遅れをとった時事的な話になるが、9月1日にネットを接続して見てみると、こんな話があった。
「宿題代行サービス」
出所:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070901-00000917-san-soci
世の中は進歩しているとは言え、こんなサービスが存在しているのは本当に驚きである。
以前、あれはNHKの『クローズアップ現代』だったか、単なるニュース番組の1コーナーだったかは忘れたが、「体育の家庭教師」というサービスも世には存在しているという事を知り、驚いた事がある。「体育」なんて、「家庭教師」が必要な科目ではないと言う考えがあったので、何ゆえ?という所である。
ポータブルゲーム等のゲーム機等の発達により、「運動遊び離れ」が増えているという理由から、立ち上がった様な話がその番組であったような気がする。けれど、「体育」というと、私は男の癖に、その科目が嫌いなで苦手な人間であることは以前話した通りであるが、「苦手な人のが少ない」科目だと思うし、男の子(差別的な表現をお許し頂きたい)なら「体育」バリバリオッケーという諸氏のが多いし、「野球」だの「サッカー」だのするのもやるのも「大好き」という筈なのに。
そして、次に驚いたのが、この「宿題代行サービス」である。
自由研究に読書感想文まで、面倒を見てもらえるシステムの様で、料金も前者が5万円、後者が2万円という事で、結構高額ではある。読書感想文は、そのまま流用するのは禁止されているそうだが、「そのまま」が横行しているそうで…。読書感想文は、読めば何とかなる面があるが(最悪、本当に困ったときは、〝あとがき〟とか〝解説〟なんかを参考にすると出来上がるかもしれない)「自由研究」はなかなか難しいのかな…と思う。ネットが普及している世の中なので、「ネタ探し」は案外出来るかも知れないが、「図画・工作」という分類になると、得て不得手が出てくるので、5万円でどうにかなるなら…という気持ちになるかも知れない。
算数の文章問題は1問数百円(600円だったか?)で解いてもらえるそうだが、これも、学年を経る毎に難しくなってくるので、ある意味、ありがたいサービスかも知れない。「文章問題だけ白紙解答」(それ以外が出来て入れば、とりあえず〝提出〟とは認められるかもしれないが。評価は最悪だろうが)という訳にも行かないので、少しだけなら使ってもいいのかな…と思ったりもするが…。算数は、幾らでも「難易度調整が可能」なので、本当に解けないって場合は致し方ないのかな…と思ってみたり。
当然、この話では、教育の専門家からは批判の嵐のようだが、学生諸氏直々ではなく、親御諸氏からの依頼が多いそうで、これも「何故?」という所ではある。案外、親御諸氏がインターネットで「宿題」って調べたら出たのかも知れないが…。
算数の話が出てきたが、高校の時の数学の宿題で参考書にある解答付の例題を解けというのがあった。その時、どうしても解けなくて「解放不明な為、解答を写します」と一言断り書きを入れて、1~2題そんな風にして提出した覚えがあるが、教員側から特にお咎めを食った事は無かったのが不思議だった。
夏休みの宿題って何故にあるんだろう?と未だにあまり明確な自分なりの答えが出せていない上に、周囲で、「夏休みの宿題やべー」という話を聞いた経験は、無く、それなりに学生時代の周囲の諸氏達はやっていたようである。高校まで行くと、「出さなくてもオッケー」という雰囲気すらあったような気がする。おそらく2学期の成績に響いて居たんだろうな…と思う。殊、高校2年だったと思うが、数学科の担当教諭が「夏休みの宿題は遅れてもいいから必ず提出して下さい」と訴えていたのが印象的である。「赤点対策」として、評価の対象とする…という事だった。それで、2週間位だっただろうか?本当に遅れて提出した人物が1人居たような…。勿論、それが「私というオチはない」けれど…。
サービスの多様化も、善悪は別として、ここまで「木目細かい」ものが出てくるのは本当に驚きを隠せない。よくぞ、目をつけた!という感じではある。
「卒論、代行サービス」なるものも存在するような話もある。
よっぽど「学習評価」を気にしない限り、夏休みの宿題は、「提出する」事が「大前提」で、おそらく「白紙解答で出される」ようなものは出されないと祈らざるを得ない。ましてや算数なんて、「出来た問題だけ」解答して出すのも1つの手ではあると思うし、どうしても「全問正解」を望むのであれば、夏休みに学校に乗り込んで言って、「この問題解けないのですが、お教え頂けないか」と「直接担当教諭の所に行く」のも1つの手ではあると思う。小学校であれば、担任教諭も1日位は学校に「日直」か何かで出て来られるだろうし、それでなくとも色々と仕事があるようなので、毎日学校にいらしている場合もあるだろうから、登校するのも1つの手ではあろう。
あとは、とっとと「片付ける」って言うのが「基本」ではあるが、「教科書通りに行かないのが世の常」なので、なかなか難しい所ではあると思うが、本当に世の中、多様なサービスがあるんだなぁ…と思うばかりである。
「あなたにとってブログとは何ですか?」
という問いかけに、自分ならどう答えるだろうか?いやどう答えたら良いのだろうか?何となく興味を持った。この問いかけは、「トラックバック練習板」http://blog.goo.ne.jp/themesalon/e/973a4e2d75fb25587dea47f7e68b6e40
にてあった。
自分にとってブログとは何か?
意識した事は、この話が出るまで考えた事は無かった。
そもそも何故に、自分は、ブログという物を始めたのか?という所から考えるべきではないか?と思い、考えてみる。
「勢い」が7割、「時間の有効活用」が2割、「あわよくば、ブログを通しての交流をしたい」が1割…そんな所だと思う。たまたま、このサイトのリンク先である管理人様が、ブログを始めたので、では自分もやってみよう…という事になった。しかし、ただやるだけでは少し無理がありそうなので、地元の書店で、この「gooのブログ」の作り方を示した、田口和裕&できるシリーズ編集部 著 『できるブログ gooブログ対応 改訂版』 (株式会社インプレスジャパン 2006年)を見つけ、制作に至った。
とは言え、何を書いたら良いか…ははっきり言って解らなかった。参考書として買った本には、「日記はどうか?」という事があった。そう言えば、「深夜アニメ」が好きで、観ている。その感想を書けば、とりあえずは続きそうだと思った。同時に、これまで、「エッセイ」風な駄文も書いてきたので、そこから発表するのも良いではないか?プラスアルファ的に、好きな電車やバスと言った話をするのも良い…と思いつき、「行動」に走った結果が今にあると思う。
気がつくと、「深夜アニメ」の話や「電車系」の話はさして多くなく、「エッセイ」兼「日記」的な文を大量に発表する事になっているのは、ある意味、想定外の話ではある。
日常の一部に、ブログへの文章執筆という物が組み込まれた訳だが、私にとってブログは、「自己を表現する場」と化している。もともと「表現する」という英語、“Express”という言葉を、以前話したかつての友人と組んだユニット名で起用した時から、興味がある言葉だった。“Express”は、鉄道ヲタクの私からすれば、「急行」と言う意味が強かったので、それ以外の意味を持つ事を知った時は、驚きを隠せなかったのは言うまでも無い。
「自己を表現する」とは言え、毎度、毎度、まとまりがないというかつかみ所のない、「長駄文」を書き綴る事になっている。本当に意味があって、伝えたい事が沢山あるという訳でも無いのに、「あれもこれも」話そうとすると自然に文章は長くなる。ネタに詰まった時は、短くしか出来ないがそれでも、なんか書こうというする想いは常に強いと思う。しかし、それを形にすると、なんとも醜いものと化すのは言うまでも無い。
一方で、
「自己の思想を表現してみることは、所詮弁解にすぎない」
(三田 誠広 著 『いちご同盟』 河出文庫 1997年 84ページより引用)
という言葉がある。これは、どうやらその本の作者ではなく、原口銃三 著『青春のエチュード』という書物のあったような事が、『いちご同盟』84ページには書いてある。
弁解、私にとっては、非常に耳の痛い言葉である。
過去の人生で、「弁解するな」、「お前の言っている事は、言い訳だ」、「あなたの言ってる事は、みんな言い訳で、前にすすまないではないか」という3つの異なる人間から発せられた言葉が胸の奥でずっとうずいている。
「弁解をする」、「言い訳をする」…という辺りからは、悪い意味しか出てこないが、「どうやっても、自分には認められない、解らないものがある」という事で、「どうか私の言い分も聞いて欲しい。解って欲しい」という事が強いと言う事を、言いたいのだが、そんな事を言うあたり、私もかなり追い詰められているんだろう…と思う。
それはさておき、昨今はネタ切れになって来て、毎日、何を書こうかと悩む日々である。自分の日常と言う「生々しい」ものを表現するのは、どうしても抵抗があるので、「思想」(言葉で言える程立派なものはないが)的な話を書いてしまう。そうであるのなら、「初めっからやらなきゃ良いのに」という声が、背中に突き刺さる。
「何を証明しようとしているんだ 誰に証明しようとしているんだ」(篠原美也子 『逆光』 2006年 より引用)
別に、これといった明確な物を誰かに伝えたり、思いを形にしてその訳を語りたい訳でないないけれど、一度、走ってしまった、形にしてしまい動き出したのものは、止まれはしても、その足跡は消す事は出来ない。後も先も考えぬままに始め走り出したその軌跡の1つが、この「ブログ」でもある。
その時点のその場で思ったこと、感じた事を形して、足跡を残すものの1つが、この「ブログ」である。そこに「表現する」というものがあると思う。
所詮はその瞬間の愚かな事だとは思うが、
「しかしもはや時代も、世界も、自分自身についてでさえも、どこへ行くのか断言出来る人はいません。遠くを見渡せる賢さも大切だけれど、今こそ刹那の愚かさが強さです」
( TOKYO HYAKKA OMUNIBUS ALBUM Vol.1 『百歌集 ~色は匂へど散りぬるを~』Infinity Records 2002年リリース の歌詞カードより引用)
とある様に、ある意味やってみないと何事も解らない…という事の様なので、行き着くところまで行ってみたい。たとえ、その終点がすぐ目の前にあったとしても、終点と言う壁を蹴破れる限りに進んでいきたい。そこに多くの「愚かさ」や「恥ずかしさ」を残そうとも…。