1年にわたる病気療養をどうにか終えて小倉に帰って来ても、状況は何も変わらない中、少しでも気持ちが楽になるように、教会に通ったり熊本に斎藤破魔子(後の中村汀女)を尋ねたりしているうちに、久女を俳句に引きもどすきっかけになった、高浜虚子の小倉来遊がありました。
久女は虚子から西海道旅行の帰途、小倉に寄りたいという手紙をもらい、前述の自分をクリスチャンに導いてくれた医師であり俳友の太田柳琴に相談しました。柳琴はそこの子供達が自分の患者の、小倉中原の見晴のいい場所にある橋本豊次郎邸、櫓山荘を借りて句会を開かせてもらったらどうか、と考えました。
そして、その後の柳琴の尽力で、大正11(1922)年3月25日にそこで、櫓山荘句会が開かれることになりました。
櫓山荘はかって小笠原藩の玄海防衛の為の櫓があった所にあり、彦島やその他の島まで望める眺望が素晴しい凝った造りの建物だったようです。
櫓山荘句会の参加者は太田柳琴、曽田公孫樹、久女、峰青嵐、永見凡城、それに虚子などで、場所を提供した橋本豊次郎とその妻(後の多佳子)は、句会中はそばで眺めているだけでした。
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