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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~久女と白蓮事件~ (20)

2015年09月17日 | 俳人杉田久女(考)

久女の長女昌子さんは著書の中で、(19)で掲載の「冬服や」の句が『ホトトギス』に発表された時、父、宇内は怒り狂ったと書いておられます。

だからでしょうか、これ以後夫を素材にした句は殆ど見られないようです。自分の事を何かにつけて句にされると思うと、宇内は我慢ならなかったのでしょう。

これらの句が発表される4か月程前の大正10(1921)年10月に、久女の住む小倉に近い所で、炭鉱王伊藤伝右衛門に嫁いだ柳原白蓮が7歳年下の一介の書生に奔る、いわゆる「白蓮事件」が起きています。

この事件について久女は何一つ書いたものを残していない様ですが、新聞でセンセーショナルに取り上げられたので、この事件を知っていたと思われます。

夫と、また俳句と家庭の相克に苦しんでいた久女が、この事件にどのような感慨を持ったかを知りたい気がするのは私だけではないでしょう。

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俳人杉田久女(考) ~「足袋つぐや...」の句~ (19) 

2015年09月15日 | 俳人杉田久女(考)

大正10年発表の句は少ないですが、11年からは僅かづつ句数が増えていったようです。大正11(1922)年『ホトトギス』2月号に下の3句を含む5句が載りました。

      「足袋つぐや ノラともならず 教師妻」

      「戯曲よむ 冬夜の食器 浸けしまま」

      「冬服や 辞令を祀る 良教師」


最初の「足袋つぐや…」の句は、腎臓病を発病し実家で約一年入院治療したのを機に離婚話が起きましたが、久女は二人の子供のために夫との離婚を断念しました。この句はその時の悲哀を詠んだもので、
久女の悶々とした思いを表す句として、その後度々引き合いに出される句です。

私はこの句に久女の率直さや無防備さを感じ、何となく彼女を痛ましくさえ思ってしまいます。どうも久女の
必要以上の率直さは、彼女のさがというか宿命の様に思えてなりません。

「戯曲よむ…」の戯曲はおそらくイプセンの『人形の家』のことでしょう。自我に目覚めそれまでのしがらみを越えて、家と夫を捨てるノラに久女は共感を寄せただろうと思われます。が、反面それは同じような問題に苦しんでいる自分を見つめることにもなったでしょう。

私も食後の後片付けを放り出して本を読みふけることがあるので、この句を見た時「まぁ、久女も私と同じことしてる!」「私のことを詠んでくれたんだ」と嬉しかったのを告白しなければなりません(^-^)

「冬服や...」の句は、おそらく受けた辞令を夫、宇内は神棚に上げたのでしょう。それを見る久女の目は冷ややかです。”良”の使い方に久女の皮肉が込められている気がします。


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「肉筆浮世絵の世界」展

2015年09月11日 | お出かけ

福岡市立美術館で催されている「肉筆浮世絵の世界」展に友人と行って来ました。


浮世絵というと、写楽の役者絵、歌麿の美人画、広重の風景画など、多色摺りの木版画である「錦絵」を思い浮かべますが、浮世絵の世界は、実はそれだけではないのだそうで、「肉筆浮世絵」という分野があるようです。

浮世絵師の多くは、筆で描いた肉筆画、つまり「肉筆浮世絵」も描いていました。彫師、摺師との共同作業を経て完成する「錦絵」と異なり、「肉筆浮世絵」は最後の一筆まで浮世絵師が完成させる一点ものの絵画で、大変貴重なもののようです。

なので、大名や豪商から注文を受けて描かれることも多かったようで、葛飾北斎 喜多川歌麿、
菱川師宣等が描く肉筆浮世絵の
美人画は見ごたえ十分です。特に着物の柄まで細かく描き込んであるのがすごい。「錦絵」だとここまでは描写できないでしょうね。

この展覧会のリーフレットにもなっている葛飾北斎の美人画、《夏の朝》は、流れる様な着物の線に、百済観音像を思い起こしてしまいました(^-^)

懐月堂安度の《立美人図》は《夏の朝》とは対照的な体形の女性を描いていて、これもいいですね~。白地柄の着物もなかなかステキです。

今回の催しの目玉というか、初公開の喜多川歌麿の《花魁図》は不思議な絵でした。粋人の遊びの場で即興で描かれたものらしいですが、モノクロで描かれていて、正面を見ている花魁の顔に妙にリアリティがあるんですよ。花魁を正面から描いてあるのも珍しいですね。写真に撮れないのが残念ですが...。

大人だけが入れる春画コーナーもありました。勿論入りましたよ。春画って小さいものと思っていましたが、等身大のものがありびっくりしました。どこに飾るんでしょう?

今回の展覧会は人気絵師の「肉筆浮世絵」で、一点ものの貴重品だからでしょうか、どの絵も素晴らしく豪華な表装がなされていたのが、印象的でした。



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俳人杉田久女(考) ~『杉田久女遺墨』~ (18) 

2015年09月09日 | 俳人杉田久女(考)

前回の記事(17)で少しふれた本、『杉田久女遺墨』について書いてみたいと思います。


小倉には〈久女伝説〉などという、おかしな噂話が伝わっている久女ですが、彼女の長女、石昌子さんは〈その様ないわれのない虚像ではなく、久女を正しく知ってほしい、また生きる力を俳句から掘り起こした久女の姿を知ってほしいとの思いから、遺墨を集め出版することにした〉と
あとがきで本書出版の目的を述べておられます。

載っている遺墨は短冊、色紙、扇子、団扇などに揮毫したもの、絵、句稿、植物昆虫などの筆写、源氏物語の筆写、手紙、はがき等で、よくこれだけの数を集めることが出来たな~と感心するほどです。

1ページ目には、赤地に金泥の美しい短冊にほとばしる様な、流れる様な美しい字で花衣の句、その横には薄茶に金泥の短冊に繊細な筆使いで宇佐神宮にお参りした時の句、の二葉の短冊が載っていて、これらを見ていると居住まいを正し机に向かっている、久女の姿が立ちのぼってくるような気がします。



平成23年秋に北九州市立文学館で催された「花衣 俳人杉田久女」展で同じ様な短冊を見ましたが、どれも長い年月を経ているのに、古びた感じはなく、今書いたばかりの様に見えたのには驚きました。
随筆「吾が趣味」の中で〈手漉きの良い和紙に字を認めるのが好き〉と書いている久女ですから、おそらく最高の和紙の短冊と筆墨を使っているのでしょう。

〈久女伝説〉として、〈久女は書道でも、先生に朱筆を入れさせず、私は私の字を見せに来ただけですと言って、皆と同じようには習わなかった〉などというおかしな話を読んだことがあります。長女昌子さんは、この遺墨集の最後に「久女記」というかなり長い文章を載せておられますが、その話に言及した部分があるのを興味深く読みました。

それによると、久女の書道の先生は小倉師範で教えておられ、当時この分野でただ一人の文学博士であった石橋犀水という先生だったそうです。その先生から、久女は字の基礎がある程度出来上がっているという事で、皆とは別の、特別の法帖を与えられていたので、そんな妙な〈久女伝説〉が生まれたのでしょうと書いておられます。
                  

小倉に住んでいた12、3年前、魚町の古書店に『杉田久女遺墨』が出ているのを見つけました。昭和55年の出版時に定価4800円の本が、この時20,000円の値がついていました。高いので、買おうかどうしようかと迷ってその店を出て、別の買い物をした後、「買おう」と決めて古書店に行ってみると、売れてしまっていました。タッチの差で買えなくて呆然としたのを今でも思い出します。今、私の手元にあるのは、その後ネット上の古書店サイトに同じような値段で出ていたのを買い求めたものです。この本は今、私の宝物になっています。

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俳人杉田久女(考) ~中村汀女との出会い~ (17)

2015年09月05日 | 俳人杉田久女(考)

何とか病癒えて小倉に戻っても、夫、宇内との間の問題が解決したわけではなく、心が塞ぎいつも身構えている様な暮らしの中で、9月に久女は江津湖畔に住んでいる斎藤破魔子(後の中村汀女)を訪ねることを思い立ちました。

中村汀女はふとしたことで作句する様になり、九州日日新聞俳句欄に投句すると選者の三浦十八公に褒められ俳句に関心を持つようになりました。そして『ホトトギス』の雑詠欄に大正9年12月に

       「身かはせば 色変わる鯉や 秋の水」

など4句が載りました。

中村汀女が書いたものによると、彼女は『ホトトギス』誌上で久女を知り、ファンレターを出す様になりました。その時、久女から来た返事の能筆さには驚いたそうです。久女の長女の昌子さんが出版された
遺墨集『杉田久女遺墨』を私は手元に持っていますが、それを見ても書家ともいえる程の久女の能筆ぶりには、驚かされます。

久女が次女光子を連れて汀女の家を訪問した時、汀女は12月に結婚を控えた22歳、久女は31歳でした。

勧められるままに3、4日滞在し、汀女が棹さして江津湖に船を出したり、句友が来て句会をしたり、夜は一緒の蚊帳の中で語り合ったりしたらしく、久女はその思い出を昭和4年の随筆『阿蘇の噴煙を遠く眺めて』の中で懐かしく綴っています。

結婚後も汀女は久女を「お姉さま」と慕って文通が続いていたようで、久女が俳誌『花衣』を出した時には、彼女に投句する様に誘い、その後しばらくして高浜虚子に汀女を紹介しています。又、汀女の夫に長女昌子さんの就職の世話を頼んだりと二人の交流はその後も続きました。

大正11年に久女は「江津湖の日」と題して、

       「藻の花に 自ら渡す 水馴棹」

       「藻を刈ると 舳に立ちて 映りをり」

       「おのづから 流るる水葱の 月明かり」

を発表しています。

久女が作句を励ました中村汀女は、その後文化功労章を受章し、昭和俳檀を代表する俳人に大成したのです。
<中村汀女 1900‐1988>

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