何とか病癒えて小倉に戻っても、夫、宇内との間の問題が解決したわけではなく、心が塞ぎいつも身構えている様な暮らしの中で、9月に久女は江津湖畔に住んでいる斎藤破魔子(後の中村汀女)を訪ねることを思い立ちました。
中村汀女はふとしたことで作句する様になり、九州日日新聞俳句欄に投句すると選者の三浦十八公に褒められ俳句に関心を持つようになりました。そして『ホトトギス』の雑詠欄に大正9年12月に
「身かはせば 色変わる鯉や 秋の水」
など4句が載りました。
中村汀女が書いたものによると、彼女は『ホトトギス』誌上で久女を知り、ファンレターを出す様になりました。その時、久女から来た返事の能筆さには驚いたそうです。久女の長女の昌子さんが出版された遺墨集『杉田久女遺墨』を私は手元に持っていますが、それを見ても書家ともいえる程の久女の能筆ぶりには、驚かされます。
久女が次女光子を連れて汀女の家を訪問した時、汀女は12月に結婚を控えた22歳、久女は31歳でした。
勧められるままに3、4日滞在し、汀女が棹さして江津湖に船を出したり、句友が来て句会をしたり、夜は一緒の蚊帳の中で語り合ったりしたらしく、久女はその思い出を昭和4年の随筆『阿蘇の噴煙を遠く眺めて』の中で懐かしく綴っています。
結婚後も汀女は久女を「お姉さま」と慕って文通が続いていたようで、久女が俳誌『花衣』を出した時には、彼女に投句する様に誘い、その後しばらくして高浜虚子に汀女を紹介しています。又、汀女の夫に長女昌子さんの就職の世話を頼んだりと二人の交流はその後も続きました。
大正11年に久女は「江津湖の日」と題して、
「藻の花に 自ら渡す 水馴棹」
「藻を刈ると 舳に立ちて 映りをり」
「おのづから 流るる水葱の 月明かり」
を発表しています。
久女が作句を励ました中村汀女は、その後文化功労章を受章し、昭和俳檀を代表する俳人に大成したのです。
<中村汀女 1900‐1988>