カゼひきの人間がいるから、ずっとうどん。
カゼがなおるまで、ずっとうどん。
もう飽きてきたけど。
ゆうべはカゼひきの人を見ながら「ふしぎ発見」
最初はおもしろいなあと思って見てたんだけど、
「統一と多様性」って…プロパガンダ?
表現の自由も報道の自由もないような、
今のあの国がやってることを見て、
多様性なんてストレートに出していい言葉なんだろうか。
オリンピックの開会式でもなにをやってたことか。
台湾や香港のことを考えると、
「武力統一」を肯定してはいけない、っていう言葉も怖い。
とはいっても「武力」ではないやり方で浸透してくるのも、
まさかこういう番組にまで、と思うと本当に恐ろしい。
というか、民族によって色を変えるのが多様性?
同じ国民なら色を変えないほうがいいのでは。
「原子爆弾とジョーカーなき世界」を読んだ。
少し古い本とはいえ、別の世界の話かと感じるくらい、
ほとんどわからなかった。
知ってる作品でもそんな話だったっけと思ったし、
知らない作品の場合はもっとわからなかった。
こういう評論を読むと、知らない作品なら、
見てみようかなあと思ったりするもんなんだけど、
一面的な見方を強調されてる感じで、あまりそういう気にもならない。
たぶん、この方の考えに合わせて読み解いておられるのだろうけど、
いろんな作品の中からその考えにあう部分を切りだして、
ほら、ここにも描かれてるって言われてる感じで、
それはそうだろう、としか。
その考えに共感できない人は、ついていけないんだろうな。
昼の世界 夜の世界とか、新しいホワイトカラーというのは、
結局「ここではないどこか」「いまいないどこかにいるだれか」を、
探しているようにも思えた。
「インターネットから本来の自由を取り戻すための作戦会議」
っていうのもそうなんだけど、
知ってる言葉なんだけど、どうやら新しい意味を持たされてるみたいで、
なにを言いたいのかすぐにはわからんというのも、
なんかこう、ついてこれないやつは知らん、的な、
一見さんお断りみたいな間口の狭さを感じる。
ツイッターを見ても、そういう感じ。
身内だけでわーっと盛り上がってるような。
ツイッターというのは、わりとそういうものなんだろうけど、
社会を変えよう、という意識なのなら、
公になってるところで排他的な感じを出すのは…
今、もろ手をあげて賛成ではないからといって、
その人たちが敵だというわけではないのだし。
ツイッターってこわいなあと思う。
TVでよく見る評論家の人でも、意外にきついなあと思わされたり。
ろくでもない人たちが突っかかってくる、というのはわかるんだけど、
それを反射的に打ちのめすのはマイナスしかないのでは。
ニュートラルな人もそのやりとりを見ることはできるんだし、
よっぽどうまくやらないと、
有名人の人にとってはプラスマイナス難しいところなんだろうな。
そもそも「デカい声」の人には必要ないものなんだろうけど。
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