”しがらみ” と書いているが、僕らが何とも疑問にも思わない生前から当たり前のこととしてインプットされている物事の判断基準となるまずは人に備わった”良心”というものへの疑問。
◆僕がブログを書き始めてからの、キリスト教を知るときにどうしても道徳的判断である良心からのアピールが先観念として誰でもあるというその阻害。
天地創造の時、神が「人はわれわれと同じように永遠に生きるかもしれない」(旧約聖書:創世記)と危惧したことについて。
それは、エデンの園の中央の”命の木”と”善悪を知る木”のうち”善悪を知る木”の実を食べてはいけないと言われた事柄についての疑問につながる。”命の木”については、現代では驚くことに、人の遺伝子解明がなされて、クリスパーキャス9とう装置で人のゲノム編集までできるようになっている。遺伝子編集によって、この地上に誕生する前から優秀な人を生まれさせようとすれば、かなりの確立でそれが実現出来る世界になってきたということだ。 ・・・で、食べてしまったのは、善悪を知る木であった。
それから気になっていたこと、アダムはエバが蛇(悪魔)に唆され、神の約束を破り木の実を食べてしまったことに対して、エバを叱責しなかったのはどうしてなのか? それは、最初の人アダムには、まさに”善悪を知る”その判断基準がまだ備わっていなかったから ということになりますね、きっと。アダムの愛の対象とのみなろうとする現代の女性においても、アダムがこの辺の宗教談義に近い状況の中になると気をつけないと必ず破局に向かうから注意しないといけない。・・・これは余談。
◆詰まるところ、人や住む環境(国)や歴史や伝統、つまりその時代により、この地上にとって普遍的なその判断基準なる明確なものはない、ということになる。それは時代の進展により、キリスト教的に言えば、「天になるごとく地にもなさえせたまえ」と”主の祈り”にあるごとく、そのイエスの再来(再び地上に迎えになることになっています)に当たり、この地上の人が目には見えない「神の霊」と共に、壊滅させようとしている悪魔との闘いによって、漸次、光が勝って来たということなのだが、ご存じ悪魔は人そのものが、神と共にある事実を知り始め行き場が無くなってあがき始めて、世界中の人が、その惨状をフェイク(嘘)かどうかも含め知るようになってきたということだ。悪魔も光を装い来るからわかり難い。悪魔は、天地創造をも一任された優秀な天使の一人であったが、神の創造の力に嫉妬し、神の怒りを受けて堕天使となり地上に落とされ天上に帰れなくなってこの地上で、神の創造の業を破壊しようと活動を続けている・・・
◆ここで宗教どうのこうのという人世界の議論を越えて、そもそも、古来から言われた来た見えない世界がある、永遠がある、天国がある(涅槃がある)、キリストの父なる神がおられる、アラーがおられる、大日如来がおられる、阿弥陀仏がおられる・・・など いずれ、そのように人類が、求め、願い信じているその対象を不完全な僕らは物体として確かめようが無いけれど、信じて生きている人という生き物の”霊”(これ全然、薄気味悪いものとしてではなく)が、その事実が、知らしめられて来たということです。・・・ で、どうしてそれが、観念的とか、薄気味悪いとか(そもそも人は知らないことに、なおかつ自分の考えに他人の言葉が介入せんとする事柄に対しては自由束縛の障害としてすべて拒絶するように出来ている)で、いい加減な科学的なものではないと拒絶するのか。科学的、検証再現が第三者にも分かると示されないところが困難なところだが、全く人の定めて理解している宗教というもの抜きに、まずは、いかなる人にも該当する「霊の法則」があることを開示したのが、新約のイエスであると僕は信じている訳です。神学的には「世界の終わりの始まり」がイエスから起こったと言われる所以です。西暦2018年、実際には3年ほどずれがあるらしいが、ご存じのようにイエス誕生から2018年経過したということですね。
◆新しい時代、新しい人間とは、もっと見えない事実というか、そのリアルさというか、「人はなんで生きるか」(トルストイの書いたお話にこの題名があり、僕はとても好きな話・・・ ここではそうではなく・・・)という命題に、人そのものは何か(ここの底辺には、このブログを読まれてきた方には神は自分の似姿に人を創造されたとあるから人を知れば神を知ることにもなるだろうという措定があります)ということをどなたでも考えてもらって新しい時代になっていくのに備えて欲しい思いがするのです。
◆世の中はとても便利にもなり、といっても多くの国はその恩恵にまだ遠い国はあるが、人の機能の延長としての見る、聞く、思考する、移動する・・・などへの便利さの開発が技術として成り立ってきた訳です。しかも、いまや心の中の解明も同時に行われて来た訳です。それが、哲学であり、心理学であり つまり人とは何か、その集団とは、歴史とは、あるいは宗教も含めて・・・それに、科学、それには医学、衛生、環境 ・・・etc。 煎じ詰めれば、人類が平和に健康的で長生きし、しかも物質的に満たされなくともハッピーな気持ちで生きられるという世界を目指して来ているのです。しかし、・・・
◆僕ら人間が、つまり自分は確実にこの地上の生涯をおえるのですからということを、誰にでも知ってもらって、その土台を理解してから普段の生活をして欲しい・・・と説教じみたことから始めました。
そのために、全ての”しがらみ”を拭い去りつつ、闘いをしつつ人生を歩まねばなりません。最後は、自分の生まれてしまっては編集しなおすことができないゲノム(これを”自分のしがらみ”とみなします)を一切抜け出して天上に帰還していくのです。最後の肉体の死を通過してですが。すると地上の生きている自分の艱難、困難は違った意味で受け取るようになるのではないでしょうか。
使徒パウロは手紙の中で「霊の法則」といった。「神は霊である」とも書かれています。自分の体験をとおして、宗教で語られたきた道徳律などは、この霊の法則に沿うよう生きることの勧めであったことが理解されてくるのです。無論、それからずれてくると困難、苦難が生じてくるという、いわば僕ら神の似姿に創造された人間が地上の舞台で生きて行く上での霊の法則だったことが分かってくるのです。道徳律などは、行動の一般化が外面的肉的教科のためにありますが限界がある、それはそもそも、生まれは有機的解析、医学生理的分析である程度、調べられているものだからです。人間不平等論・・・、地上の肉的次元から見れば、あまりにも確かなことなのです。しかし、それで神は肉的優劣如何に拘わらず、全ての人に該当するということを示したのです。知識あるものがそのために誇らないため、肉的に劣るものを敢えて神は選ばれ示されたとあるとおりです。
◆この国の人々、誰でもに考えて欲しいのです。自分が死んだらどうなるのだろうか。自分の死の諸々の所作はそういう意味があるのだろうか、などなど・・・です。そこで、今一歩、高みに登って考えて欲しい。知力、体力で限界のある人間にそれを突き止めて、到達することができるのだろうか、と。・・・・できない、であればこそ、全てのしがらみを捨てて、宗教としてのイエスではなくその話されたその内容のことを学んで欲しい。キリストは、自分という”しがらみ”からも脱出せよと、促しているように書かれています。(地上を去るとき、自分の欠陥だらけの肉体は消滅していくが、霊は何処へ行ってしまうのか?) ここで注意は、何も盲信して自分の存在がすっからかんになれと言っているようなことではない。当時の則してイエスは、時代の人に分かる話をした訳だ。そのことも念頭にいれないと、若い人には一種の身も心も・・・と誘惑ともなるが、ここにも闘いがある、むしろ、神学はこの辺から生じて来たといっても言い。洗礼者ヨハネのように皮衣も着、野イナゴなど食べてこの今の国に、そんな人がいないように、当時はそれでも民衆は、おかしいと思うどころか、尊敬をもって神の言葉を聞きに集まったのだから・・ということも配慮しないといけない。神は生きていると言われるとおり時代、時代に語る中で聞く者は、言葉(それを祈る言葉と言ってもいい)を模索するのです。
◆確かに、僕らは、その自分で選択できない、この地上の誕生からも、その制限から困難を学んで最後にそれを捨てて、天上に帰還していくのです。しかし、不完全なままでは天上界があるとしてもそこでは窮屈だろう・・・ということで多くの人は、いずれ壊れるこの地球にまた戻って来てしまうのだ(それを生まれ変わりとも言うようだ。中には人類の進展教化のために戻ってくる人々もいる、)これが仏教の教えでもあるのです。衆生が少しでも死んでからもよりレベルアップした世界に、人生に、生まれ変わるために死んでからも長い長い旅をすることになっているのです。死んでからも精進ということでその旅に伴ってくれるのが真言宗であれば、空海さんその方であり(同行二人)、また諸々の諸仏ということになるようです。
◆僕の実家は、真言宗智山派なのですが、その宗派の方がどなたでも行う「智山勤行式」の冒頭は、『懺悔の文』から始まります。御自分の家の宗教のお経の中味を訳の分からないものとしてのありがたい呪文としてだけでなく、その意味を調べて欲しいのです。
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我昔より造るところの 諸々の悪業は 皆無始(ミナ、ムシ)の貧瞋癡(トンジンチ)に由る身語意從り(シンゴイヨリ)生ずる所なり
一切我今皆懺悔したてまつる
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この、寺の住職によると、「無始」という言葉は、キリスト教で言えば、原罪に該当するようだ。この国のいずこの仏教と言えども、肉体に引きずられる言葉、その肉体のもろもろの否定から始まっているようなのです。
◆キリスト者のこの地上での艱難、苦難はイエスが十字架に掛かられたという、それは、人間の罪を背負って苦しまれた、ということになるのです。信者には、自分の罪を担って苦しまれた ということになるのです。したがって、そのことを信じた者は、死んでからの精進の旅、そして地上に戻る生まれ変わりはなく、イエスの用意された永遠の住まいパラダイスに入れるのです。表題の「~個人的障害」とはこの自分の罪を自分の言葉で思い著し、イエスがその全ての解消のために十字架に掛かったのだと認めることなのです。
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イエスは言われた 「生きてわたしを信ずる者は死ぬことがない」。「わたしを見た者は、父を見たのである」。・・・Ω
◆僕がブログを書き始めてからの、キリスト教を知るときにどうしても道徳的判断である良心からのアピールが先観念として誰でもあるというその阻害。
天地創造の時、神が「人はわれわれと同じように永遠に生きるかもしれない」(旧約聖書:創世記)と危惧したことについて。
それは、エデンの園の中央の”命の木”と”善悪を知る木”のうち”善悪を知る木”の実を食べてはいけないと言われた事柄についての疑問につながる。”命の木”については、現代では驚くことに、人の遺伝子解明がなされて、クリスパーキャス9とう装置で人のゲノム編集までできるようになっている。遺伝子編集によって、この地上に誕生する前から優秀な人を生まれさせようとすれば、かなりの確立でそれが実現出来る世界になってきたということだ。 ・・・で、食べてしまったのは、善悪を知る木であった。
それから気になっていたこと、アダムはエバが蛇(悪魔)に唆され、神の約束を破り木の実を食べてしまったことに対して、エバを叱責しなかったのはどうしてなのか? それは、最初の人アダムには、まさに”善悪を知る”その判断基準がまだ備わっていなかったから ということになりますね、きっと。アダムの愛の対象とのみなろうとする現代の女性においても、アダムがこの辺の宗教談義に近い状況の中になると気をつけないと必ず破局に向かうから注意しないといけない。・・・これは余談。
◆詰まるところ、人や住む環境(国)や歴史や伝統、つまりその時代により、この地上にとって普遍的なその判断基準なる明確なものはない、ということになる。それは時代の進展により、キリスト教的に言えば、「天になるごとく地にもなさえせたまえ」と”主の祈り”にあるごとく、そのイエスの再来(再び地上に迎えになることになっています)に当たり、この地上の人が目には見えない「神の霊」と共に、壊滅させようとしている悪魔との闘いによって、漸次、光が勝って来たということなのだが、ご存じ悪魔は人そのものが、神と共にある事実を知り始め行き場が無くなってあがき始めて、世界中の人が、その惨状をフェイク(嘘)かどうかも含め知るようになってきたということだ。悪魔も光を装い来るからわかり難い。悪魔は、天地創造をも一任された優秀な天使の一人であったが、神の創造の力に嫉妬し、神の怒りを受けて堕天使となり地上に落とされ天上に帰れなくなってこの地上で、神の創造の業を破壊しようと活動を続けている・・・
◆ここで宗教どうのこうのという人世界の議論を越えて、そもそも、古来から言われた来た見えない世界がある、永遠がある、天国がある(涅槃がある)、キリストの父なる神がおられる、アラーがおられる、大日如来がおられる、阿弥陀仏がおられる・・・など いずれ、そのように人類が、求め、願い信じているその対象を不完全な僕らは物体として確かめようが無いけれど、信じて生きている人という生き物の”霊”(これ全然、薄気味悪いものとしてではなく)が、その事実が、知らしめられて来たということです。・・・ で、どうしてそれが、観念的とか、薄気味悪いとか(そもそも人は知らないことに、なおかつ自分の考えに他人の言葉が介入せんとする事柄に対しては自由束縛の障害としてすべて拒絶するように出来ている)で、いい加減な科学的なものではないと拒絶するのか。科学的、検証再現が第三者にも分かると示されないところが困難なところだが、全く人の定めて理解している宗教というもの抜きに、まずは、いかなる人にも該当する「霊の法則」があることを開示したのが、新約のイエスであると僕は信じている訳です。神学的には「世界の終わりの始まり」がイエスから起こったと言われる所以です。西暦2018年、実際には3年ほどずれがあるらしいが、ご存じのようにイエス誕生から2018年経過したということですね。
◆新しい時代、新しい人間とは、もっと見えない事実というか、そのリアルさというか、「人はなんで生きるか」(トルストイの書いたお話にこの題名があり、僕はとても好きな話・・・ ここではそうではなく・・・)という命題に、人そのものは何か(ここの底辺には、このブログを読まれてきた方には神は自分の似姿に人を創造されたとあるから人を知れば神を知ることにもなるだろうという措定があります)ということをどなたでも考えてもらって新しい時代になっていくのに備えて欲しい思いがするのです。
◆世の中はとても便利にもなり、といっても多くの国はその恩恵にまだ遠い国はあるが、人の機能の延長としての見る、聞く、思考する、移動する・・・などへの便利さの開発が技術として成り立ってきた訳です。しかも、いまや心の中の解明も同時に行われて来た訳です。それが、哲学であり、心理学であり つまり人とは何か、その集団とは、歴史とは、あるいは宗教も含めて・・・それに、科学、それには医学、衛生、環境 ・・・etc。 煎じ詰めれば、人類が平和に健康的で長生きし、しかも物質的に満たされなくともハッピーな気持ちで生きられるという世界を目指して来ているのです。しかし、・・・
◆僕ら人間が、つまり自分は確実にこの地上の生涯をおえるのですからということを、誰にでも知ってもらって、その土台を理解してから普段の生活をして欲しい・・・と説教じみたことから始めました。
そのために、全ての”しがらみ”を拭い去りつつ、闘いをしつつ人生を歩まねばなりません。最後は、自分の生まれてしまっては編集しなおすことができないゲノム(これを”自分のしがらみ”とみなします)を一切抜け出して天上に帰還していくのです。最後の肉体の死を通過してですが。すると地上の生きている自分の艱難、困難は違った意味で受け取るようになるのではないでしょうか。
使徒パウロは手紙の中で「霊の法則」といった。「神は霊である」とも書かれています。自分の体験をとおして、宗教で語られたきた道徳律などは、この霊の法則に沿うよう生きることの勧めであったことが理解されてくるのです。無論、それからずれてくると困難、苦難が生じてくるという、いわば僕ら神の似姿に創造された人間が地上の舞台で生きて行く上での霊の法則だったことが分かってくるのです。道徳律などは、行動の一般化が外面的肉的教科のためにありますが限界がある、それはそもそも、生まれは有機的解析、医学生理的分析である程度、調べられているものだからです。人間不平等論・・・、地上の肉的次元から見れば、あまりにも確かなことなのです。しかし、それで神は肉的優劣如何に拘わらず、全ての人に該当するということを示したのです。知識あるものがそのために誇らないため、肉的に劣るものを敢えて神は選ばれ示されたとあるとおりです。
◆この国の人々、誰でもに考えて欲しいのです。自分が死んだらどうなるのだろうか。自分の死の諸々の所作はそういう意味があるのだろうか、などなど・・・です。そこで、今一歩、高みに登って考えて欲しい。知力、体力で限界のある人間にそれを突き止めて、到達することができるのだろうか、と。・・・・できない、であればこそ、全てのしがらみを捨てて、宗教としてのイエスではなくその話されたその内容のことを学んで欲しい。キリストは、自分という”しがらみ”からも脱出せよと、促しているように書かれています。(地上を去るとき、自分の欠陥だらけの肉体は消滅していくが、霊は何処へ行ってしまうのか?) ここで注意は、何も盲信して自分の存在がすっからかんになれと言っているようなことではない。当時の則してイエスは、時代の人に分かる話をした訳だ。そのことも念頭にいれないと、若い人には一種の身も心も・・・と誘惑ともなるが、ここにも闘いがある、むしろ、神学はこの辺から生じて来たといっても言い。洗礼者ヨハネのように皮衣も着、野イナゴなど食べてこの今の国に、そんな人がいないように、当時はそれでも民衆は、おかしいと思うどころか、尊敬をもって神の言葉を聞きに集まったのだから・・ということも配慮しないといけない。神は生きていると言われるとおり時代、時代に語る中で聞く者は、言葉(それを祈る言葉と言ってもいい)を模索するのです。
◆確かに、僕らは、その自分で選択できない、この地上の誕生からも、その制限から困難を学んで最後にそれを捨てて、天上に帰還していくのです。しかし、不完全なままでは天上界があるとしてもそこでは窮屈だろう・・・ということで多くの人は、いずれ壊れるこの地球にまた戻って来てしまうのだ(それを生まれ変わりとも言うようだ。中には人類の進展教化のために戻ってくる人々もいる、)これが仏教の教えでもあるのです。衆生が少しでも死んでからもよりレベルアップした世界に、人生に、生まれ変わるために死んでからも長い長い旅をすることになっているのです。死んでからも精進ということでその旅に伴ってくれるのが真言宗であれば、空海さんその方であり(同行二人)、また諸々の諸仏ということになるようです。
◆僕の実家は、真言宗智山派なのですが、その宗派の方がどなたでも行う「智山勤行式」の冒頭は、『懺悔の文』から始まります。御自分の家の宗教のお経の中味を訳の分からないものとしてのありがたい呪文としてだけでなく、その意味を調べて欲しいのです。
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我昔より造るところの 諸々の悪業は 皆無始(ミナ、ムシ)の貧瞋癡(トンジンチ)に由る身語意從り(シンゴイヨリ)生ずる所なり
一切我今皆懺悔したてまつる
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この、寺の住職によると、「無始」という言葉は、キリスト教で言えば、原罪に該当するようだ。この国のいずこの仏教と言えども、肉体に引きずられる言葉、その肉体のもろもろの否定から始まっているようなのです。
◆キリスト者のこの地上での艱難、苦難はイエスが十字架に掛かられたという、それは、人間の罪を背負って苦しまれた、ということになるのです。信者には、自分の罪を担って苦しまれた ということになるのです。したがって、そのことを信じた者は、死んでからの精進の旅、そして地上に戻る生まれ変わりはなく、イエスの用意された永遠の住まいパラダイスに入れるのです。表題の「~個人的障害」とはこの自分の罪を自分の言葉で思い著し、イエスがその全ての解消のために十字架に掛かったのだと認めることなのです。
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イエスは言われた 「生きてわたしを信ずる者は死ぬことがない」。「わたしを見た者は、父を見たのである」。・・・Ω