調べたら平成って数えきれないくらいの
いろんなことがあったんだな。
日本だけでなくて世界中で、
いろんなことが大きく変わった時代だったんだろう。
世界では平成とか関係ないけど。
いちばんおどろいたのって、
簡単にはあげられないし、
ひとつっていうか時代の変化そのものっていうか、
いままであたりまえに感じてたことが、
ぽろぽろと崩れていったこと。
未来に対して安心できなくなると、
そりゃあ、お金は使わなくなるだろうし、
こどもも作らなくなるのはしかたないなあと思う。
元号が変わると、
いい時代になればいいなと思う。
元号ってそういう意味もあると思うし。
きょうはむだに早起き。
夜中にトイレに起きなくなったのはいいことだけど、
逆にちゅうとはんぱに早起き。
おかげで、平野レミさんの「タイのケバブ」見られたけど。
「~したい」にひっかけられるっていうところでは、
めでたい料理なんだろうな。
結婚式には向かなそうだけど。
途中からだったのが残念だったし、
わいわいうるさくてよくわからなかった。
録画して見たかった。
なんか見てておもしろかったのは、
はちゃめちゃなレミさんに波長があっていく人と、
逆にちゃんとしないとって思うのか、
すーっと冷めて冷静になっていく人。
吉田羊さんってやっぱりおもしろそう。
「職業としての小説家」を途中まで。
今までのエッセイでも読んだことのある話と、
そうなんだ、っていう初めて読む話。
ちょっと異質な感じのする『学校について』で、
引っかかってしまった。
日本の社会のシステムに問題がある、
というような内容だと思うんだけど、
なんていうか、ちょっと残念な、
あるタイプの人にありがちな発想なのかな。
そういうシステムにあわない人もいるだろうけど、
そういう「システム」という枠がないと、
どう生きていいのかわからない人もいるのでは。
というか、むしろほとんどの人がそっち側なような。
たぶん、いまの日本の学校っていうのは、
他人と協力することや、
最低限の我慢するということを覚えさせる場所であって、
なにかを学ぶとか、育てるという場所ではないのかもしれない。
でも、日本人が勤勉で規律正しくて、っていうのは、
こういうシステムで作り上げられてきたものでもあるはず。
学校で耐えなければいけないようなものよりも、
もっと大変なことが社会にはたくさんあるし。
学校っていうようなものは、
自分で自分を律することができる人にとっては、
苦痛でしかないのかもしれないけれど、
そういう人はそれほど多くないのだと思う。
そういう人たちが必要以上に、
苦痛を感じないようにつらい思いをしないように、
配慮するのはとても大事なことだと思うけれど、
そうでない多数派の人たちに自律を求めるのは無理があるのかも。
ほとんどの人は枠がなければ自分を保てない。
文壇、というのもそうなのだろう。
自分にとって簡単にできることが、
他人にとっても簡単なこととはかぎらない。
小説の書き方でそんなことを書いているのに、
学校のところでは真逆のことを書いているように思える。
無意識なのかもしれないけど、
ちょっと「市民」と「大衆」を、
分けて考えてしまう人たちのにおいがする。
「大衆」を啓蒙すれば「市民」になるわけではないし、
「市民」のほうがランクが上なわけでもない。
新しい元号の世の中では、
ふつうの人がふつうのままで、
しあわせに生きていけるようであればいいんだけど。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます