◆僕は、野呂神学にすべて賛成というわけではないのだが、この国でそして神学を自分の言葉で語ろうとする場合は、神学的には他の宗教も語らなくてはいけないというのが彼の後期の論である。僕はこれに大いに賛成なのだが、これも大いに反駁にあうだろう内容だ。
◆どうしてこの国の宗教や歴史を調べ(まさにそれが隠された歴史だったと言われればそれまでなのだが)伝道しようとしないのだろう。毎年祝うクリスマスなどはその土地の冬至の日などは、キリスト誕生をその土地に定着させようとする努力でクリスマスになったのだとか、第一あのパウロがギリシャ人が「知られざる神に」とまで刻まれ道端に置かていた石を見て、「信仰深い皆さんに本当の神を知らせましょう」と頑張ったにも関わらず、この国においては旧約態然とした他の宗教を優先的に排他するのが正しいことだといわんばかりの牧師さんがいるのには、頭を抱える。何が事実であり、何を伝道するのか、時代は下り、哲学、心理学、社会学・・・あらゆる学問とそして、世界の実態が真の神を求め、かなり高い次元で「あくまで個人」の善(ここに真の神が求められてくるだろう)を求め続けなければかなり危うい時代になりつつあるのを感ずるのにも関わらず。(カミュはあの”ペスト”という小説の中で、この事態に何で対抗するのかという問いに、”誠実” であると主人公に言わせている)。そして、その中心には、やはりキリストの十字架があると感ぜざるを得ないにも関わらず、神大6年間くらいの知識から抜け出せないのでは・・・。数年前、「ユダの福音」(荒井献)という本が出されてましたね、というと、あれはキリスト教ではないと若い牧師に言われたことがあった。・・・おい、おい である。
◆前置きがながくなったが第9章の語るところはこうである。人間が生きているリアリティーは「汝・我」の関係ばかりでなく他の次元、他の宗教についても神学は語ることができるし語るべきなのである。そうした自由によってさまざまな宗教を試した上で、なおもキリスト教が自分の中心にあるとすればそのような信仰こそ本物であると(p-339)。・・・これは真剣な自由の中で各自が実存的に格闘していくしかない問題でもあろうと。・・・神学者:野呂芳男「民衆の神 キリスト(実存論的神学)」、時代を経た論文集ではあるが今後も何度か読み返すだろう。