
土曜日、朝起きて天気がよかったので気分転換に若松へ出掛けた。先週、
新聞記事で若松の自治総連合会が50周年記念写真集をまとめたとあり、その
内容を確認したかったためである。福岡を車で出発した時刻、晴天だった空
模様は北九州が近づくにつれてどんよりとした曇り空となり、国道199号を
折尾から本城を抜けた頃にはポツポツと雨が降り出した。
子どもの頃、訪れた北九州の空は一様にどんよりした空だった。工場の煙
やスモッグの最盛期である。最近は環境都市への脱皮が成功し、空の印象も
高塔山や帆柱山を背景にした青空になって久しい。高塔山からの夜景が好き
で、若い頃はよくドライブで訪れた。帆柱からの夜景の方がキレイなのだろ
うが、私はこれまで一度も帆柱山に登ったことがない。登る機会が無かった
だけだが、それは今思うととても損をしていたのではないかと思う。
若松は私の母の生地である。ちょうど太平洋戦争に入る前後、祖父が若松
郵便局勤務で家族揃って若松で暮らした時期があるそうだ。若松郵便局で祖
父は作家・火野葦平の弟と同僚だったという。高塔山の麓、若松小学校の脇、
葦平の家も近い場所に住んでいたことを、昨年秋の吉田初三郎展で展示され
た「若松市鳥瞰図」肉筆原図の前で母に聴いた。
祖父は郵便局勤務の傍ら、測量の技術や書の腕を磨き、母の実家のある豊
前善光寺駅の駅名看板、その界隈の商店の看板の元字なども書いていたとい
う。趣味も多彩で、古銭や切手収集などの収集癖もあったという。私が生ま
れた年、在職中に吐血し倒れ亡くなった。そのため、私は祖父は写真でしか
会ったことがないが、入れ替わりに生まれた私は祖父の血を引き継いだよう
である。
祖父が若松にいたのは火野葦平が「糞尿単」で芥川賞を受賞し、『麦と兵
隊』などの兵隊三部作でベストセラー作家となった頃である。演習地として
知られる日出生台へ向けて鉄道を敷く計画の上で建設された豊州鉄道(日出
生鉄道)は、母の実家の最寄り駅である豊前善光寺駅から院内・安心院方面
へ向かう軽便鉄道。戦時中は多くの兵隊を輸送した。
この日、当初は自治総連合会の50周年記念写真集をチェックして、「河伯
洞」へ立ち寄るつもりだったが、修多羅市民センターで目的の記念誌を拝見
し、久しぶりに本町や大正町などの商店街を散策したくなった。都合のよい
ことに雨も上がり、カメラを構えて雨上がりの若松のまちを歩いた。行きが
がけの車の中から国道199号の沿道の町並みを眺めたが、拡張も含め明らか
に古い建物が急激に減っているのを実感したからだ。
まち歩きは約5年ぶり。以前は若松井筒屋(旧丸柏百貨店)に代わり、若
松駅前の高台にある修多羅市民センターから見える目立つ建物はホテルルー
トイン。駅前から商店街へ入ると、5年前から一段と閉鎖店舗が増えて活気
が失われていた。5年前に訪ねた古書店や書店も無い。旧大正町のえびす市
場なども同じで、土曜の午後だというのに人も疎ら。郊外にできたイオンに
客を奪われたのは一目瞭然だった。
13年ほど前にも撮影に来ているのだが、その時に印象的だった路地や建物
を探すが、あまりの変貌ぶりに見つけることができない。「おえべっさん=
恵比寿祭」の終わったばかりの若松恵比寿神社から渡船場へ抜ける道も、以
前から整備されてキレイになり、雑多なイメージは無くなっていた。
若戸大橋で戸畑側へ渡り、西鉄戸畑線と枝光線のルートや電停跡を辿る。
フォトブックの解説・写真選定に反映させるためと、現在風景沿線がどうな
っているかの確認のためである。判ってはいたが、旧枝光線沿いの緑豊かだ
った専用軌道区間(牧山界隈)も住宅が立ち並び、往時の痕跡はわずかに遺
る軌道跡と電停跡へ向かう階段くらい。浅生通りの商店街も予想以上に寂れ
ていて時代の流れを感じた一日だった。
今日の写真は若松・大正町商店街の奥にある丸仁市場。天ぷらと芋餅を買った。
新聞記事で若松の自治総連合会が50周年記念写真集をまとめたとあり、その
内容を確認したかったためである。福岡を車で出発した時刻、晴天だった空
模様は北九州が近づくにつれてどんよりとした曇り空となり、国道199号を
折尾から本城を抜けた頃にはポツポツと雨が降り出した。
子どもの頃、訪れた北九州の空は一様にどんよりした空だった。工場の煙
やスモッグの最盛期である。最近は環境都市への脱皮が成功し、空の印象も
高塔山や帆柱山を背景にした青空になって久しい。高塔山からの夜景が好き
で、若い頃はよくドライブで訪れた。帆柱からの夜景の方がキレイなのだろ
うが、私はこれまで一度も帆柱山に登ったことがない。登る機会が無かった
だけだが、それは今思うととても損をしていたのではないかと思う。
若松は私の母の生地である。ちょうど太平洋戦争に入る前後、祖父が若松
郵便局勤務で家族揃って若松で暮らした時期があるそうだ。若松郵便局で祖
父は作家・火野葦平の弟と同僚だったという。高塔山の麓、若松小学校の脇、
葦平の家も近い場所に住んでいたことを、昨年秋の吉田初三郎展で展示され
た「若松市鳥瞰図」肉筆原図の前で母に聴いた。
祖父は郵便局勤務の傍ら、測量の技術や書の腕を磨き、母の実家のある豊
前善光寺駅の駅名看板、その界隈の商店の看板の元字なども書いていたとい
う。趣味も多彩で、古銭や切手収集などの収集癖もあったという。私が生ま
れた年、在職中に吐血し倒れ亡くなった。そのため、私は祖父は写真でしか
会ったことがないが、入れ替わりに生まれた私は祖父の血を引き継いだよう
である。
祖父が若松にいたのは火野葦平が「糞尿単」で芥川賞を受賞し、『麦と兵
隊』などの兵隊三部作でベストセラー作家となった頃である。演習地として
知られる日出生台へ向けて鉄道を敷く計画の上で建設された豊州鉄道(日出
生鉄道)は、母の実家の最寄り駅である豊前善光寺駅から院内・安心院方面
へ向かう軽便鉄道。戦時中は多くの兵隊を輸送した。
この日、当初は自治総連合会の50周年記念写真集をチェックして、「河伯
洞」へ立ち寄るつもりだったが、修多羅市民センターで目的の記念誌を拝見
し、久しぶりに本町や大正町などの商店街を散策したくなった。都合のよい
ことに雨も上がり、カメラを構えて雨上がりの若松のまちを歩いた。行きが
がけの車の中から国道199号の沿道の町並みを眺めたが、拡張も含め明らか
に古い建物が急激に減っているのを実感したからだ。
まち歩きは約5年ぶり。以前は若松井筒屋(旧丸柏百貨店)に代わり、若
松駅前の高台にある修多羅市民センターから見える目立つ建物はホテルルー
トイン。駅前から商店街へ入ると、5年前から一段と閉鎖店舗が増えて活気
が失われていた。5年前に訪ねた古書店や書店も無い。旧大正町のえびす市
場なども同じで、土曜の午後だというのに人も疎ら。郊外にできたイオンに
客を奪われたのは一目瞭然だった。
13年ほど前にも撮影に来ているのだが、その時に印象的だった路地や建物
を探すが、あまりの変貌ぶりに見つけることができない。「おえべっさん=
恵比寿祭」の終わったばかりの若松恵比寿神社から渡船場へ抜ける道も、以
前から整備されてキレイになり、雑多なイメージは無くなっていた。
若戸大橋で戸畑側へ渡り、西鉄戸畑線と枝光線のルートや電停跡を辿る。
フォトブックの解説・写真選定に反映させるためと、現在風景沿線がどうな
っているかの確認のためである。判ってはいたが、旧枝光線沿いの緑豊かだ
った専用軌道区間(牧山界隈)も住宅が立ち並び、往時の痕跡はわずかに遺
る軌道跡と電停跡へ向かう階段くらい。浅生通りの商店街も予想以上に寂れ
ていて時代の流れを感じた一日だった。
今日の写真は若松・大正町商店街の奥にある丸仁市場。天ぷらと芋餅を買った。