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やはり赤い電車は、速い...

2007年09月22日 17時05分57秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 横浜に着いたが、ストレイトには帰りたくはないので、遠い廻りを…。 それにしても、赤い電車、本当に「速い」。

「そこのけ、そこのけ、快特様のお通りだ!」

 と言わんばかりの120KM/H運転は、東京地区の暴れ馬と言っても過言でない。
  608編成は、多分、2回目な気がする。記憶が確かなら、前回乗ったのは、上野でリンク先のつよんじゅん様達とオフをした時、ネタ的に、京成線→都営線→京浜急行線(最終の特急三浦海岸行き)廻りで帰った時に乗ったような…。
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トンネルの向こうへ

2007年09月22日 16時12分48秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 さすがに、泉岳寺に着くと、種別と行き先が出て来た車内の案内表示機。
 南行SH特乗るのどれくらいぶりだろうか?
 西日が美しい@品川
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何か虚しいぞ!車内の次駅案内機

2007年09月22日 16時00分56秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 それにしても、京急600形の車内の次駅・乗り換え案内機、虚しい。何で浅草線内では、行き先も出なければ、列車種別も出ない。それはまだしも、乗り換え線の案内が出ないのは問題ありまくりではないかと、小1時間…略…と2CH表現をしてもしょうがないが、マジに、次駅名とその英語案内しかでない。しかも、英語案内では、“A-1”というようなのもでない。どーなってるんだ?不親切この上なくないか?自社線内じゃばっちり色々でるのに… @宝町
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意味なく乗るか、赤い電車608-1 編成

2007年09月22日 15時46分39秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 もう自棄になったので、京成線の青砥から、ロングシートに改造された京急600形の第8編成で、横浜まで乗り通す事にした。一応、先頭の展望席に座るが、遮光幕が降りているので、まったりと、トンネルの向こうの品川まで行く前に買った漫画本でも読んで過ごす。
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Mind Feeling0922-2 「無責任な言葉に思う」

2007年09月22日 12時16分26秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
 こんな事すら言葉にしなければならないほど、自分の心すさみ具合や歪み具合を露呈する事になることをお許し頂きたい。
  よく耳にする、

「頑張れ」

「元気出せ」

「考えろ」

 という言葉。これを「相手の状況をかえりみずに使われる事がある。取り立てて言う必要ももはやないが、3つは「無責任な言葉である事の認識が足らないと思う。
  この現代、「誰もが何らかの形で自分の事で精一杯に生きている」ものだと思う。それは「苦境を越えてでも生きていこう」とする姿勢が現れていて、素晴らしい事だと思う。けれど、「終わりの無い苦境」を越え続けるのは、どうあっても不可能なのだ。
 いくら「考えても答えが出ないのだ。だから、問うている」のだ。 「頑張り」も「元気」も「枯れて果てている」状況の中で「苦境反発する強い意志がある場合は除いて」だが、2つの言葉は、単なる「キレイゴト」でしかなく、かえって「マイナスを生む」だけだと思う。その事の認識がどれだけされているのだろうか?
  「自分の事で手一杯」となると、「他人なんてどうでもよい」となる。それはごく当然な話であるし、どうにも出来ないのもまた事実である。だからだろうか、「無責任感丸だし」のあの3つの言葉が出てくるんだと思う。「私だって考えているんだ。手一杯なんだ」と言って突き放す。全くもって「意味をなさない」のだ。
  先日も、溢れすぎて意味を無くした言葉について話たが、こんな言葉を口にしなければならない問題を解決をはかる方法は解らないままだ。何が悪いと特定出来ないから「個人が悪くなる」。考えても答えなんて出ないから、考えない事を選ぶ。考えさせる事をさせる。 今1つだけ、自分が出来そうな事は、

常に相手を傷つけない言葉や言い回しをする

むやみやたらと〝頑張れ〟や〝元気だせ〟それに〝考えろ〟という言い方をしないようにする

「〝考えろ〟は、〝自分の思う方向性を明確に〟示し、〝解らない時は、はっきり解らないと言う〟。さも〝知っている振りや言い回しをしない〟事

 という事くらいしかなさそうだ。
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Mind Feeling 0922-1 人間変化と性格変化について

2007年09月22日 11時38分04秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

   あれは、『学校の怪談』の小説だっただろうか?1人の学生が出血を伴う自殺をして、その血痕の色が消えず、ペンキを塗ってもまた血の色が滲み出てくる…という話。そして、もう1つ、これも確か、絶命の際に大量出血をした人物が埋められたと語り継がれる場所に、白梅を植えても、紅梅になってしまうと言う話。
 
 この話を「真」とした時、「根底にある物を解決せず、偽りや場当たり的なものでは、無駄だ」と言う事だと思う。 人間の性格も、また、この様に変わりにくい物だと思うし、いくら「演じる」にしても、無理は出てくると思う。
 急激とも言える変化を求める時代、性格さえも変えなければ、生きてはいけない状況も時としてあるようだ。だか、要求する見えない誰かに問いたい。

「あなたは、簡単に、価値観やら経験則やらある複雑な物がはらむ性格という物を変えること出来ますか?」

    学生時代最後の上級学校への受験を迎えた時、やはり、私は「変化」を要求された事があるが出来なかった事がある。先述の怪談話じゃないが、長く染み付いた「自分自身」を付け焼き刃的に、基ある自分にカバーや別な色を塗っても根底にある自分自身が、滲み出て来てしまうのだ。
  それも悔しいというか、苛立ちを覚えたが、1番苛立ったのは、周囲にいた人間達だった。単なる嫉みや恨みだとは思うが、そいつらは、ある意味「不真面目」とも言える「ちゃらんぽらんさ」が剥き出しな奴らだった。そんな奴らが、時がいきなり「変化出来る」のが、どうしても許せなかったし、理解も出来なかった。有り得ないと思ったし、何より「ズルイ」と思った。
  そんな「周囲」から、私は離脱せざるを得ない状況に追い込まれるのだが、未だに、私は首を傾げざるを得ないし、恨みつらみは消えないままである。

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