今回までの数日間のブランク・・・ 掲題で書き留めてきたことが投稿日時の設定の予約設定をしていたが、不思議に消えていたため再度、次のものを打ち直しているものですが、日替わりの時間帯に齟齬があると投稿されないのかなぁ 一日の内には投稿が一回だけなのかしら? 1度目投稿、2回目は投稿の時間予約は同じ日にはできないのでしたかねぇ・・・2度目を投稿し、プレビュー出確認し、それを更新して3回目に別の日に予約したら2度目の投句が全て消えていましたね。投稿文書は内部でコピーされていないのでそのものを更新してしまうと、投稿が最新のものに上書きされてしまうのですねきっと。クリスマスより大切な復活祭とされているので重要な長文だったのですがとても残念。で、落胆もありますが、表題イースターに係わる文章はいずれ、で、そのつぎの書き留めた文書を簡単に・・・
◆憲法九条については、多数のご意見もあると思うが、書いていけば憲法とはそもそも何ぞやとか、武器については核のことや諸々、武器商人の暗躍やら(いきなり来たか!)、軍事訓練など諸々キリが無くなるので、(というのは、ネットでも評論者の方々、多数意見があるのだが、その見解へのアプローチは、鰯の頭も信心からという類いで、ある一点からの意見であるように思うのですね)僕の結論から書きたい。これも無論、ある一点からとなるだろうけれど・・・。
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◆それは、やはり人の命のこと。日本の国の平和憲法と言われる戦争の放棄は、地上の人類の(おい、話が大きくなって来たなぁ)目指すべき理念となる「永遠法」に近いものである。大戦という世界中が巻き込まれ、世界の人があの戦争という経験了知の段階(先理解の周知の上での)終わりに発生したものだからです。人は体験(肉体への被災)を理解して、意識で理念に落とし込まれ、その普遍化、世界の人類はこれを目指さなければいけないと常に走り続けなければいけないということ。本来、日本はこれを目指さないといけないのです。これを人の世が替わればそれに合わせて法律も変える「人定法」と同じ次元で語ってはいけないし、採用することも不可能である。つまり、平和憲法については、人が人に起こす命への被災という(キリスト教から言えば)、神が自分の似姿に創造した最高傑作である人どうしが、あい違えて殺し合うのは、悪魔の思うつぼであるということになる。(これ「悪魔」も、今までのブログに僕なりの理解を書いてきた。キリスト教はともすればこの存在も観念的な遊びのようになるが理性的できちんとした考えがあります)
◆で、現時点にて、2018年イエスの復活祭は4月1日だったが、それから少し遡り、ゲッセマネの祈りの場の捕縛の場面で起こったこと、そしてイエスが弟子に語った結論がでないような進言。「今後は、武器を持て。剣をを持つ者は剣で滅びる。」であった。
一、憲法には、同じ次元として明記してはいけない(集団的自衛権がすでに出来ている。これを明記すれば悪魔はこの隙を狙うであろう。国民が認めたのだからと逆に国民を拘束する悪魔の手にゆだねることになる、実は今も戦争の由来を知っている闇の光を装う闇の人間は、世界の至る所で戦争を正統な理由をこしらえて戦争を起こすであろうから。この国の国民が認めたそして途方もない税金で借金しつつも今がこの肉体の安泰にとって良ければいいのだろうと。)
二、自衛のための武器は持つべき。雨が降れば傘を持つのは当たり前、自分が濡れないように。濡れるような処まで出て行くにはそれなりの自衛の武器は必要となる。そのためには、行く場の状況把握は、危険予知をして臨むこと。(原発でも迎撃ミサイルでも何でもだがこれが必要だというが、この国の政治家は実に科学的ではない・・・文書保存管理など当たり前のことが行われていないのか?、これも政治的なことがらなのか?)
三、武器は威嚇のために「能動的」には「使用してはいけない」。
四、国によっては、思想的に発展段階途上の国があり、平和の希求をなすべく啓蒙活動をなし続けること。これについては立ち止まってはいけない。・・・ 続く
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◆前回からの続き・・・政治からみであると・・・僕が語ってきたところの”肉体の安泰”に関わる仕組みにも影響を及ぼすので、特にキリスト教の場合は宗教といっても社会への仕組みまでを変えてきたのでとても無関心ではいられないというところです。この国の考えの基が、あの大戦を”人間”というものは何故殺しあいを、という世界的視点からの人命に係わる総括的な見解として日本側から提案されたものだそうで、幣原内閣側からマッカーサーに提示されたというのがアメリカ国会図書館に残されているそうで、少なくとも第九条は押しつけではないようです。妥協案というのを提示されたというのはあったのでしょうけれどねぇ・・・。
◆政治からみのことを書こうとしたのは、この地方の自民党の若い県政レポートとして、自身の自衛隊派遣の経験を踏まての「憲法改正」の必要性について述べている内容。はっきり言って、逆に緩い。80%以上、原油を中東に依存し、治安維持はこの国はやらないなどという考えを怒っているようだ、人的貢献なくて国際社会の信頼は得られない、・・・などなど、理屈は分かるが、憲法に自衛隊を書き込まなくてもできることだ。自衛隊に入り派遣経験もあり、その経験から他国に守ってもらったり、武器使用の制約によって忸怩(ジクジ)たる思いをしたというが、その制約によって危険にさらされなかったことは幸運だったと矛盾したことを述べている。
◆実際に本当に死ぬような目に遭えば、こんな事態は人類にあってはいけないと願うはずである。そこまで行っていないで、僕から言わせれば鬼退治の段階。戦争を起こしているのは鬼ではなく相手は悪魔であることを思い知るべし。集団的自衛権は成立しているわけだから、嫌でも武器の持っていないこの国は、購入と維持をどうするか、今では開発まで手をだそうとしている。つまり、戦争があった方がお金が動くのだから、。一度、乗りかかった舟に乗り込むと、戦争なくともずっとメンテナンスと維持費、払い続けることになる。
◆一台1000億と言われる迎撃ミサイルなども、効果の程は乏しい、環境も問題ありなのだ、中途半端で大変なものを抱え込んで大惨事のことを忘れたのかしら、この国は。ここで、先のブログに書いたのだが、イエスが、捕縛の夜に「剣を持てといい。しかし、剣を持つものは剣で滅びるであろう」と言われたことを思い巡らすべし。彼は、結論を出していないようにも読める。そこが人類の課題となるわけである。争い人殺しをするのは、この地上の人間なのである。人は法律を作って本来、安住してはいけないのである。平和維持のためにかなり努力を不断からしていないといけない。そのためには、やはり鬼退治の段階から卒業して、光を装う悪魔に対抗するように普段から学ばないといけない為政者は。
◆例えば、国民が言葉を持つ、自国の歴史を語り、人というものはこういう生きものなのだ。手段のみを使えるそういう教育がなされていないこと。「友達は国境を越えて」 文科省のポスターに疑義を呈した議員がいて、まず、国境があり国のアイデンテッティーが保たれるべきであろう故に、ただ漫然とノー天気なことを教えてもこれからの時代 国と国とは目に見える争いは無くとも弱肉強食の中にあるのである、であるとすればなおさら、その思考の弱肉基盤を教育でつくるところの土台を何処に持って行くかなのである。そこで道徳教育、森友学園では教育勅語をそらんじさせていたのだから、
ここで、キリスト教は、実に戦略的に危ないと、考えられている。それはこの国においても殉教者などを出して来たことからも分かる。が、もしそれが信者の殉教に対する気の毒、憐れみの感情のみから批判や、肯定をするのであれば、新人類が登場しつつある現代においてそれは味方を全く変え、次元を数段あげなくてはならないと思われる。
◆それは、地上に生きる生き物としての動きから、キリスト教は世界性を初めから持ったものなのであった。世界に行ってわたしの弟子とせよ、と弟子達に言われ天に帰っていく。しかし、地上の人間は自分の利害を考慮しながらそれを進めて行く生き物である。イグナティウス・ロヨラからイエズス会が創設されていき、国に忠誠の騎士道をまといつつ、その基盤として国の植民地化の下地にも影響を与えられざるを得なくなって、これは罪ある人間には必然的に起こり得ることなのであるが、この日本の国の為政者は、その人の国を形成する忠誠心、アイデンティーという根幹に影響を与えてしまうことをすぐに読み取った。イデオロギーによる言葉化による意識化を計り、その方向性を決めていく人気のなさに比べ、生き物としてもつ心情からみの思い込みとその行く末の操作は、こと国の行く末に係わるとなると将来的に抜き差しのならない教えとなる。政治においては大衆は愚衆であることが望ましい。大量にお金をばらまいて、大衆の人という生き物のその生き物が持っているところの”肉体に引きずられる言葉”の安定化を図ろうとする。
◆この国は明確に死に賭ける言葉によって主張をしたことがないからだ。この国の思想家は、言葉を越えようとすれば自死しかないのか?
そう願う、思う、当の自分という生き物はそもそもどういう生き物であるのかを疑うこと。それには、やはり、人という者を創造した神と三島由紀夫や最近では西部 邁(ススム)という存在と会話をしなければ始まらないのではないだろうか。
主体性を持たせるどうのこうとか、主張をしかりするとか・・・などといってもそもそも、その人というものはどういうものか、をまず知ること、それが如何に肉体に引きずられる言葉に影響を受けているかなどとは、自省しなければ、つまり、その制約のある人間、キリスト教的には、それぞれがそれぞれの十字架の課題を背負って我に従えとの賜っている訳だ。それが、人生の宿題といえるのです。
そういう人から見れば、キリスト教は軟弱人間をつくることにあるし、軟弱基盤をつくる土台であろうし、敵のスパイの温床の養育機関ということになる。この言葉が過激であると思われる方は、言い方を変えると・・・事実、そう思っている人は多い。
◆人が世相に振り回されるのはかなり医学生理学的にも緻密に試みることも行わなければ、かなり危ういものとなるだろう。というようなことから始めないといけない時代にとうになっているのだ。
例えば、隣国、北朝鮮での自主性と主体性とは、どこにその思考の土台があるのか・・・人は、時代、教育、文化、伝統、諸々社会環境などにより、考えは異なるのである。さらに、体調などにより、朝礼暮改であってもまったく当の本人は気が付かず平然としている者がいることなどである。それは、すでにあのイエスが十字架に掛かられた時の話の中に全て現れている。エルサレム入場にホサナと叫んで歓迎した民衆が、今度は十字架上にイエスをつけろ! と叫んだのだから、無論、常識的にその中での区別される人々があっただろうから、全てそうだとは言わない、しかし、時代が下ってもあの大戦のさなか、体制側に立ってユダヤ人を強制収容所に送る幇助をしたユダヤ人達もいたのだ、ユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレントがそれを語り、ユダヤ人に大いに嫌われている理由もそこにあるが、つまり僕らは人間は如何に責任と判断が曖昧かということを指摘、しがらみというか肉体が安住しているその居所を第一と考えるかなど、僕らは考え続けなければ凡庸な悪に陥ると言っているのです。あのドストエフスキーが「人は神がいなければなんでもできる」ということに異議を述べる人は、時代に生きる人という生き物を知らないだけなのだと思う。
あの封建時代、映画「沈黙」の中にも斬首される場面が出てくるが、実際はもっとひどく、あの時代は農民は牛や馬と同等に見られたし、隣国中国雲南省でも召使いの人体の皮を剥いで(無論死んでからだろうけれど)飾りとして掲げられているのを見たことがある。之はとても尊ばれていた召使いへの思い出を大切にしていたのかもしれない。
所詮、人間というのは普遍的な人道とか倫理とか、客観的にあるであろうと思い込んでいる道徳心のようなものは究極、無いようなものなのである。はっきり言えば、それはキリスト教が世界に伝搬して人というもの命の普遍性が初めて唱えられるようになったのである。ハンナ・アーレントが全てのしがらみをとり除いたとき(これは悪い意味は無論、よい意味でも”しがらみ”つまり肉体の安住第一への隷属しているという時代に生きる人間の限界というべきか)何が残るのか、果たして人類共通の良心ごときは残っているのかと問うているのが「責任と判断」という本で、大いに刺激を受けた。
◆そもそも、新約聖書初めに出てくるマタイ福音書からしてそうだろう。初めて読む人には、何やら訳の分からない系図からして、彼、徴税人マタイはそれを書いて、その謂われを知っているユダヤ人達にまず、どうしてもイエスという存在を知らしめたかったのだから。彼は、当時のローマという体制側の税を徴収するユダヤ人社会から嫌われていた選ばれたユダヤ人だったのだから。イエスは彼に声を掛けともに彼の家で食事をした。マタイは、不正に徴税していた分を猛省する、イエスは言った「救いはこの家に来た」と。この人間という動物、神の最高傑作として「人」の内からの芯の部分からの変貌も促すものなのであろうと思う。
僕らの絶対ということが如何にいい加減なものであるか。
◆アメリカの破綻は、普段でも優位を保つために相手が馬であれば、人参を目の前にぶら下げて、行く先に穴を掘ることを行うのだ、しかも言うことを聞かないと、そのようなことも今後も行うと相手に気づかせること、なおかつ、その公の証拠も分からなくするから相手が反証もできないことを日の下で行うのである。ウクライナ上空での旅客機、当時名はロシアに撃墜とのニュースだったが、マレーシア航空の行方不明機は、マハティールもと首相は何故、航空会社とアメリカCIAは沈黙しているかと疑念を提示していた。数日後に、中国での会議があったはず。少しの身近な日常の異常から、行く末がおかしくなるかもとの予測は付くのではなかろうか。何度も書くが、悪魔は光の天使を装っているのだ。
◆もの作りには、ハインリッヒの法則というのがある。調べたし。ヒヤリはっと 一つの事象の異変があればその同類の危険が30はあり、さらにはその予備軍が299はあるという法則なのだが、全体を把握するまでもなく、之は僕らの日常の一端からも感知することが出来るのである。・・・ Ω
◆憲法九条については、多数のご意見もあると思うが、書いていけば憲法とはそもそも何ぞやとか、武器については核のことや諸々、武器商人の暗躍やら(いきなり来たか!)、軍事訓練など諸々キリが無くなるので、(というのは、ネットでも評論者の方々、多数意見があるのだが、その見解へのアプローチは、鰯の頭も信心からという類いで、ある一点からの意見であるように思うのですね)僕の結論から書きたい。これも無論、ある一点からとなるだろうけれど・・・。
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◆それは、やはり人の命のこと。日本の国の平和憲法と言われる戦争の放棄は、地上の人類の(おい、話が大きくなって来たなぁ)目指すべき理念となる「永遠法」に近いものである。大戦という世界中が巻き込まれ、世界の人があの戦争という経験了知の段階(先理解の周知の上での)終わりに発生したものだからです。人は体験(肉体への被災)を理解して、意識で理念に落とし込まれ、その普遍化、世界の人類はこれを目指さなければいけないと常に走り続けなければいけないということ。本来、日本はこれを目指さないといけないのです。これを人の世が替わればそれに合わせて法律も変える「人定法」と同じ次元で語ってはいけないし、採用することも不可能である。つまり、平和憲法については、人が人に起こす命への被災という(キリスト教から言えば)、神が自分の似姿に創造した最高傑作である人どうしが、あい違えて殺し合うのは、悪魔の思うつぼであるということになる。(これ「悪魔」も、今までのブログに僕なりの理解を書いてきた。キリスト教はともすればこの存在も観念的な遊びのようになるが理性的できちんとした考えがあります)
◆で、現時点にて、2018年イエスの復活祭は4月1日だったが、それから少し遡り、ゲッセマネの祈りの場の捕縛の場面で起こったこと、そしてイエスが弟子に語った結論がでないような進言。「今後は、武器を持て。剣をを持つ者は剣で滅びる。」であった。
一、憲法には、同じ次元として明記してはいけない(集団的自衛権がすでに出来ている。これを明記すれば悪魔はこの隙を狙うであろう。国民が認めたのだからと逆に国民を拘束する悪魔の手にゆだねることになる、実は今も戦争の由来を知っている闇の光を装う闇の人間は、世界の至る所で戦争を正統な理由をこしらえて戦争を起こすであろうから。この国の国民が認めたそして途方もない税金で借金しつつも今がこの肉体の安泰にとって良ければいいのだろうと。)
二、自衛のための武器は持つべき。雨が降れば傘を持つのは当たり前、自分が濡れないように。濡れるような処まで出て行くにはそれなりの自衛の武器は必要となる。そのためには、行く場の状況把握は、危険予知をして臨むこと。(原発でも迎撃ミサイルでも何でもだがこれが必要だというが、この国の政治家は実に科学的ではない・・・文書保存管理など当たり前のことが行われていないのか?、これも政治的なことがらなのか?)
三、武器は威嚇のために「能動的」には「使用してはいけない」。
四、国によっては、思想的に発展段階途上の国があり、平和の希求をなすべく啓蒙活動をなし続けること。これについては立ち止まってはいけない。・・・ 続く
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◆前回からの続き・・・政治からみであると・・・僕が語ってきたところの”肉体の安泰”に関わる仕組みにも影響を及ぼすので、特にキリスト教の場合は宗教といっても社会への仕組みまでを変えてきたのでとても無関心ではいられないというところです。この国の考えの基が、あの大戦を”人間”というものは何故殺しあいを、という世界的視点からの人命に係わる総括的な見解として日本側から提案されたものだそうで、幣原内閣側からマッカーサーに提示されたというのがアメリカ国会図書館に残されているそうで、少なくとも第九条は押しつけではないようです。妥協案というのを提示されたというのはあったのでしょうけれどねぇ・・・。
◆政治からみのことを書こうとしたのは、この地方の自民党の若い県政レポートとして、自身の自衛隊派遣の経験を踏まての「憲法改正」の必要性について述べている内容。はっきり言って、逆に緩い。80%以上、原油を中東に依存し、治安維持はこの国はやらないなどという考えを怒っているようだ、人的貢献なくて国際社会の信頼は得られない、・・・などなど、理屈は分かるが、憲法に自衛隊を書き込まなくてもできることだ。自衛隊に入り派遣経験もあり、その経験から他国に守ってもらったり、武器使用の制約によって忸怩(ジクジ)たる思いをしたというが、その制約によって危険にさらされなかったことは幸運だったと矛盾したことを述べている。
◆実際に本当に死ぬような目に遭えば、こんな事態は人類にあってはいけないと願うはずである。そこまで行っていないで、僕から言わせれば鬼退治の段階。戦争を起こしているのは鬼ではなく相手は悪魔であることを思い知るべし。集団的自衛権は成立しているわけだから、嫌でも武器の持っていないこの国は、購入と維持をどうするか、今では開発まで手をだそうとしている。つまり、戦争があった方がお金が動くのだから、。一度、乗りかかった舟に乗り込むと、戦争なくともずっとメンテナンスと維持費、払い続けることになる。
◆一台1000億と言われる迎撃ミサイルなども、効果の程は乏しい、環境も問題ありなのだ、中途半端で大変なものを抱え込んで大惨事のことを忘れたのかしら、この国は。ここで、先のブログに書いたのだが、イエスが、捕縛の夜に「剣を持てといい。しかし、剣を持つものは剣で滅びるであろう」と言われたことを思い巡らすべし。彼は、結論を出していないようにも読める。そこが人類の課題となるわけである。争い人殺しをするのは、この地上の人間なのである。人は法律を作って本来、安住してはいけないのである。平和維持のためにかなり努力を不断からしていないといけない。そのためには、やはり鬼退治の段階から卒業して、光を装う悪魔に対抗するように普段から学ばないといけない為政者は。
◆例えば、国民が言葉を持つ、自国の歴史を語り、人というものはこういう生きものなのだ。手段のみを使えるそういう教育がなされていないこと。「友達は国境を越えて」 文科省のポスターに疑義を呈した議員がいて、まず、国境があり国のアイデンテッティーが保たれるべきであろう故に、ただ漫然とノー天気なことを教えてもこれからの時代 国と国とは目に見える争いは無くとも弱肉強食の中にあるのである、であるとすればなおさら、その思考の弱肉基盤を教育でつくるところの土台を何処に持って行くかなのである。そこで道徳教育、森友学園では教育勅語をそらんじさせていたのだから、
ここで、キリスト教は、実に戦略的に危ないと、考えられている。それはこの国においても殉教者などを出して来たことからも分かる。が、もしそれが信者の殉教に対する気の毒、憐れみの感情のみから批判や、肯定をするのであれば、新人類が登場しつつある現代においてそれは味方を全く変え、次元を数段あげなくてはならないと思われる。
◆それは、地上に生きる生き物としての動きから、キリスト教は世界性を初めから持ったものなのであった。世界に行ってわたしの弟子とせよ、と弟子達に言われ天に帰っていく。しかし、地上の人間は自分の利害を考慮しながらそれを進めて行く生き物である。イグナティウス・ロヨラからイエズス会が創設されていき、国に忠誠の騎士道をまといつつ、その基盤として国の植民地化の下地にも影響を与えられざるを得なくなって、これは罪ある人間には必然的に起こり得ることなのであるが、この日本の国の為政者は、その人の国を形成する忠誠心、アイデンティーという根幹に影響を与えてしまうことをすぐに読み取った。イデオロギーによる言葉化による意識化を計り、その方向性を決めていく人気のなさに比べ、生き物としてもつ心情からみの思い込みとその行く末の操作は、こと国の行く末に係わるとなると将来的に抜き差しのならない教えとなる。政治においては大衆は愚衆であることが望ましい。大量にお金をばらまいて、大衆の人という生き物のその生き物が持っているところの”肉体に引きずられる言葉”の安定化を図ろうとする。
◆この国は明確に死に賭ける言葉によって主張をしたことがないからだ。この国の思想家は、言葉を越えようとすれば自死しかないのか?
そう願う、思う、当の自分という生き物はそもそもどういう生き物であるのかを疑うこと。それには、やはり、人という者を創造した神と三島由紀夫や最近では西部 邁(ススム)という存在と会話をしなければ始まらないのではないだろうか。
主体性を持たせるどうのこうとか、主張をしかりするとか・・・などといってもそもそも、その人というものはどういうものか、をまず知ること、それが如何に肉体に引きずられる言葉に影響を受けているかなどとは、自省しなければ、つまり、その制約のある人間、キリスト教的には、それぞれがそれぞれの十字架の課題を背負って我に従えとの賜っている訳だ。それが、人生の宿題といえるのです。
そういう人から見れば、キリスト教は軟弱人間をつくることにあるし、軟弱基盤をつくる土台であろうし、敵のスパイの温床の養育機関ということになる。この言葉が過激であると思われる方は、言い方を変えると・・・事実、そう思っている人は多い。
◆人が世相に振り回されるのはかなり医学生理学的にも緻密に試みることも行わなければ、かなり危ういものとなるだろう。というようなことから始めないといけない時代にとうになっているのだ。
例えば、隣国、北朝鮮での自主性と主体性とは、どこにその思考の土台があるのか・・・人は、時代、教育、文化、伝統、諸々社会環境などにより、考えは異なるのである。さらに、体調などにより、朝礼暮改であってもまったく当の本人は気が付かず平然としている者がいることなどである。それは、すでにあのイエスが十字架に掛かられた時の話の中に全て現れている。エルサレム入場にホサナと叫んで歓迎した民衆が、今度は十字架上にイエスをつけろ! と叫んだのだから、無論、常識的にその中での区別される人々があっただろうから、全てそうだとは言わない、しかし、時代が下ってもあの大戦のさなか、体制側に立ってユダヤ人を強制収容所に送る幇助をしたユダヤ人達もいたのだ、ユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレントがそれを語り、ユダヤ人に大いに嫌われている理由もそこにあるが、つまり僕らは人間は如何に責任と判断が曖昧かということを指摘、しがらみというか肉体が安住しているその居所を第一と考えるかなど、僕らは考え続けなければ凡庸な悪に陥ると言っているのです。あのドストエフスキーが「人は神がいなければなんでもできる」ということに異議を述べる人は、時代に生きる人という生き物を知らないだけなのだと思う。
あの封建時代、映画「沈黙」の中にも斬首される場面が出てくるが、実際はもっとひどく、あの時代は農民は牛や馬と同等に見られたし、隣国中国雲南省でも召使いの人体の皮を剥いで(無論死んでからだろうけれど)飾りとして掲げられているのを見たことがある。之はとても尊ばれていた召使いへの思い出を大切にしていたのかもしれない。
所詮、人間というのは普遍的な人道とか倫理とか、客観的にあるであろうと思い込んでいる道徳心のようなものは究極、無いようなものなのである。はっきり言えば、それはキリスト教が世界に伝搬して人というもの命の普遍性が初めて唱えられるようになったのである。ハンナ・アーレントが全てのしがらみをとり除いたとき(これは悪い意味は無論、よい意味でも”しがらみ”つまり肉体の安住第一への隷属しているという時代に生きる人間の限界というべきか)何が残るのか、果たして人類共通の良心ごときは残っているのかと問うているのが「責任と判断」という本で、大いに刺激を受けた。
◆そもそも、新約聖書初めに出てくるマタイ福音書からしてそうだろう。初めて読む人には、何やら訳の分からない系図からして、彼、徴税人マタイはそれを書いて、その謂われを知っているユダヤ人達にまず、どうしてもイエスという存在を知らしめたかったのだから。彼は、当時のローマという体制側の税を徴収するユダヤ人社会から嫌われていた選ばれたユダヤ人だったのだから。イエスは彼に声を掛けともに彼の家で食事をした。マタイは、不正に徴税していた分を猛省する、イエスは言った「救いはこの家に来た」と。この人間という動物、神の最高傑作として「人」の内からの芯の部分からの変貌も促すものなのであろうと思う。
僕らの絶対ということが如何にいい加減なものであるか。
◆アメリカの破綻は、普段でも優位を保つために相手が馬であれば、人参を目の前にぶら下げて、行く先に穴を掘ることを行うのだ、しかも言うことを聞かないと、そのようなことも今後も行うと相手に気づかせること、なおかつ、その公の証拠も分からなくするから相手が反証もできないことを日の下で行うのである。ウクライナ上空での旅客機、当時名はロシアに撃墜とのニュースだったが、マレーシア航空の行方不明機は、マハティールもと首相は何故、航空会社とアメリカCIAは沈黙しているかと疑念を提示していた。数日後に、中国での会議があったはず。少しの身近な日常の異常から、行く末がおかしくなるかもとの予測は付くのではなかろうか。何度も書くが、悪魔は光の天使を装っているのだ。
◆もの作りには、ハインリッヒの法則というのがある。調べたし。ヒヤリはっと 一つの事象の異変があればその同類の危険が30はあり、さらにはその予備軍が299はあるという法則なのだが、全体を把握するまでもなく、之は僕らの日常の一端からも感知することが出来るのである。・・・ Ω