近藤理論や、なんだかんだと「がん」再発転移治療を巡る世間も荒れている。
私は、今の時点でがん患者ではあるが、まだ転移をつげられたわけではなく、他人事と思うかたもいるかもしれない。が、これは、そもそも他人、人それぞれの死生観、価値観でどの選択が正しいとはいいきれないところがあるとおもう。もちろん、治療として、医学者としての職業人としいの正誤はあると思うけどね。
が、医療人としての正しさが全ての場合で、人として正しいかというのとは別の話だ。
あやまちではないけど、正しかったかと問われれば答えはでないだろう。
だから、今夜は、患者である、一般の人として私個人のことを、今の思いをかきのこしたい。
もしも、私が乳がんで転移したら。
抗がん剤はしたくない。
でも、まったく捨て切れる自信はどうだろうか?
心底問うてみても、答えはでない。
だってまだ転移が目の前ではないから。
だけど、初発のときにした抗がん剤の辛さはもういやだ。
髪をうしなうのもいやだ。
それをして、10年、15年生きられるなら、考えるかもしれない。
あくまで考えるかもというレベル。
抗がん剤の後遺症は5年たった今でもねけてないのに、こんだけ体参ってるのに、これ以上は自分のからだには無理だとおもう。
無理を重ねて、生きるのは私にはできないな。
だけど、だまって死を待つのも
勇気がない。
だから、中をとる。
半端だっていいじゃないか!
車のハンドルには遊びがある。あの遊びがなければがんじがらめで、ハンドル切ったとたんに事故多発だとおもうよ。
一人の個人が、自分の命を懸けて、命を守ろうとするとき、ゆれてゆれて、それに身を任せて、
ぐらついてもいいとおもう。
中とって、無理のない少しの抗がん剤もして、分子標的薬もしてみて、しんどいならやめて。
遊んで(悩んで)
時間は短縮されても、苦しみや、自分らしさとかけはなれた時間の長さならなくていい。
ほどほどのところをとってね、命を延ばすことより命を活動させることを選ぶだろうな。
それには、がちがちのハンドルでは危険すぎる。その都度の修整しながらそれはそれでつなわたり。
つまり、どんな道をえらんでも、懸命に生きることとの戦いだと誇りをもちたい。
そんな患者のそれぞれの道を受け入れてくれる病院。これをさがすのが一番たいへんなんじゃないかな。
きっと、大病院は、医療制度や診療費、学会などへの結果報告など、大きな機関になればなるほど、
1か月、2か月の延命の長さでも競い合うのだろう。
私の心の赴くままの治療のアドバイスだけしてくれ、正確で安全な医療行為だけをしてくれてマウスではない人・私をみてくれる病院を探さないと。
医師というより、病院なんだろうな。
6月は、主人の脳梗塞から10年だった。
あのとき、病院はまだ症例のすくないリスクの高い脳幹へのステント装置術を進めた。したがっていると感じた。
全国で2位の症例数だと知ったから、そういう穿った見方になったのかもしれないけど、おおきい病院は仕方ない。結局は拒んだオペだけど、正解だった。でもそれは結果論として10年たった今だからいえること。
実際、大きな医療の進歩を支えてるのはちいさな患者それぞれの命なのだよね。私の今の命も、そうした多くの先達の身体がつむいでくれたもの。
そのお返しを・・・・・なんて気持ちは、まだ、もてないでいる。
でも、ほんとに、まだここでこの景色のなかで息をしていたい、彼をみつめていたいと思ったら、そのときは、この体が未来の人の役に立つならと・・・・・・いろいろ試行錯誤、逃げてく血管にむりやり色んな抗がん剤をいれるのかもしれないね。
そうなってみなきゃわからない。
でも、人は、少なくとも自由を与えられたこの今の国では、本当に嫌なことはしないんじゃないかな。
本当に嫌なことでもせざる追えなかった時代に生きた人たちがいたこと、それに比べたら、私の病気なんて、なんてありがたきこと。
せっかくもらったハンドルの遊び。おおいに遊ばせなきゃ。
つらつらと、まとまりのない今日の終わり。
明日は、夫と同じ病で16年寝たきりで逝った、義父の命日。夫は、父親のような人たちのおかげで、今自分が生きていける薬ができたという。
私が未来に残せるもの。それがこの体だと思えたとき、私はきっと安らかにぼろぼろの身体に色んな薬を受け入れ続けていくのだろ。
ああ、イメージで描くきれいごとなんて意味ないね。
遊び、遊び、ゆれにゆれて、それが人なんだよね。傲慢で美しい。そんな人生を歩きたいと、明日墓前で話してみよう。
答えは降ってこないよね。うなずいてくれるだけかな~
どんな選択でも、考え抜いたその私を見守ってくれるだけでしょう。
私もそんな情を忘れないで、自らももちつづけたい。
長い、お参りになりそうだ。年に1度の長話だね~