22歳の時の写真と言われる。将来の夢や希望や人生の悲哀なども微塵もないと考えられる自分の可能性に向かって夢を持つ、人生で一番、輝かしい、美しい時間ではないだろうか。男子諸君、女性を見る目は、この時までだ!永遠のアイドル(偶像)という幻想の美しさ。安吾も悩んだ。初めのアダムも悩んだ。”知る”ということは、幻想が壊れるとき。ポール・エリアールの詩を思い出した。(おいおい、大丈夫か?・・・という具合に、若い男のロミオなら誰でもジュリエット思う)。何からの束縛もない未来に希望を持っている(ように見える)時が一番、美しい。
川端康成から持ってる美貌で女優にでもなったらどうか、と言われたとの記事がある。秋田には芥川賞をとった女流作家もいるのだが、顔まで知らない。その作品は知っているが、顔を知らない。探せばあるのだろうが。けれど、美人はとくだねぇ。作品内容を知らんでも、美人さんだと目から入る印象は永遠に残るねぇ。
このように永遠にというか、人々から忘れられない人になっている。近くの高校の男子たちが全体のレイアウトを再配置したと紹介があった。あぁ、若者たち、君たちの居たこの田舎の町にもこんな美人さんが居たんだ、との記憶は生涯忘れないだろうな。
五城目は市内から北の田舎ですが是非、いらしてください。無料で入れます。古来かられ歴史のある朝市も開かれます。
安吾から送られた本や手紙や葉書が展示。無論、もらった方の展示だから津世子が安吾に返事を書いたかどうかの痕跡も見当たらない。それらを暗示するものが微塵も見当たらないので、彼女自身、文学仲間に噂されるのは迷惑ではなかっただろうが、個人的嗜好としては、内心迷惑だと思っていたりしてね。きっと、先に書いたけど、作家の写真で安吾が、書き損じの原稿を周囲に散らかし、丸眼鏡をかけてシャツ一枚で煩悶している姿は、普段の考えにも何等か反映されているのだろうから、志賀直哉を尊敬し机の前には小説の神様と言われた彼の写真も貼られていたという津世子にしてみれば、根本的なところでは安吾とは、相いれなかったんと違うかな。けれど彼女の美貌もあって安吾から片思いを寄せられていたという、ささやかなドラマは、このように永久の記録となっている。
先のブログで、娘が「幸うすく」と安吾にしたためた、二人でならんだお母さんの写真も。お母さんも鼻筋がとおって美人さんである。・・・・
ここまで書いて、何故、秋田美人といわれるのかなどとあらぬ方向に思いが湧いて来た。
話がとりとめなくなりそうなので、人生で一番美しい時が、偶像であろうと、幻想であろうと永遠に持てることを願って終わることにします。・・・