最初に韓国を旅行したのは、23才、まだ学生だった。
下関から関釜フェリーに乗り、釜山に上陸した。
当時韓国は民主化にはほど遠く、
クーデターで政権を取った大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)は、
軍事独裁政治を敷き、先頃亡くなった金大中を日本のホテルから拉致した黒幕でもあった。
そんな状況だったので、夜12時以降は外出禁止の戒厳令が敷かれていて、
それでも泊まった安宿の親爺が、11時過ぎに
「ミドリマチに行こう。」と誘いに来た。
今から行ったんじゃ、絶対戒厳令に引っかかるじゃないかと反論しても、
「OK、OK」と聞かない。
なるほど、戒厳令下でもタクシーは走っていた。
3日ほど釜山に滞在し、列車で慶州に向かった。
慶州の安宿は、韓ドラ時代劇の部屋と全く一緒で、
観音開きの障子戸を開けると、3畳ほどのオンドル部屋があって、隅っこに布団がたたんである。
もちろん鍵などかかるはずもない。
この宿の親爺と、隣の薄汚い安食堂の親爺はマッカリが好きで、
私に奢るという名目で夕方になると一緒に飲んだ。
奢り奢られで滞在した3晩ともマッカリが夕食代わりだった。
ここ慶州では、初めて食べたビビンバの辛さに呆れ、
同じものを平然と食っている子どもになお呆れた。
慶州から再び列車に乗り、ソウルに入った。
さすがにソウルは当時でも大都会で、駅近くの安宿にチェックインした。
この宿の息子が出てきて、英語で話しかけた割には全く英語を解せず、
結局、「Can you speak English?」という英語だけが彼のボキャブラリーだったという、
いささかびびった私には、「馬鹿にしてんのか」と、笑うに笑えない話だった。
南山にはまだロープウェイはなく、歩いて登った記憶がある。
広い道路に架かる陸橋を歩いていたら、
明らかにその筋のお姉さんと思われる女性から声をかけられ、
どう対応していいか分からず、無言で通り過ぎた。
宿の、例の息子は息子で、夜になると部屋をノックして、
女性を世話するがどうだ、みたいなことをハングルで言ってくる。
言葉は分からないが、内容は何となく分かるものなのだ、この手の話は。
「で、どうしたか」ですって。
さあ、記憶にも記録にもないから、何とも。
当時は、韓国旅行というのは、女性からは一種の軽蔑の目で見られていて、
というのが、日本からの男どものツアー客の目的が、
いわゆるキーセン(妓生)パーティーという買春ツアーが主だったからである。
私のような個人旅行者はまだ希な存在で、
キーセンツアーの客と一緒にされるのは非常に心外だった。
ソウルでは4泊ほどした後、釜山まで戻り、再び関釜フェリーで下関まで帰った。
帰りの船室(大部屋)の中で、日本人男性ツアー客が大声で話している。
キーセンパーティーの、ほぼ自慢話だ。
そんな中、
私は、釜山で私を出汁にミドリマチにしけ込もうとした宿の親爺や、
飲み仲間になった慶州の日本語を操る宿の親爺と、飲んべえの食堂の親爺。
英語で話しかけて私をびびらせた宿の青年。
南山の途中で声をかけてきた儚げな女性。
そういう人たちを思い出しながら、また必ず韓国に来ようと密かに誓いを立てていた。
今では、ソウルの明洞などは、地図なしでも歩けるくらいになった。
それでも、昔日本が韓国の人たちにしたことを、
キーセンツアーで多くの日本の男たちが来たことを、
いつも心の片隅に置いておかねばならないと思っている。
今ではすっかり、黄昏のコリアになってしまったが、
せめて年1回は、青春の日を蘇らせるために、
ビビンバの辛さを味わいに来よう。
下関から関釜フェリーに乗り、釜山に上陸した。
当時韓国は民主化にはほど遠く、
クーデターで政権を取った大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)は、
軍事独裁政治を敷き、先頃亡くなった金大中を日本のホテルから拉致した黒幕でもあった。
そんな状況だったので、夜12時以降は外出禁止の戒厳令が敷かれていて、
それでも泊まった安宿の親爺が、11時過ぎに
「ミドリマチに行こう。」と誘いに来た。
今から行ったんじゃ、絶対戒厳令に引っかかるじゃないかと反論しても、
「OK、OK」と聞かない。
なるほど、戒厳令下でもタクシーは走っていた。
3日ほど釜山に滞在し、列車で慶州に向かった。
慶州の安宿は、韓ドラ時代劇の部屋と全く一緒で、
観音開きの障子戸を開けると、3畳ほどのオンドル部屋があって、隅っこに布団がたたんである。
もちろん鍵などかかるはずもない。
この宿の親爺と、隣の薄汚い安食堂の親爺はマッカリが好きで、
私に奢るという名目で夕方になると一緒に飲んだ。
奢り奢られで滞在した3晩ともマッカリが夕食代わりだった。
ここ慶州では、初めて食べたビビンバの辛さに呆れ、
同じものを平然と食っている子どもになお呆れた。
慶州から再び列車に乗り、ソウルに入った。
さすがにソウルは当時でも大都会で、駅近くの安宿にチェックインした。
この宿の息子が出てきて、英語で話しかけた割には全く英語を解せず、
結局、「Can you speak English?」という英語だけが彼のボキャブラリーだったという、
いささかびびった私には、「馬鹿にしてんのか」と、笑うに笑えない話だった。
南山にはまだロープウェイはなく、歩いて登った記憶がある。
広い道路に架かる陸橋を歩いていたら、
明らかにその筋のお姉さんと思われる女性から声をかけられ、
どう対応していいか分からず、無言で通り過ぎた。
宿の、例の息子は息子で、夜になると部屋をノックして、
女性を世話するがどうだ、みたいなことをハングルで言ってくる。
言葉は分からないが、内容は何となく分かるものなのだ、この手の話は。
「で、どうしたか」ですって。
さあ、記憶にも記録にもないから、何とも。
当時は、韓国旅行というのは、女性からは一種の軽蔑の目で見られていて、
というのが、日本からの男どものツアー客の目的が、
いわゆるキーセン(妓生)パーティーという買春ツアーが主だったからである。
私のような個人旅行者はまだ希な存在で、
キーセンツアーの客と一緒にされるのは非常に心外だった。
ソウルでは4泊ほどした後、釜山まで戻り、再び関釜フェリーで下関まで帰った。
帰りの船室(大部屋)の中で、日本人男性ツアー客が大声で話している。
キーセンパーティーの、ほぼ自慢話だ。
そんな中、
私は、釜山で私を出汁にミドリマチにしけ込もうとした宿の親爺や、
飲み仲間になった慶州の日本語を操る宿の親爺と、飲んべえの食堂の親爺。
英語で話しかけて私をびびらせた宿の青年。
南山の途中で声をかけてきた儚げな女性。
そういう人たちを思い出しながら、また必ず韓国に来ようと密かに誓いを立てていた。
今では、ソウルの明洞などは、地図なしでも歩けるくらいになった。
それでも、昔日本が韓国の人たちにしたことを、
キーセンツアーで多くの日本の男たちが来たことを、
いつも心の片隅に置いておかねばならないと思っている。
今ではすっかり、黄昏のコリアになってしまったが、
せめて年1回は、青春の日を蘇らせるために、
ビビンバの辛さを味わいに来よう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます