最初の百貨店(クアハン、バックホア)ゴダールの後にベトナム資本100%で作られたものだ。湖のところまではチャンティエン通りというが、チャンティエン(場銭)というから近くに造幣施設があったりしたのかも知れない。金、銀細工の店が集まっていたようだ。そこからハンカイ通りになる。ここは湖がもともと紅河につながっていたのに、16世紀末、皇帝を傀儡として実権を持ったチン氏が舟遊びをするために像の通れる道を作ってここを湖にしてしまった所。その道で家具や象牙職人が集まっていて木のお盆(カイ)が作られていたので付いた通りの名前がハンカイということだそうだ。

そうなんです、当時の権力者たちの乗り物は象だったんです。湖東の人民委員会ビルの敷地に元は象舎を持った大きな寺があって住職は熟達した象使いで、、、なんて話し出すとキリがない。昼は湖北のディンティン通りの狭い路地裏の屋台でブンタンを食べる。最初はそうでもないが、食べ慣れると病みつきになりそうな味だ。汁が旨い。そのあと大聖堂「ニャトーロン」の中に入り、周辺を歩いた。もちろんニャトーロンはパリのノートルダムを思わせるヨーロッパ観光客必須の観光地だから人が多いけれど、狭い路地裏の先に大規模で極彩色の大小様々な神や仏や聖人や英雄が所狭しと鎮座している祠の如何に多いことか、、。まさかこんなところに、、と思うようなところばかり。気がついて見に来る観光客もめったにいないようなところが多い。おもしろいところだわ。

ニャチャン行きは来週の火曜と決めた。ハノイ駅で往復寝台の帰りは23日の金曜。1日がかりの旅で、途中のダナン、ホイアン泊もありだが今回はテトなので混雑し予約に不安もあるので直行にした。テトは2倍の価格で約240万ドン(1.2万円)。ビェット君が窓口で買ってくれた。駅から49番バスで帰宅。僕は座れるが彼は立ちっぱなし。帰宅後、屋台の夫婦も帰郷したし、いつもの食堂も休みでマイジック街まで行ってコムザン(焼き飯)を食べる。

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フランス租界地

2018年02月02日 | Weblog

■午前中勉強して午後はフランス租界(ホアンキエム湖東側)を回った。明日はホアンキエム湖を歩こうとビッチ、ビエットを誘うと2人ともOKが来た。初級クラスの2人も誘ったが用事ありとのこと。

フランス租界地は植民地として本国より派手な生活の出来るフランス人居住区ということ。統治機構のそろった場所。つまり当時の建築様式を残している場所になる。黄色の壁に緑の窓。各官庁建造物、銀行、ホテルなど。様式としてはネオクラシック風、それにアジアっぽさが加味されている感じ。建物が既に取り壊されるかして存在しない物や、住所が間違っているっぽい物もあった。

インドシナ連邦と呼ばれラオス、カンボジアを含め、トンキン(東京)アンナン、コーチシナと別々に統治しながらもまず、首都ハノイは植民地支配全体のための資金調達の中心としてこの銀行が重要な役割を果たしている。旧インドシナ銀行はそのロケーションからして、銀行から放射線状に伸びる道路は、凱旋門から放射線状に道路が延びるパリを想起させて、その格の違いを感じさせる。今はベトナムの国家銀行だ。中に入ろうとすると止められてしまって見ることはできなかった。20年代のアールデコはニューヨークみたい。

フランス租界の中でも異質な存在がホセ・マルティの像。ホーチミン像をキューバと交換したということで納得。スペイン語圏のツーリストには意外に受けるかもしれない。

我がハノイ国家大学の講堂がこことは知らなかった。仏領インドシナに当時唯一の大学で科挙制度がなくなった後で植民地政策に好都合な人材育成の中心だった。東洋的なモチーフの西洋的な建物はエルネスト・エブラールのインドネシア様式。歴史博物館は彼のデザインである。そして講堂の横はハノイ薬科大学。初代校長アレクサンドル・イエルサンは北里と同時代にパリのパスツール研究所でペスト菌を発見した医師。ベトナム医師育成に尽力し80歳でニャチャンで死す。彼の家がホワイトハウスだったのでnyatrangという名になったと言われることもあるという。ニャチャン郊外に墓があるらしい。

そして、ソフィテルメトロポールホテル(現トンニャツトホテル)グレアムグリーン、チャップリン、モームが滞在した。あのモームがここにも来ている。フィジーで彼の行きつけだったレストランに行ったことがある。そこでゴーギャンの生涯に思いをはせた記憶がよみがえる。

 

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