(写真の本については次回)◆批判めいたことを書く訳ではないけれど、僕が大江に惹かれる理由は、故郷の四国の山奥の村、自分の故郷への回帰がよく書かれること、それからで起こる一揆。これは幼少の時からよく聞かされたことからと彼は言う。少し、今から見ればとんでもないような過激な暴動が本当にあるのかというような小さな村で、いくら創作としてもと思ったものだったが、実はあの時代、万延元年(とは「安政の大獄」があった年だったかな?)日本のあちこちで起こったものだったというのは、かなり年をくってから知ったことだったし、全長2kmにも満たない街道沿いの僕の生まれた村の山手のでも似たようなことが起こっていたことだったということだ。それが先のブログ(途中で中断してるけど)『僕の生まれた小さな村の大きな話』につながっていくわけなのである。ただ、無理があるなと思わせられるのはサルトルの影響を受けすぎているなと、彼の小説を大脳皮質の訓練にしようと切り替えるのは、サルトルの影響を受けすぎていた時代があるなと。あまりに恣意的! 今ではあまりに頑張っても読みにくい。
◆僕は世界のベストセラーの確信に至るには、人を考える、それは自分という人を客観的に言語化するという思考経緯を経ることも必要だと思うと書いてきた。それは、どうしても人の欠陥、行き着くところ肉体の死に向かうからなのだ。だから、救済のないそれを示すことのできない僕らの生のプロセスはサルトルの小説「嘔吐」にもなる訳なのである。濁った沼の中からきれいな蓮の花が咲いてその上にお釈迦さんがおられても、沼の泥の中にも生物はいるでしょう、それに思いを致すということなのですね。むしろ、こちらの方が多数なのだから、沼の泥の中にも微生物もいるし、発見すれば有用なミネラルもあるかもしれないよということなのだ。・・・・キリストの神は天地を創造したから統べてを包括している。
◆世界のベストセラー(聖書)を読むにおいて、それを会得するなどということは生涯にわたるものなのであるけれど、一応内容を知識として(文面として)理解することはできるにも相当の時間を要するものであるが、その会得するということの作業においては、どうしても必要な思考経路を経るであろうその自己省察が実存主義というものではないかと思っている。・・・それは「罪」の問題である。これさえも、自分のこととしては語られないで、神の摂理からの「的外れ」であると説明されるが、自己という肉体を省察し、僕らは必然的に消滅するのであるから、その袋小路の中での行き着くところの救済は、イエスの十字架しかないであろうというのが僕の見解なのである。過去、永遠の命を宣教し、命を捧げたのはその確信を得とくしたからなのであった。 ・・・ 続く