先週、店屋町に開店した「博多大福うどん」が元々は祇園町発祥と聞き、手持ちの1951(昭和26)年末発行の住宅案内図「福岡地典」をチェック。1959年版をみるとすでに西通りの旧店舗の場所に記載があったのでより古いものへ。確かに、旧博多駅前の「新道通り」入口の中村屋となりに「大福食堂」とあります。
実はこの年に発行された「福岡地典」は、将来の郵便番号制度導入を前提に「町界町名改正」モデル町名(最初の町名統合案)が丸囲みで記載されており、博多部では町名変更反対の大論争に発展した云く付きの資料。その乱暴さには確かに驚きます。
冷泉地区を例にすると、櫛田神社を含めて国体道路の南北はすべて「櫛田町」一丁目から4丁目、しかも4丁目は中洲(南新地エリア)。呉服町交差点ー博多駅間の大博通りの東西は「錦町」1丁目から5丁目、そして驚くことにそれ以外の冷泉・店屋・上川端は中洲の明治通以南までぜ~んぶ「竹若町」1丁目から4丁目。
制度導入のモデル都市だった福岡市は今から51年前の1962(昭和37)年に春吉など現在の中央区で試験導入後、全市域へ順次拡大しましたが、太閤秀吉以来の「流れ」で町内自治や山笠・松囃子などの博多年中行事を行なってきた旧博多部は、最後まで調整が難航。1967(昭和42)年にようやく変更を受け入れた経緯がある訳ですが、その過程を知る貴重資料でもあります。