大正10(1921)年に病がどうにか癒えて小倉に戻って来てから大正14、15年頃までの久女は、『ホトトギス』に投句し雑詠欄に時々載ったりはしているものの、夫との齟齬、俳句と家庭の相克に苦しんでいた彼女にとって長い低迷時代でした。
大正11(1923)年の櫓山荘句会の後、橋本多佳子に俳句の手ほどきをしていましたが、教会にも通い俳句漬けのそれまでと較べると、俳句にさく時間はそれほど多くはなかったようです。
久女から俳句の手ほどきを受けるようになったこの頃の事を、後に多佳子は「久女のこと」という文章で次の様に振り返っています。〈山荘でぽつんと友もなく暮らしていた私は久女を得て賑やかになり、週に2、3度も通って来られる久女に句を作らされ、画を描かされた〉と。
久女にとっても筋の良い多佳子に俳句の指導をするのは、楽しみだったに違いありません。多佳子は手応えのある女性で俳句に関してもしっかり受け止め、天与の才能の片りんをこの時すでに示したようです。
久女にはそれが分かり、多佳子の俳句の進歩を楽しみにしていました。この頃の多佳子の作として
「すいすいと 小魚のかげや 冷やし瓜」
「ぬぎすてし 衣にとび来し 青蛾かな」
などがあります。しかしこの頃の多佳子にとって、俳句は幾つかのおけいこごとの一つでしかなかったので、久女の意気込みに辟易したようで、久女の熱意はあまり理解されなかった様に思えます。
がしかし、久女が作句を励ました二人の女性、橋本多佳子と前述の中村汀女は、後に昭和俳檀を代表する俳人に成長するのです。
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