また、3時に目覚めた。昨日は、沢山のことを消化した。しかし、本来、日記とは細々と日々の行ったことを記録するものでもあるのだろうけれど、これもブログは公共性のあるもので、私的と公共性の境目が不明になってくるものでもあるから、人とはいかなるものかなどと
その現象系としての見、聞き、話す、というような自分の日常の生活を点検してみるならば、僕の場合は、やはり、この肉体の疲れとかから来る思考の障害と闘っているな・・・と改めて思う。で、それでは、肉体の疲れなどを全く意識しなかった遠い?昔の若かりし頃といえば、これまた、そんなことなど微塵も考えない、言葉など浮かんでこない一人の阿呆な、それでも人生いかなるものかと模索する根暗なひとりの男がぽつんといるばかりだ。大人になるといことは、何でも可能だと思っていたことが現実不可能だったと知っていく過程であることを思わされた次第。
◆僕らの時代は、だからなのか、ブームを巻き起こしたこれも古い時代になりつつあるがマルクスの「資本論」以降の次の世代で、新しい思考とは、その時代の世界に生きる「人間学」というもの、この前には諸々、哲学、心理学、そしてまたこれはどんどん内向的になりそもそもあれこれ切った貼ったをやっている人という者は何なのかという。その人自体を知っていく学問が始まったということ・・・。
人間学などというのは、これには、全てが含まれてしまう名称の学問だな。で、普段の人々から嫌煙されるものではなく、普段の僕らの生活の淡々とした日常生活の中に学問の対象がありということである。僕らは、一人ではなく、誰しもがこの生きている空間を人に知られなくても、尊いものとして(一応)存在させられているいるわけだから、死に際には誰かの世話にならなければいけないこととしても生きている証明、自己確認、自己認識を残していくか、存在を何か理解されるものに繋がっていることを願っている訳ですね。
◆それで、その繋がっている基底なのです。やはり、ここにどうしても僕は(わたしは)という再確認が入ってくる。つまり、言葉の要求があるわけだ。そして、人は自分のことであるにも係わらず、自分に聞こうともしない。何故かと言えば、それを知ったところで(言葉化したところで)カトリックの懺悔室でもあるまいし、その消化解消となる基底、仕組みが自分の肉体の外部にもっていなければ、自分は何やってんのという、自己嫌悪になる以外にあるまいということになる。
◆いつの時代にも、求められるであろうその基底。いきなり、また話が大きくなるが、僕にとってはいのちを与えている、今も生きて働いているという目には見えない神(活動としては「霊」、悪霊もあるということなので、キリスト(救い主)の「霊=聖霊」)という存在を措定しなくてならなくなるのです。「仮に・・・」ではなく、「自分が存在するそのこと自体がそもそも、それが働いているという事実」ということ。キリスト等と書くと、少しドン引きの人は、まさにデリケートな僕が書いてきた”しがらみ”に引きずられていると思うので、決してそうではなく、誰にでも当てはまる普遍的なことなのです(極端に書けば「機械的な霊の法則」なのだ)ということを考えて欲しいのですが、つまり、内なる外部?に完全な人(ここでは、対話するキリスト・イエスという方)を認めなければ、会話がそもそも始まらないということになってくるのである。
◆だから、世界のベストセラーには、新約聖書といえども彼、イエスが語られたことに対しては、この地上の僕らは、一面簡単に答えを出すのではなく、不完全な欠陥のある人類よ、真摯に生きて行く過程でその答えを模索して生きよ、と促しているのが彼の言葉への返答を要求する自分という人の言葉なのである。その自らの言葉を探し求め続ければ、彼の形に少しでも近づいていくことが出来るように思われるのである。例えば「自分を捨て、自分の十字架を背負い、我に従え」と言い、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ともイエスは言った。そら、出た。ここでの「自分」とは、そもそも何者なのか。ここで、自分という神の似姿に造られしも、欠陥だらけの自分を把握する言葉が要求されるのである。その自分という人が、現実生活の中で、言動一致の生活をするに様々な言葉が要求されてくるのである。
◆あの時代、ギリシャでの哲学があり、プラトン以降の哲学は、その解説に過ぎないと言われた程の影響をあの時代世界に与え、また、その影響下で自分の肉の生活からの離脱の言葉を模索した著名な教父アウグス・チヌスの「告白」は今でもキリスト者に必ずと言っていいほど知られているのである。・・・
その現象系としての見、聞き、話す、というような自分の日常の生活を点検してみるならば、僕の場合は、やはり、この肉体の疲れとかから来る思考の障害と闘っているな・・・と改めて思う。で、それでは、肉体の疲れなどを全く意識しなかった遠い?昔の若かりし頃といえば、これまた、そんなことなど微塵も考えない、言葉など浮かんでこない一人の阿呆な、それでも人生いかなるものかと模索する根暗なひとりの男がぽつんといるばかりだ。大人になるといことは、何でも可能だと思っていたことが現実不可能だったと知っていく過程であることを思わされた次第。
◆僕らの時代は、だからなのか、ブームを巻き起こしたこれも古い時代になりつつあるがマルクスの「資本論」以降の次の世代で、新しい思考とは、その時代の世界に生きる「人間学」というもの、この前には諸々、哲学、心理学、そしてまたこれはどんどん内向的になりそもそもあれこれ切った貼ったをやっている人という者は何なのかという。その人自体を知っていく学問が始まったということ・・・。
人間学などというのは、これには、全てが含まれてしまう名称の学問だな。で、普段の人々から嫌煙されるものではなく、普段の僕らの生活の淡々とした日常生活の中に学問の対象がありということである。僕らは、一人ではなく、誰しもがこの生きている空間を人に知られなくても、尊いものとして(一応)存在させられているいるわけだから、死に際には誰かの世話にならなければいけないこととしても生きている証明、自己確認、自己認識を残していくか、存在を何か理解されるものに繋がっていることを願っている訳ですね。
◆それで、その繋がっている基底なのです。やはり、ここにどうしても僕は(わたしは)という再確認が入ってくる。つまり、言葉の要求があるわけだ。そして、人は自分のことであるにも係わらず、自分に聞こうともしない。何故かと言えば、それを知ったところで(言葉化したところで)カトリックの懺悔室でもあるまいし、その消化解消となる基底、仕組みが自分の肉体の外部にもっていなければ、自分は何やってんのという、自己嫌悪になる以外にあるまいということになる。
◆いつの時代にも、求められるであろうその基底。いきなり、また話が大きくなるが、僕にとってはいのちを与えている、今も生きて働いているという目には見えない神(活動としては「霊」、悪霊もあるということなので、キリスト(救い主)の「霊=聖霊」)という存在を措定しなくてならなくなるのです。「仮に・・・」ではなく、「自分が存在するそのこと自体がそもそも、それが働いているという事実」ということ。キリスト等と書くと、少しドン引きの人は、まさにデリケートな僕が書いてきた”しがらみ”に引きずられていると思うので、決してそうではなく、誰にでも当てはまる普遍的なことなのです(極端に書けば「機械的な霊の法則」なのだ)ということを考えて欲しいのですが、つまり、内なる外部?に完全な人(ここでは、対話するキリスト・イエスという方)を認めなければ、会話がそもそも始まらないということになってくるのである。
◆だから、世界のベストセラーには、新約聖書といえども彼、イエスが語られたことに対しては、この地上の僕らは、一面簡単に答えを出すのではなく、不完全な欠陥のある人類よ、真摯に生きて行く過程でその答えを模索して生きよ、と促しているのが彼の言葉への返答を要求する自分という人の言葉なのである。その自らの言葉を探し求め続ければ、彼の形に少しでも近づいていくことが出来るように思われるのである。例えば「自分を捨て、自分の十字架を背負い、我に従え」と言い、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ともイエスは言った。そら、出た。ここでの「自分」とは、そもそも何者なのか。ここで、自分という神の似姿に造られしも、欠陥だらけの自分を把握する言葉が要求されるのである。その自分という人が、現実生活の中で、言動一致の生活をするに様々な言葉が要求されてくるのである。
◆あの時代、ギリシャでの哲学があり、プラトン以降の哲学は、その解説に過ぎないと言われた程の影響をあの時代世界に与え、また、その影響下で自分の肉の生活からの離脱の言葉を模索した著名な教父アウグス・チヌスの「告白」は今でもキリスト者に必ずと言っていいほど知られているのである。・・・