marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(565回) まったく我らの身代わりとなって!:十字架上のイエスの言葉の解釈で問題となった言葉

2019-06-24 18:37:34 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(516回目) 神よ、どうしてなのか!

 「命に溢れてこの地に住む者はことごとく    主にひれ伏し  塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。  わたしの魂は必ず命を得  子孫は神に仕え  主のことを来たる......
 


◆「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給うや。」(文語 マルコ15:34)

 地上から自分の命が取られるというその時、病気や怪我などでという理由ではなく、全く無実の罪で、犯罪人の一人とされてその理不尽な死に方をしなければならなかったイエス。常識としておかしいだろうと普段の人は思う。なぜなら、彼イエスは神の子と呼ばれる方なのに!

◆イエスが自分が十字架に掛けられることを弟子達に話したときに「そんなことがあってはなりません。そんなことを言ってはなりません」とペトロと呼ばれる弟子はイエスに言った。しかし、イエスはペテロを(ペテロの中のサタンを)たしなめて、「下がれサタン、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われた とある。

◆この辺の会話は実は天上から来られたという方と、地上の人間とのクライマックスの会話なのだ!この辺に天国への狭き門が見えると思われる。彼イエスの死の意味を見いだす者は永遠の天国の門へ入り口が見えるであろうと僕は信ずる。旧約の天地創造の記事にすでに、蛇(サタン)は女から生まれた者(イエス)の踵を噛むが、彼(イエス)は蛇の頭を砕くであろうとの記事がすでに見られるからなのである。何のことやらさっぱりのこの記事が(無論、イエスとはキチンとは書かれていないけれど)天地創造からの壮大なドラマが展開されてきたのであると思わされてくる。無論、今もである。阿呆な僕らは分からないが天国への門は開かれているのであると。

◆そして、冒頭の言葉。詩編というものに先理解のない人は、なぜ神の子なのにこんな弱音を吐くのか、やっぱり人間の子か・・・と思うだろうからか、福音書でも先理解のない人々に読まれるであろう福音書にはこのイエスの叫びは箇所の記事は書かれていない。しかし、この詩編22の最後の内容は、先理解のあった使徒達には大変なインパクトだったろうと思われる。

◆彼は、地上のすべてのあらゆる苦しみを身に背負って、つまり最低の人間となった(彼は罪人の一人に数えられたとある)人々をも身におうて体現されて黄泉の国にまで下られた。死後の世界にまで行かれたとなれば、僕ら人間は神のひとり子の前には逃げ場がないということにはならないだろうか。それがどこぞの国においても全知全能の神が創造されて地上に生かされている人なのである。人びとはすべてのすべて(つまり肉にまつわりつき障害となった)自分という”しがらみ”をも捨てて、天上にかえって行かなければ永遠の世界には住めないのであるということになる。

◆しかし、この地上においては人が出来ない不完全さをその身に十字架に負われて、信ずる者は永遠の世界に入ることを保証されたのである、ということなのだ。天上においては彼を信じた者はキリストを着て、永遠の宴会に招かれるとある。この地上において自分の十字架がこの地上の堅い地面に建てられていると信じない者は、おそらく洪水に流されるであろうがその数は多い。

◆従って、表題の言葉は、決して人間的心情に理解する言葉ではない。イエスの死は僕らの肉的欠陥の補填なのだ。永遠の世界、聖書最後の黙示録には、初めの天と地は無くなったとある。つまり、この今ある継続されている初めの地上がなくなり永遠の世界となるということが書かれているのである。さて、僕らは必然的に生き物としての死を迎える。この地上の人生は、彼を信ずるか否かにすべてかかっているのだ。

◆「生きていて私を信ずる者は死ぬことはない。」とイエスは言われた。「あなたはこのことを信ずるか」彼は、いまも問い続けているのである。 ・・・ 


世界のベストセラーを読む(564回) 前回欠落コメント A・カミュの「異邦人」と 米谷みよ子の「過越の祭」について 

2019-06-24 13:12:24 | 日記
◆今日は雨模様、雨が降りそうでどんよりしている。からだもけだるくて何も考える気がおこらない。きっと寝不足のせいだろうと思う。僕の長年の肉体調査から言えば、なんとなくの意欲の湧いてこないその原因は、不眠にあると思い至ったのだ。・・・日常の僕らの思考と肉体の関係から言えば、まぁそんなところだろう・・・このように書き始められるかも知れない、誰でもが経験する事柄として。しかし、自殺したくなるとか、人を殺したくなるとかなどというところまではいかないけれど。 
 
◆「異邦人」・・・主人公ムルソーはアラビア人を殺したのは「太陽のせい」だと言う。死刑の判決を受け、司祭から懺悔の言葉を引き出そうとされるが、そんなことは人それぞれだろうと言い、自分は違うという。そこはアフリカのアルジェなのだ。暑くてすべてがめんどうくさくてどうでもよかったのだ。この小説の題名たるゆえんのクライマックス、それは死刑判決を受け、懺悔を求める司祭にたいして、死後のことなど個人の事だ、勝手にさせてくれ、俺の生き様なのだ、俺は俺として死ぬのだから自由ではないか・・・と。司祭の首根っこを捕まえて,いい加減にしろと追い出し、すっきりしたと主人公は満足するというところ・・・か。
 
◆「過越の祭」・・・1985年、この小説は芥川賞と新潮新人賞をもらっている。女性特有のといえば叱られるが、アメリカでユダヤ人の作家と結婚したのだが、障害を持った子どもが生まれ、夫の無理解とその育児にストレス。おまけに夫の親族の「過越の祭」という訳の分からん儀式に参席を促され,長々としたその儀式にとうとうぶち切れて、途中で夜の町へ抜けだし、清々とした気持ちに解放されるという話。
※小説には出てきませんが実のところ、この夫君は代表作「ハリーとトント」で、ハリウッドの著名な映画脚本家です。息子さんの名前はノアというそうです。彼女はこの本を英訳したとき肝心なところを(やはり)改訳されていたようです。 さて、・・・
 
◆これらの小説もすべて、特に宗教とは、人の心理とか、国の歴史を学ぼうと思えばその知識が共有化される現代となっては、後退した内容の小説かと思わされるけれど、僕にとっては、結局のところ、自分を含めた人を理解する、その伝統や風習、宗教を思う、環境も含めた時代、歴史とその人と同期して考えて見る、つまりは主人公は、自分がぶち切れるその原因について実際のところの他人と自分に関わるその事柄の先理解が不足していたというところに落ち着くのであった。 ・・・Ω