よだかの星彫刻碑
賢治は農学校の職をやめ、下根子桜(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに、
「本統の百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。
その賢治のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、
器楽合奏をしたりしました。この集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。
賢治は、農事講演や肥料相談のため、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。
賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたのです。
しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。
この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年賢治が「両側肺浸潤」の診断を受け、
豊沢の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりを告げました
羅須地人協会 入り口に掲げられた黒板
(この羅須地人協会は花巻農業高校の敷地内にあり 高校生が測量実習などをしていました。
「おはようございま~す」と元気な声をかけられました
花巻空港のすぐ側のため 飛行機の爆音が)
宮沢賢治の深遠な思想と、詩や童話、教育や農業などの理解は容易ではない。
宮沢賢治の生きた時代 明治29年~昭和8年は戦争が多く、地震や津波、凶作や不景気などで
不景気に悲しむ人が多かった。その中で妙法蓮華経に深い感銘を受けまことの精神を生きた人。
宮沢賢治は科学者であった。
宮沢賢治は 岩手県をイーハトヴといった。
そこは銀河の空間 四次元宇宙であり田園の風と光にみちあふれたドリームランであった
その不思議な楽しい国土から詩や童話としての心象スケッチが生まれた。
詩約800編 童話約100編 短歌約1000首 それに俳句 歌曲 教材用絵図 演劇
短編 絵画 花壇設計など。
宮沢賢治記念館入り口 賢司の世界
その時ふと後ろを見ますと 立派な一軒の西洋造りの家がありました。
そして玄関には 「注文の多い料理店 山猫軒」というふだがでていました。
東京から狩りに来た若い二人の紳士は、よろこんで硝子戸を押して中に入ると、
やれ、髪をきちんとしろの、靴の泥を落とせのと注文の多い事。
あげくは壷のの中のクリームを顔や手足にぬれときたもんだ。。。
宮沢賢治の多彩な才能には驚くばかり
知っている事の少なさにρ(。 。、 ) もう一度本を読んでみようと思う。