明日は、月に一度の「いやしの集い」があります。
東京アンテオケ教会で、6時半から行われます。
前半は、ミニライブがあり、Cielのみなさんがゴスペルを歌ってくださいます。
また、後半は時間を取ってお祈りします。
お友達を誘って来てくださいね。
ジョージ・ミュラーの孤児院では、定期的に病が流行ります。
今回は、猩紅熱に39人がかかり、その後は百日咳に17人がかかりました。
ひとりの子は、もともと肺が弱かったので、危険な状態になりました。
そのために、ジョージだけではなく、子供たちが必死に祈りました。
そのことによって、子供たちが、神さまに触れられ信仰が強められていくのです。
試練や困難の中で、私たちの信仰が試され、強められていくのです。
いろいろ資料を読んでいて分かったことは、勝海舟も天璋院篤姫に育てられた徳川家達(いえさと)も、みんな質素に暮らしていたと言うことです。
16代将軍を継ぐはずだった亀之助(徳川家達)は、6才で将軍家宗家を継ぎますが、男性の中で育てられます。
とにかくおとなしくて泣いたことがなかったそうです。
徳川家が、70万石に縮小され静岡で暮らしますが、その後、東京の勝海舟の家の隣に住みます。
天璋院は、勝の姉という触れ込みで、東京の町をいろいろ散策に出ます。
そこで、人々の暮らしの中から役に立つ物を取り入れていますが、勝つよりも一回り以上年下なのに、姉と言う触れ込みは面白いなーと思いました。亀之助(徳川家達)が、イギリスに留学したあと、天璋院は千駄ヶ谷に引っ越します。広大な土地に質素な日本家屋を建てて、亀之助の妻になる泰子を育てるのです。
亀之助は、帰国後、すぐに結婚しますが、とにかく質素で、布団も木綿で寝ていましたが、病気になって医者が来たときだけ絹の布団になったと孫が書いています。
後に洋館と日本館を建てて豪華な建物になりますが、離れに徳川慶喜の子供たちを預かっていたので、子供たちは、そのお姫様たちのお下がりを来ていたそうで、絹の着物はほとんど着たことが無く、継ぎあてをした着物を来ていたそうです。
勝海舟はと言えば、一族がみんな敷地内に住んでいました。
一時は、徳冨蘆花。徳富蘇峰兄弟が住んでいたこともあります。旧幕臣で、絵の才能のあった川村清雄を留学できるように手配し、帰国して生活に困っている時に敷地にアトリエを建てて徳川家の肖像などを描く仕事を与えてバックアップしました。
子供や孫がみんな同じ敷地に住んでいて、食事も一緒なので、一汁一菜で少し魚がつくくらいだったそうです。
年中出入りしていた岩本善治は、いつも同じで「おいしいと思ったことが無い。」と書いています。
とにかく家も全てが質素でしたが、これと思う人物にはポンと大金を出して留学させたりしています。
勝とあった宣教師・クラークは、「キリスト教国・異教国を問わず、これまで会った何人より尊敬する。」「彼はキリスト教徒ではなかったが、彼以上にナザレ人(イエス・キリスト)の人格を備えた人を今だかってみたことが無い、世界を三周したけれど。」と言っています。勝海舟の人生は、「冨ではなく価値を得るために送られた一生」だったといわれたいますが、クラークの友人ニーダムの祈りに合わせて涙を流しています。
その後、亡くなる2週間くらい前に、宣教医ホイットニーに「信仰に入った。」と告白しています。
勝部真長さんは、「勝海舟」の中で、洗礼を受けたわけではないので、キリスト教になったことを認めていないような書き方をされていますが、クリスチャンは、洗礼を受けていなくても、自分の罪の身代わりにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことを信じ「イエスを主です。」と口で告白すればいいのです。