さてさて、本命の閉校式に臨みます。
人生初の閉校式参加に少しドキドキ
しますがな。
会場の体育館に入って最初に思ったこと・・・それは。。
天井の低さと電気・・・
さすがに古さを感じます。私が小学生の頃から変わってないワケですけー。
この式の前には卒業式もあったんでね。体育館の内部はかわいく、飾りつけされています。
しかも全学年分。
全校で150名っていったかしら・・あたしたちの時代は1学年でそれくらいおったもんね。そう思うと人数は激減してる・・と実感する。
体育館の後方に、校章が・・
これがここに掲げれていたという記憶は私にはない
でも、この校章はスキやった。校章にスキもキライもないんやけど、漢字で鍋と入ってる、分かりやすい校章だと、小学生の頃から思っておりましたけー。
やっぱり卒業生からの贈り物のようですね。ステキな木で組み合わされたような。。
1番はソラで歌えるけど、2番は覚えてないんよなぁ。助かるし・・今日は校歌を歌いに来たようなもんじゃー。
ボチボチ出席者の人たちも座り始めました。まだ階段で、卒業写真をやんやと見てる人も多いと思います。
結局この席がほぼ、イッパイになるくらいの参列者がおりました。(まだ左側にも席はあるんよ。)
ささ、急いで写真を撮っておこ。
この体育館は今、思えば側面の回りに通路がありません。(それだけ古いってことかの。)とってつけたようなライトの場所。高学年のおにいちゃんたちがはしごで上がる姿が、なんだかステキで、ああいうのしてみたい・・
と低学年ながらに思ったものです。
そして、この体育館は2階だというのに、その窓の向こうにはまだ家が見える。。
あんまし、普通の体育館から見られる光景ではないかと。。
ささ、式典が始まりました。
呉市歌を生で初めて聴きました。今年から歌うことになったんよね。
家でも娘は吹奏楽で演奏するし、息子は歌う機会があってと、、何回も歌ってはくれましたが、こんな大勢の市歌は初めてです。
この後、校長先生のお話がありましたがこのお話がとても印象的でした。校長先生自身が鍋小の出身で、わが子もこの学校の卒業生らしい。
鍋小に去年の春に赴任してきて、休み時間に校庭で遊ぶ子ども達は桜が舞い散る中で遊んでたと。
桜段から舞い上がる桜。
学校から見える青い海。
こんなステキな学校は全国探せどそうそう、ないと・・・
そういう話でした。情景が思い浮かぶようなお話に、もう、涙がちょちょぎれてしまった私・・鼻をズルズルいわすにはちと早かったのぉぉ。
子ども達が歌った学校坂道という歌。
さっき歩いてあがってきた『おはようの坂道』を歌にしたものでした。
特に、3番に感動しました。
3番だけは本校4年生が考えた詩です。と書き添えられていました。
校歌に通じる歌詞に、またまた涙が出てしまった。そして、子ども達の純粋な歌声が胸に突き刺さりました。
あー、哀しい・・・何故に今、ここに私がいるのか、こういう場面に遭遇してるのか、そう考えるだけで哀しい・・
やっぱり母校が無くなるのって想像以上に寂しいもんなんだ・・・と実感しました。
校歌斉唱。
今回の最大目的は、校歌をみんなで歌うこと。
30年以上こうやって歌うことはなかったんだもの。(鼻歌で口ずさむことはあるけど)
1番はソラで歌えます。なので、今回は1番のみを動画で撮ってみました。
2番3番は歌詞を見ながら歌おうと、試みましたが、ムリでした。
涙が勝ってしまった。。。
私の前に座っていた女性も、しきりにハンカチで目を覆ってましたから、校歌がもたらす影響はやっぱり大きいもんなんだなぁ。と感じた一幕でした。
閉校式もそうそうに終わり、卒業生をお見送りする場面になりましたが、ごめんね。私はまだそういう気にもなれず、、またアルバムの部屋へヒトリ舞い戻って色んな年代のアルバムとにらめっこ・・・
ひとつ、気になってたことがあったんです。
私が入学した時にあった1~2年生の校舎は茶色の屋根の木造校舎。
これがいつ今の鉄筋校舎に建てかわったのか、、、私の思い出の校舎はいつ壊されたのか、、気になっておりましてん。
各、年代ごとをめくりながら、、見つけました。。
1985年に建てかわったようです。
1984年までは上記の木造校舎が卒業アルバムに載ってました。
あーっ、ホッとした。このアングルの写真はこの学校ではハズせないものですけー、絶対アルバムには載ると思うとったとです。
この疑問点をクリアしたなら、私の任務は全て遂行です。
帰り支度をして外に出てみることに。。 ふと、うわ道路をみると見つけました。ペコリさん一家。ご子息も一緒のようです。
何故にこちらに帰ってきとるのか・・
もう1つ、外で思い出深い場所があったのでね。そちらに行ってみることに。
この水のみ場は当時のままです。
不思議に思うのは、この左側部分、水が管からシャワーのように出るようになってたハス゜。確かに出てるのもみたことも記憶にあり。でも、なんのタメ今となっては思うのでございます。
足を洗う・・・何故?プールの中にあるならわかるけど。
裏手の坂をあがると、 懐かしい門に到達します。ここは、私が通っていた鍋保育跡。
今では駐車場になっておりました。ここに木造の2階建ての超ボロっちい園舎が建っておりました。
大好きだった堀田先生がいた幼稚園です。この先生に出会って私は保育士に憧れておりました。結局、なることはなかったけど。。。
私が見たかった場所。
それはこの坂道。運動会になると、ここに全校生徒が並び、この坂を下りて行進します。先頭は、トランペットの鼓笛隊。(正確には笛はないのぉ。。)高学年が吹く、トランペットがそれはそれは、カッコよくて憧れた~早く、トランペットが吹きたい・・・そう思った原点。結局4年生で引越しとなったので、トランペットを触ることなく去ってしまったわけですが、この時の想いが中学のクラブ選び=トランペットを吹きたいに通じたように思えます。
先頭に金色の玉がついた指揮棒のでっかいのを持って斜めに振る人がいて、この時初めて、ベルリラというものを見た。俗にいう鉄琴が立ってるやつ。あれはスゴかったよねぇ。憧れ~の的でしたわ。
坂から全景を撮って帰ろうとふと、見ると、デコさん、、、同窓会してるし。。
ホンマ、今日したかったことは全部したわ~と満足で、学校を跡にするとこにします。来るときは正門から入ったので、帰りは裏門からひっそりと、、、思い出の桜段を通ってかえることにします。
裏門です。
はっ、ひょっとして、こっちが正門と今更ながら思う・・・
この階段です。
3年生の自転車教室の時は、この坂をあがらないと、、学校にチャリは運び込めませんでした
今、思い出しました。朝来た道には階段がありすぎです。
おぉぉ懐かしい桜段です
もっと、昔は段々がはっきりしてたような、気がするけど、桜たちは元気でなにより。
1本だけ、しだれ桜のような花が咲いておりました。
キレイでしたよぉ
桜段からは、私が朝とおってきた道が丸見えです。花を抱えた卒業生、在校生が下校する姿が見えます。
はっ、今思った。この学校は全校生徒で卒業式なんよね。
ウチの子ども達が通う学校は5年生しか在校生は出ないわ。。人数の多さからかしら。 そうそう、ここよ。昔から思ってた。この道をよく、走って通り抜けてたけど、この部分だけ止まらないと通れない。。
なんせ、サクラが優先で道が2番目の場所なんだもの。健在でうれしい
さて、私もゆっくり通らねば・・・足腰があの当時より弱ってますからねぃ。
桜段から、朝来た道に戻ります。
こういう姿もあと数日で見られなくなると思うと、、寂しい。
ブラブラきままに歩きながら、車をとめた公民館までかえります。
この木材屋さんの倉庫。
昔ねぇ、よく遊んだのよ。
雨が降ると、どこにも行けんのさ。ここは屋根があるからねぇ。木材の隙間に1番のトモダチだったみかちゃん(ちょんこらりんの妹)とよくはいって、話をしたもんだわよ。
今、思えば、危ない場所だったのかもしれないけど、この近くを通ったときの木の香りは今でも私のタイセツなふるさとの匂いなんよねぇ。
これで午前の部はおしまい。
今回、ホンマ閉校式に参加して、よかった。
私てきには、自分のルーツを見つめ直すいい機会になったと思う。
こんなに母校をスキだった自分が、、こんなにこの土地を愛していた自分が、、
そしてその理由に、なんのしがらみもない自分が子どもで不安もなく親や家族に護られていた1番幸せだった時代をこの土地で過ごしたから、今でもこの土地は私にとって特別な場所で、美化されたままなんだと思う。
すべてにおいて、鍋は私のタイセツなふるさとであり、楽しい思い出しか思い出されない特別な場所。
町は変わり行くけど、私の脳裏にしっかと残ってる当時の町並みと、あのときのトモダチと、町の匂いは一生忘れることがないんだな・・・と確信できたひとときでした。
この小さな町。
いつまでも私のタイセツな宝物になりそうです。
追記
お土産にもらった(数に限りがあったらしい。)
シロモノ。。134年間ありがとう。という気持ちなのかしら。。
中身は紅白のしかも、校章が焼き印されたまんじゅうでした。
校章入りだなんて、嬉しいじゃないの。。。
おかし処『つくし』さんのものでした。つくしさんの店主自体がこの小学校の出身ですしねぃ。
子どもさんも4人か5人くらいおってか、、もしかしたら在校生におってかもしれません。こういう心遣いがうれしかったですねぃ。
おいしくいただきました。こころしていただきました。
ごちそうさまでした。
もう1つのおみやげ。 下敷きでした。校歌と一文字が入った、、
あぁぁぁ、ホントに終わってしまうのね。。なんか寂しい・・・