marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(385回目)旧約聖書創世記は誰の目線で書かれたのか(創世記)

2017-07-13 21:58:48 | 日記
 天地の創造の時であるから、僕らの理性の判断で云々すべからず・・・は理解するとしても、創世記第2章の4節bから(一つ節の文の内容が分かれるとき、さらにa,b,c・・・との決めごとから)、急に又、どういう意味なのかなぁと疑問が湧いてくる。
◆「主なる神が地と天を造られたとき・・・(これは創造の2日までのことか?)」(2:4b)。2章の1節で「天地万物は完成された」としているのだから、さらにこの時点で、神はあのとき、つまり2日までの段階を振り返りながら、詳しく少し後で思い出しているのか、言い様を変えているのか・・・。創、出、レビ、民、申命記は、一応モーセが書いたと言われているけれど(モーセ五書と言われてますね)、末の文章にはモーセが亡くなったことも書かれているから、編集した人がいたのであろうけれど、この辺がモヤモヤの始まりなのでしたというか、きっともっと深い意味があるのだろうなと思ったりして来ました。(この疑問は、かなり年数が経ってから僕なりに解釈をして理解するようにはなったのだが・・・)
◆しかし、ヘブル語原典は文字の一つひとつの文字の関わり合いにも関係があるらしいので、今まで聖書をもっと親しみ易くと翻訳の更新が行われてきたけれど、これは、正しいことなのかどうかは僕は今のところはっきり意見をもっていない。と言ってもそれが行わなければ僕らも深い理解もできない訳ではあるが・・・。

◆脱線するけど、イスラム教の人々は聖典に同じ源を持つけれど、コーランは、原典の文字を変えてもいけないし、もともと原典は個人が読むものというより、聴くものであるという(塔の上から浪々と読まれる音を聞き、それの聴くものは感応し礼拝をする)。

◆いずれにしろ、創世記第2章の4節bからは、異なった目線で書かれたものであろうことは、推測ができるな。すると、この辺も一人の人が書いたものというより、今までの多くの貴重な書き物を慎重に、書き改めることなど無論できないから、選択し寄せ集めて編集したものではなかろうかというところまでは、畏れ多くも推論できそうだ。・・・ 続く