お茶ノ水は、私の青春時代の思い出の地です。
高校時代に、名古屋から新幹線にのって東京に来て、お茶の水や神田の出版社巡りをしたものです。
さだまさしの「檸檬」の歌詞の中に湯島聖堂の石の階段にすわって盗んだレモンを手でかざしていたという歌詞があります。
また、食べかけのレモンを聖橋(ひじりばし)から投げるのですが、昔はお茶ノ水の駅前の交差点を歩くたびにこの歌を口ずさんでいました。
いまでは、歌詞も忘れてしまいましたが、この町に来るたびに青春時代を思い出します。
遠くに見えるのが、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶので聖橋と名付けられた石の橋です。
お次は、正教のニコライ堂(正式には、東京復活大聖堂)に行ってきました。
1962年に、国の重要文化財になっています。
1861年、ニコライは函館のロシア領事館付属礼拝堂司祭となりました。
この頃、「八重の桜」の八重が再婚した新島襄から日本語を習っています。
そのすぐ後に、新島襄はアメリカに密航し、後に宣教師として来日し、京都に同志社を作りました。
この函館で信仰を持ったのが、日本ハリスト正教会の最初の日本人司祭の沢辺琢磨ですが、沢辺は坂本龍馬の従弟です。
明治政府の高官で西郷隆盛の弟である西郷従道(じゅうどう)の長男・従理も正教の信者で、ニコライによって葬儀が行われています。
また、ユダヤ人の命を助けた「命のビザ」の杉原千畝も、ロシア正教の方です。
この敷地の中で、日本人最初のイコン(聖画像)画家山下りんは、絵筆を握りました。
正教のイコンは、どこに何を描くのか全部決まっています。
山下りんは、ロシアに留学してイコンを学びましたが、ビザンチン式の聖画像の技法をこのまず「イタリア画のような絵を描きたい。」と苦悩していました。
残念ながら、関東大震災でニコライ堂や山下りんの絵は焼失しましたが、日本の各地に、彼女の絵が残っています。
ただ、イコンなので、名前が書いていませんが、確認できているのが数展あると前に伝記で読みました。
礼拝堂を覗くと、ちょうど礼拝中なので、入口だけ覗いて帰ってきました。
朝8時45分に家を出て、12時には帰ってきましたが、ちょうど半日の東京散策でした。
漢字の検定試験場の入口に、徳川家康の絵が飾ってありました。
といっても、印刷か何かだと思いますが、この絵は面白い言われがあります。
家康が、三方ヵ原戦役の時、武田信玄に負けたのを記念として描かせたものです。
苦々しい顔をしていますが、この絵をいつも手元に置いて、敗戦を忘れないようにしたのです。
その有名な絵がここに飾ってあると言うことは、どういう意味があるのかなと思いました。
また、左の写真は、明治時代の写真で、聖堂の横に東京高等師範学校と東京女子師範学校が並んでいます。
明治17~24年の間に、ニコライ堂を修復した足場から撮った写真です。
湯島聖堂の塀から、お茶の水の駅方面に向かう道は、趣のある風景です。
聖堂は、今日漢字の検定試験があり、かなり人が集まっていました。
土日は、中に入れるのです。
しかし、明治時代のなごりは、どこにもありませんでした。