marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(627回) (その8)作家 大江健三郎を読む

2020-02-15 14:40:10 | 日記

◆先のブログ掲載の「新しい文学のために」(岩波新書1)は面白いというか小説と違い読みやすい。この評論を読んでから、彼の小説を読むといいかと思うが何分にも、この評論は彼の小説の途絶え始めた後に書かれたものだ。その中にこういう文書があった。

「自分はどうしてもこの作品には入っていけない、と感じることがある。それは読み手として書き手の戦略を受けとめられない、ということなのである。新しい書き手は新しい戦略を持つ。彼が新しいのは、すでにある文学の戦略においては見られなかった、独自の戦略を持つからである。新しい戦略は、当然のことに旧陣営から抵抗を受けよう。その障害を乗り越え、彼の新しい戦略に進んで共感してくれる読み手を見出す時、新しい書き手と新しい読み手の間に文学表現の言葉の、新しい「異化」の世界が広がる。その力によってのみ、文学状況は革新されるのである。(p65 5「異化」から戦略化・文体化へ)

◆「この作品には入っていけない」と彼は書いているが、僕が思うにほとんどの人は、彼の作品を読み始めたときにそう思うのではないだろうか。あの評論家小林秀雄も「2ページも読んで君のは読むのをやめたよ」と彼に語っているし、江藤淳も酷評していた。つまり大江にとっては彼らは旧陣営なのだということになる。

◆それであれば、大江を読む僕らは「異化」の戦略に共感するかといえば、少なくとも僕は2000年前に答えが出ている事柄には、その壁を乗り越えるのにも人は難しいのだから強いて簡単に言語化することに対しては拒絶したいと思う。実存は人間自らを見つめなおし、言葉化してありのままを見つめるのはいいが、それを踏み越えると自己疎外が起こり、人の間が分部品としての(無生物)としての分析、解析が進んでいるのである。すべては人の五感の延長と合理性、有効効果で世界は動き、人が神たらんとしていく世界化なのである。

◆神が人を創造したのであって、その逆ではないのである。人のあり様の言語化は、腐敗と朽ち行く物としての姿のみであろうし、それが「罪」の認識に至るものであることを僕は願うのである。この「異化」は『神は「霊」である』という言葉の方向にいかないと疎外感ばかりにの人の群れとなるばかりだろう。使途パウロは手紙でこう述べる「予言の力、あらゆる知識、山を動かすほどの信仰があっても、<愛>がなければ<無>に等しい」と。不条理の世界に、神をひたすら求め喘いでいる人間、この世にある不条理。僕はどうしてもやはり「イエスの十字架」という一点に向かわざるを得ないと思うのだ。・・・Ω