さらに暑い。
いつも通る道で工事をしている。
わりに交通量の多いところで、片側通行状態になっているのだけど、
警備員さんのおかげで支障なく通れている。
きょう通りかかると、いつも警備員さん3人のところが2人。
あれって思って通り過ぎたけれど、
すみのほうで1人横になって休んでいるように見えた。
なにもなかったらいいのだけど。
ほんとに暑いのには気をつけないと。
「エリック・ホッファー自伝」読み終わる。
仕事や労働をただ美化するのではなく、
彼が共感を抱くのは、誇りを持って自分の仕事をやりぬいている人のよう。
オレンジ売りを断ってしまうエピソードからもなんとなくそんな感じ。
ヒッピーや学生運動を支持してなかったというのもわかる。
不適合者(misfits)というのは、
コリン・ウィルソンのアウトサイダーに近いのかな。
けれど、自分を変える努力もせずに、
既存の社会にただ不平不満を抱くだけの輩を持ち上げるのは違うと思う。
革命家と夢想家は紙一重だけど。
そういうのを考えると、きょうの国の決定は正しいのかなあと。
「ふつうの国」の扱いにするというだけで、
あの大さわぎ。罵詈雑言。
今でもいるのか知らんけど、
おもちゃ屋の前で寝転がってだだをこねている子供みたい。
ああいうのは愛されて大切に育てられた子供しかしない、
「決して見捨てられることはない」というゆるぎない自信があってこその行動なのだろうけど、
日本とアメリカがああいうものを育ててしまったんだろうな。
自信とうぬぼれもまた紙一重。
日本を説得するための対話も議論もまったくしようとしなかったのに、
『外交的な努力を拒否』って言い切るのもすごい。
外交的な努力、というのは、自分たちの要求を丸のみさせることなのらしい。
まともな関係であれば「交渉決裂」したとしても、
次につながるように最後の糸までは断ち切らないもののように思うけれど、
そういう常識も通じない相手のよう。
クリスティアーノ・ロナウドもユベントスももう二度とあの国に行くことはないだろう。
たぶん、この二国の関係ももうもとのように戻ることはない。
それを「幼年期の終わり」だったってわかってくれる時が来ればいいのだけど。
「表現の自由」というのは、各個人の常識の範囲でゆるされることだけど、
それに対する批判もまた受け入れる覚悟があって初めて成立するもの。
一方的に守られた立場から、相手のことを無制限に攻撃できるという意味ではないはず。
ポリティカルコレクトネスやらヘイトスピーチやらと、
レッテルを貼ることで批判を封じようとする人たちが、
税金を使った公的なイベントで一方的に「表現の自由」を振りかざすのは卑怯だし、
それに対する批判をまた「表現の不自由」と先に予防線を張ってまで、
レッテルを貼って阻止しようとするのは恥の上塗り。
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