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「報道」写真のクライアント
報道写真、と言う言葉が1930年代から使われるようになりました。
これはフォト・ルポルタージュの訳語として伊奈信男が使用したのが最初、
というのが一般的な説らしいですが、いずれにせよ名取洋之助の
ドイツからの帰国(1933)以降盛んに喧伝されるようになった言葉の様です。
さて、ここで言う「報道」とうい言葉の意味ですが、この時代「社会の事実を伝える」という意味から
だんだんと「ある種の思想・考えを表現・伝達する」という意味にシフトして行ったように見えます。
これは別に写真に限ったことではなく、当時の一般的な使用法なんですが(例えば「報道技術研究会」)、
今日的な感覚からすると、これは「報道」ではなく「宣伝」あるいは「プロパガンダ」ですね。
で、この「報道」のクライアントが国家だった場合、どのような事が起こり得るのか。
ところで時々ご紹介しているように、1930年代の日本と言うのは大変景気が良かった。
そして、一般には満州事変→国際連盟脱退→国際的孤立→日中戦争
→軍部ファシズム暴走→太平洋戦争突入、と言う流れの中で
日本はとてつもなく内向きになっていった時代のように思われていますが、
実はさにあらず。1930年代は対外宣伝の時代なのです。
これは何でかと言うと、一つは国際連盟から脱退をせざるを得なかったような、
日本の立場が国際社会に受け入れられないという状況は諸外国の日本理解が足りないから、
あるいは敵対国の宣伝がより巧みだからである、という認識が政府内で高まったこと。
そこで、より積極的に日本の社会・文化を海外に紹介し、交流することで
日本への理解を深め、国際的な立場へのシンパシーを高めさせなくてはならない!
と言う訳で、文化交流事業と観光事業が国策として重視されるようになったこと。
もう一つはこれとも関係するのですが、観光が外貨獲得として政府から重視されたのみならず、
地方や経済界からも地域経済の振興手段として熱く期待されたこと、があります。
そして、それぞれのミッションに対応して設置された
外務省所轄の「(財)国際文化振興会」と鉄道省の「国際観光局」の二つの機関は、
日本の対外宣伝の手段として万博への出展や冊子の制作、
海外のメディアなどに貸し出すための写真ライブラリーの整備などを進めます。
そしてようやく職能人として自立し始めた写真家たちの多く(土門・木村・渡辺・堀野・等々)が
これらの仕事に係わることになりました。
つまり、国策宣伝はプロの写真家のクライアントとなって彼らの自立を助け、
更には職能の確立や写真表現を深化させる場としても機能した訳です。
国策宣伝といっても当初は文化交流を意図した高尚的なものでしたが、
時局の変化と共により直接的なプロパガンダ的な色彩が強くなり、
1940年の内閣情報局の設立により完全にプロパガンダ機関化してしまいます。
ここでの写真家達は「バスに乗り遅れるな」どころか、むしろ
積極的に「バスに乗り込んだ」ことで戦時中も大量の仕事を得ることになります。
特に名取の活動は軍と組んでブラック・プロパガンダとも言える領域まで手を伸ばし、
企業家としても大成功を収めた様にも見えます。
さて彼らが戦後にどのような宿題を抱えたか。
表面的には(他分野で行われたような)戦争責任問題の議論はされなかったようですが
だからこそ、個々人が抱えざるを得なかったものもまた、大きかったように感じられます。
技術を生かして誠実に仕事をする、それだけの事が、大きなうねりの中で
別の意味を持たざるを得ない時代の難しさを考えさせられます。
これはフォト・ルポルタージュの訳語として伊奈信男が使用したのが最初、
というのが一般的な説らしいですが、いずれにせよ名取洋之助の
ドイツからの帰国(1933)以降盛んに喧伝されるようになった言葉の様です。
さて、ここで言う「報道」とうい言葉の意味ですが、この時代「社会の事実を伝える」という意味から
だんだんと「ある種の思想・考えを表現・伝達する」という意味にシフトして行ったように見えます。
これは別に写真に限ったことではなく、当時の一般的な使用法なんですが(例えば「報道技術研究会」)、
今日的な感覚からすると、これは「報道」ではなく「宣伝」あるいは「プロパガンダ」ですね。
で、この「報道」のクライアントが国家だった場合、どのような事が起こり得るのか。
ところで時々ご紹介しているように、1930年代の日本と言うのは大変景気が良かった。
そして、一般には満州事変→国際連盟脱退→国際的孤立→日中戦争
→軍部ファシズム暴走→太平洋戦争突入、と言う流れの中で
日本はとてつもなく内向きになっていった時代のように思われていますが、
実はさにあらず。1930年代は対外宣伝の時代なのです。
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これは何でかと言うと、一つは国際連盟から脱退をせざるを得なかったような、
日本の立場が国際社会に受け入れられないという状況は諸外国の日本理解が足りないから、
あるいは敵対国の宣伝がより巧みだからである、という認識が政府内で高まったこと。
そこで、より積極的に日本の社会・文化を海外に紹介し、交流することで
日本への理解を深め、国際的な立場へのシンパシーを高めさせなくてはならない!
と言う訳で、文化交流事業と観光事業が国策として重視されるようになったこと。
もう一つはこれとも関係するのですが、観光が外貨獲得として政府から重視されたのみならず、
地方や経済界からも地域経済の振興手段として熱く期待されたこと、があります。
そして、それぞれのミッションに対応して設置された
外務省所轄の「(財)国際文化振興会」と鉄道省の「国際観光局」の二つの機関は、
日本の対外宣伝の手段として万博への出展や冊子の制作、
海外のメディアなどに貸し出すための写真ライブラリーの整備などを進めます。
そしてようやく職能人として自立し始めた写真家たちの多く(土門・木村・渡辺・堀野・等々)が
これらの仕事に係わることになりました。
つまり、国策宣伝はプロの写真家のクライアントとなって彼らの自立を助け、
更には職能の確立や写真表現を深化させる場としても機能した訳です。
国策宣伝といっても当初は文化交流を意図した高尚的なものでしたが、
時局の変化と共により直接的なプロパガンダ的な色彩が強くなり、
1940年の内閣情報局の設立により完全にプロパガンダ機関化してしまいます。
ここでの写真家達は「バスに乗り遅れるな」どころか、むしろ
積極的に「バスに乗り込んだ」ことで戦時中も大量の仕事を得ることになります。
特に名取の活動は軍と組んでブラック・プロパガンダとも言える領域まで手を伸ばし、
企業家としても大成功を収めた様にも見えます。
さて彼らが戦後にどのような宿題を抱えたか。
表面的には(他分野で行われたような)戦争責任問題の議論はされなかったようですが
だからこそ、個々人が抱えざるを得なかったものもまた、大きかったように感じられます。
技術を生かして誠実に仕事をする、それだけの事が、大きなうねりの中で
別の意味を持たざるを得ない時代の難しさを考えさせられます。
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