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歌舞伎座は一日にして成らず
ちょいと事情があって歌舞伎座の建物の歴史について調べてみました。
歌舞伎と言うのは江戸幕府開府と同時期にブレイクした演劇芸能ですが、
初期の50年くらいは、やれ女はやるな、美少年はやるな、勝手に小屋を造るな、という
お上からのちょっかいも色々あった激動期、17世紀中庸に至って
野郎歌舞伎と言うスタイルと、いわゆる「江戸四座」による興行という形で安定成長期に入ります。
(といってもしばらくしてスキャンダルで一座が潰され、江戸三座になってしまった)
ところが明治に入ると、文明開化という近代化革命!の影響を受けて
「歌舞伎を立派な舞台芸術にしよう」という運動が興ったらしい(「演劇改良運動」といふ)。
その結果、明治の中ごろに新たに誕生した芝居小屋、もとい劇場が「歌舞伎座」。
つまり、歌舞伎座は歌舞伎を近代化しようという志の成果な訳です。
で、ここでいう歌舞伎座は建物(劇場・小屋)と興行がセットになった仕組みを指す訳ですが、
興行の方は江戸期の一日また~りと芝居を見ながら食事したりお酒飲んだり、
途中でお茶屋に行って休憩したり、というスタイルから、明治期の試行錯誤を経て、
大正期にはチケットの前売りの仕組み、きっちり開演(それも午後)、幕間も終演も定刻、
食事は劇場内の食堂で、心づけはいりません、という「近代的」な仕組みの導入が完了します。
合わせて、客席も徐々に升席から椅子席に、舞台と客席の間には額縁=プロセニアムアーチが設けられて、
舞台空間と芸能空間の分離が進められる、といった変化(「近代化」・・・)が進んで行きます。
その過渡期に登場した初代歌舞伎座の建物は、デザインはいかにも文明開化、
と言う感じの堂々たる「洋風建築」、だけど客席は升席、といった建物でした。
(客席を椅子席に転換する仕組みも装備していたらしいが、使われなかった模様)
ところがその洋風建築の歌舞伎座がオープンしてから20余年後の明治末に、
これまた力の入った本格的な洋式大劇場「帝国劇場」がオープンし、
(建築様式的にも、劇場設備的にも、俳優養所や大道具製作スタジオなどの組織的にも本格派)
ここも(何故か)歌舞伎役者を擁して歌舞伎を上演し始めたものだから、
それへの対抗から、(だれのアイディアか分からないんだけど)
歌舞伎座はどでかい入母屋屋根を乗っけた豪勢な和風建築への大改装を敢行したのです。
僕らは歌舞伎の劇場なんだから和風が当たり前、と思っちゃいますけど、
途中にはこういった変遷があったのですね。
*余談ですが、帝国劇場も演劇改良運動の悲願である「洋風大劇場」を具現化したもの、
と言う意味で、歌舞伎座とある意味同じ流れの中で出来た劇場です。
しかも、その創立委員長である渋沢栄一が始めて具体的な打合せに参加したのが
歌舞伎座創立者の福地桜痴の葬儀が営まれた日、というのだから、なにか因縁を感じさせます・・・。
そしてこの建物が漏電で焼失すると、既に経営権を握っていた新興芸能オーガナイザー松竹は、
当時のスター建築家・岡田信一郎を起用し、本格的劇場設備を導入しつつ、
屋根にはこれまたどでかい入母屋屋根を3つも乗せた2代目歌舞伎座をオープンさせました。
この豪勢な和風歌舞伎座が登場したのが大正13年(1924)、世はまさにモボ・モガの時代。
この歌舞伎座は第二次大戦目末期の空襲で内部を焼失する憂き目にあったのですが、
いまだ占領下の1951年に早くも復興オープンし、その時の改修された姿が現在の歌舞伎座の訳です。
因みにこの改修設計は岡田の弟子の建築家である吉田五十八の手に成るのですが、
伝統と近代の意匠の融合を実現した数奇屋建築の大家だけあって、
真ん中の大屋根はちょっとくどいので再現せず、インテリアも桃山調といわれた豪勢なイメージは継承しつつ、
巧みに近代的なセンスを織り込んで、見事再生を成功させたといえるでしょう、はい。
そんな訳で、東京の定番スポット(特に外人さんに人気!?)の歌舞伎座、
あの唐破風の桃山調和風スタイルに至るのにも、案外な経緯があったという訳です。
まさにローマは一日にして成らず、ですね。(ん?違わない、よね??)
歴代歌舞伎座の画像はこちら;
松竹のオフィシャルサイト「SHOCHIKU KABUKI&STAGE」から
歌舞伎座→劇場案内(ようこそ歌舞伎座へ)→歴史(歌舞伎座の歴史)と進んで下さい。
歌舞伎と言うのは江戸幕府開府と同時期にブレイクした演劇芸能ですが、
初期の50年くらいは、やれ女はやるな、美少年はやるな、勝手に小屋を造るな、という
お上からのちょっかいも色々あった激動期、17世紀中庸に至って
野郎歌舞伎と言うスタイルと、いわゆる「江戸四座」による興行という形で安定成長期に入ります。
(といってもしばらくしてスキャンダルで一座が潰され、江戸三座になってしまった)
ところが明治に入ると、文明開化という近代化革命!の影響を受けて
「歌舞伎を立派な舞台芸術にしよう」という運動が興ったらしい(「演劇改良運動」といふ)。
その結果、明治の中ごろに新たに誕生した芝居小屋、もとい劇場が「歌舞伎座」。
つまり、歌舞伎座は歌舞伎を近代化しようという志の成果な訳です。
で、ここでいう歌舞伎座は建物(劇場・小屋)と興行がセットになった仕組みを指す訳ですが、
興行の方は江戸期の一日また~りと芝居を見ながら食事したりお酒飲んだり、
途中でお茶屋に行って休憩したり、というスタイルから、明治期の試行錯誤を経て、
大正期にはチケットの前売りの仕組み、きっちり開演(それも午後)、幕間も終演も定刻、
食事は劇場内の食堂で、心づけはいりません、という「近代的」な仕組みの導入が完了します。
合わせて、客席も徐々に升席から椅子席に、舞台と客席の間には額縁=プロセニアムアーチが設けられて、
舞台空間と芸能空間の分離が進められる、といった変化(「近代化」・・・)が進んで行きます。
その過渡期に登場した初代歌舞伎座の建物は、デザインはいかにも文明開化、
と言う感じの堂々たる「洋風建築」、だけど客席は升席、といった建物でした。
(客席を椅子席に転換する仕組みも装備していたらしいが、使われなかった模様)
ところがその洋風建築の歌舞伎座がオープンしてから20余年後の明治末に、
これまた力の入った本格的な洋式大劇場「帝国劇場」がオープンし、
(建築様式的にも、劇場設備的にも、俳優養所や大道具製作スタジオなどの組織的にも本格派)
ここも(何故か)歌舞伎役者を擁して歌舞伎を上演し始めたものだから、
それへの対抗から、(だれのアイディアか分からないんだけど)
歌舞伎座はどでかい入母屋屋根を乗っけた豪勢な和風建築への大改装を敢行したのです。
僕らは歌舞伎の劇場なんだから和風が当たり前、と思っちゃいますけど、
途中にはこういった変遷があったのですね。
*余談ですが、帝国劇場も演劇改良運動の悲願である「洋風大劇場」を具現化したもの、
と言う意味で、歌舞伎座とある意味同じ流れの中で出来た劇場です。
しかも、その創立委員長である渋沢栄一が始めて具体的な打合せに参加したのが
歌舞伎座創立者の福地桜痴の葬儀が営まれた日、というのだから、なにか因縁を感じさせます・・・。
そしてこの建物が漏電で焼失すると、既に経営権を握っていた新興芸能オーガナイザー松竹は、
当時のスター建築家・岡田信一郎を起用し、本格的劇場設備を導入しつつ、
屋根にはこれまたどでかい入母屋屋根を3つも乗せた2代目歌舞伎座をオープンさせました。
この豪勢な和風歌舞伎座が登場したのが大正13年(1924)、世はまさにモボ・モガの時代。
この歌舞伎座は第二次大戦目末期の空襲で内部を焼失する憂き目にあったのですが、
いまだ占領下の1951年に早くも復興オープンし、その時の改修された姿が現在の歌舞伎座の訳です。
因みにこの改修設計は岡田の弟子の建築家である吉田五十八の手に成るのですが、
伝統と近代の意匠の融合を実現した数奇屋建築の大家だけあって、
真ん中の大屋根はちょっとくどいので再現せず、インテリアも桃山調といわれた豪勢なイメージは継承しつつ、
巧みに近代的なセンスを織り込んで、見事再生を成功させたといえるでしょう、はい。
そんな訳で、東京の定番スポット(特に外人さんに人気!?)の歌舞伎座、
あの唐破風の桃山調和風スタイルに至るのにも、案外な経緯があったという訳です。
まさにローマは一日にして成らず、ですね。(ん?違わない、よね??)
歴代歌舞伎座の画像はこちら;
松竹のオフィシャルサイト「SHOCHIKU KABUKI&STAGE」から
歌舞伎座→劇場案内(ようこそ歌舞伎座へ)→歴史(歌舞伎座の歴史)と進んで下さい。
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