幕末明治に活躍した大鳥圭介という方がいますが、彼は赤穂(兵庫県)の医者の子でした。
医学を学んだ後、江戸に出て薩摩藩から目をかけられ、翻訳などの手伝いをしました。
坪井塾に入り、塾頭となり、軍学、工学を学び、西洋式兵学や写真をも学んで、勝海舟の知遇を得ました。
ジョン・万次郎から、英語を学んでいます。
また、日本で初の合金製活版を作り、たくさんの本を印刷しています。
やがて、幕府に召し抱えられ旗本になり、幕府が崩壊する前年の慶応3年には、幕府陸軍の育成や訓練にあたっていました。
ところが、翌年、徳川慶喜が、無条件降伏してしまったのです。
大鳥は、自分は教える方で実戦をしたことがないからと初めは断っていましたが、総計2000人の脱走兵の総督に選任されてしまいます。
大鳥脱走隊は、やくざやゴロツキがたくさん混じっていましたが、中心はフランス式調練で鍛えられた最新式軍隊でした。
だから、どんどん勝ち進んでいったのです。
先頭に「東照大権現」の旗を翻して、日光に向かいますが、日光東照宮に受け入れを拒否されてしまいます。
しかし、官軍を苦しめ、大鳥圭介は一国と同じ力があるとみなされたのです。
ところが、ところが、大鳥は、頭の学問で自分は実戦はやったことがないと言っていたように、思わぬところに、穴が開いていたのです。
なんと、最新式のシャスポー銃で、勝ち抜いて来ましたが、弾を補給することを忘れていたのです。
笑える話ですが、事実です。
兵学には通じてはいましたが、頭の学問で、実戦指揮はそれほどうまくは無かったわけです。
しかし、「将才」は無くとも「将器」はあり、連敗しても泰然としていて、常に笑顔を失わなかったと言われています。
函館の五稜郭で、幕府最後の戦いに参戦しましたが、ここでも敗退しました。
敗北が決まった時、徹底抗戦すると言う人々に、「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか。」と開き直って降伏を受け入れたそうです。牢の中では、仲間たちに英語を教えたり、自分も勉学に励みました。
牢から解放された後は、彼の才能を惜しんだ明治政府に召し抱えられ、北海道の開拓などをしました。
また、東京に戻り、工部大学校の校長にもなりました。
この頃、ホイットニー一家が日本にやってきて、大鳥圭介にお世話になったのです。
この、大鳥さんの顔は、立派なひげがあって分からないですが、侍の頃の鬚のない顔は、超ハンサムです。
ある方が、幕末明治のハンサムのランキングに入れていました。
また、安政の大地震の時、自分の住む長屋が全壊した時も、「失くすものがないから、怖い物は無い。」と泰然とされていたと言いますが、
なんだか、クリスチャンに通じる者をたくさん持った方だと思います。
それと、彼の伝記を読んで思ったのは、何でも、頭の学問だけではだめだと言うことです。
実践が伴わないと、思わないところで、こけるものですね。
写真は、ハイアット・リーゼンシー東京から見た新宿の夜景です。