記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

秋雨に誘われて自分のアイデンティティを考える。

2009年09月30日 23時34分30秒 | Weblog
 あっという間の9月、というよりあっという間の1年。もう明日からは10月、
「中洲まつり」初日恒例の「はしご酒大会」である。やる事が山積みで、年初に
計画していたことの3割程度しか実現できていないのが残念。残り3ヶ月、どこ
まで実行できるか正念場である。これまでは仕事や地域活動、ボランティアなど
様々なことに顔を突っ込み、自分のモチベーションのバランスを取ってきたが、
今は仕事および私にしかできない活動に専念すべき時に来ているようだ。

 2000年に独立して以降、仕事とは別に数々のボランティア活動、NPOの立ち上
げに関わってきた(実際に事務局長や理事もいくつか平行して経験)。私の人脈
の多くは、ボランティアを通じて出逢ったもの。毎年3~400人ほどの方と出逢
ってきた。独立当初は異業種交流会やビジネス勉強会にも色々参加し、自分から
積極的に名刺交換をしていたが、ここ数年は自分から名刺交換する事は激減、今
は大半が紹介である。

 人との出逢いが私の生命線だが、ボランティア活動を続けることは、ここに来
て仕事に支障をきたすものも多くなり、それらを整理し約3年がかりで博多部で
の活動のみに絞り込んだ。27日のイベントを最後に、西区まるごと博物館推進会
からも正式に脱会。会を通じて色々な方々に出逢い、応援してくれる方も多いが、
中途半端に参加して迷惑をかけることもあったので、踏ん切りをつけた形である。

 自分の強みは、これまでに様々な経験をしてきたことだ。中津労音での活動で
は、自分たちで努力すれば何でも実現できることを学んだ。チャゲ&飛鳥などの
コンサート運営に関わったことは、今でもTVやラジオ絡みの仕事に活かされてい
るし、誰の前でも物怖じしない度胸は朝日新聞の新聞奨学生時代の経験がきいて
いる。それまでは暗闇が怖く臆病だったが、さすがに殺人事件や交通事故に遭遇
したり、同じ高校から進学し新聞奨学生という同じ境遇だった同級生の事故死な
どショックな事は多かった。

 子供の頃、私は目立つ事が嫌いだった。今も表面に出ることは好まず、ラジオ
など顔の見えないものや取材編集など裏方的な仕事しかできない。これでも随分
人前に出るようになったのである(笑)。中学時代、駅伝部でがんばり先輩キャ
プテンから次期キャプテンの指名を受けた時も、どうしても受諾せずに副キャプ
テンに甘んじた。

 それまで私の後をいつもついて来ていたH君がキャプテンになり、彼は私に対す
る態度を一変させて、私を見下す態度をとるようになった。人の表裏を感じた最初
だ。その時のH君と今は交流ないが、先輩キャプテン(市役所勤務)は最初の本
「ふくおか絵葉書浪慢」を出した際、黒土村の絵葉書のこと等を色々と調べて享
受してもらった。

 中学時代はとにかく先輩方や同級生から裏庭に呼び出された(笑)、生意気だ
というのである。殴られることも度々だった。しかし泣いた記憶は無い。子供の
頃から不思議と友人は多かった。それは高校時代も続き、それがグレずに不登校
にもならなかった最大の理由だろう。それぞれの友人と、それぞれ忘れることの
できない思い出、エピソードがたくさんある。

 よく勘違いされるのだが、私は子供の頃から今に到るまで相当な「人見知り」
である。初対面の方と接する場合、自分がその方に興味があれば良いが、そうで
ない場合は本当に無口になる(笑)。元々の人見知りを好奇心が凌駕し、様々な
方との出逢いに繋がっているだけ。人に会って会話することも好きだが、誰にも
会わず一人で本を読んだりして過ごす時間も同じくらい必要なのだ。

 これは自分の経験から思うことだが、本当に人と交流するのが上手な方という
のは案外人見知りをする気がする。八方美人的に愛想を振りまかず、名刺も配っ
て廻らないため、会合などに出ても話すのは2~3人程度である。人見知りだか
ら、共通点のない人とは会話ができない。その代わり、共通の話題を見つけた時
の相手に対する印象はすこぶる良くなる。振り返って交流が続いている人は、例
外なくこのタイプである。


 今日の写真は、福岡市中央区春吉二丁目~渡辺通り三丁目界隈。
シルバーウィーク中、このすぐそばにある老舗ラーメン店には大行列ができていた。

 渡辺通り三丁目は再開発の真っ最中で、地震前の昭和レトロな路地の面影は
すでに無い。春吉と渡辺通りを区切る道路が「渡辺通り」の名に遺る福岡市発展
の大恩人・渡辺與八郎が計画・作ったものだと最近知った。
旧県庁裏の法印田(天神一丁目)から旧花園町(渡辺通り一丁目・柳橋連合市場
横)まで、新柳町(現・清川)遊郭に繋がる道路だった。
花園町という名は、ほぼ例外なく昔の「遊郭」「花町」を意味する。京都や長崎、
佐世保、八幡東区など。昭和30年代の地図を見ても、サンセルコ付近は「花園本
町」、FBS本社のある一帯は「上花園町」とある。

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