このくそ暑い今日の日、短パンひとつで二階の本を整理していたら坂口安吾の「堕落論」の文庫が出て来た。なぜに彼の本があるのか。書き損じの原稿を丸めて周辺に沢山ちらかし、丸眼鏡をかけ飯台の前で頭を掻きむしりながら煩悶している安吾の写真を見てから、どうも僕の心情とはまったく違う作家だと思っていたので。彼の本は買った記憶がないが、堕落という表題に引かれたのだろう。栞が挟まれた箇所を見ると・・・
”戯作者文学論”という項目の7月14日(晴)と15日(晴)に津田津世子のことが書かれていた。その日も猛暑で水風呂に何度も入った、という記事から始まっていた。
僕の田舎の山手に、ひそやかな誰も来ない川の流れる避暑地にいく途中や、五月には山菜取りの途中に昼食に立ち寄る五城目町の五城館というレストランの中に矢田津世子文学記念館が併設されている。若い時の写真で秋田美人である。そこには坂口安吾からの葉書も展示されている。・・・文庫本の安吾のその個所を読んでみる。(素子という名前は、安吾が自分の作中の女の名。)
*****
◆7月14日(晴)・・・この素子に私は、はっきり言ってしまおう。矢田津世子を考えていたのだ。この人と私は恋こがれ、愛し合っていたが、とうとう結婚もせず、肉体の関係もなく、恋こがれながら、逃げあったり、離れることを急いだり、まあ、いいや。だから、私は矢田津世子の肉体などは知らない。だから、私は、私の知らない矢田津世子を創作しようと考えているのだ。私の知らない矢田津世子、それは私の知らない私自身と同様にたいせつなのだと思うだけ。私自身の発見と全く同じことだ。私はしかし、ひどく不安になっている。どうも荷が重すぎた。私は素子が恋をするような気がするのだが、それを書けるかどうか、私は谷村の方を主人公にして、それですませたい。私は素子がバカな男と恋をするような気がして、どうにも、いやだ。こんなことが気にかかるというのは、いけないことだと考えている。
◆7月15日(晴)・・・昨日、私は、素子は矢田津世子だと言った。これは言い過ぎのようだ。やっぱり素子は素子なのだ。手を休めるとき、あの人を思い出す、とても苦しい。素子はあまり女体のもろさ弱さみにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にはならないのではないか、と書いた。あの人の死んだ通知の印刷したハガキをもらったとき、まだ、お母さんが生きていられるのがわかったけれども、津世子は「幸うすく」死んだ、という一句が、私はまったく、やるせなくて、参った。お母さんは死んだ娘が幸うすく、と考えるとき、いつも私を考えているに相違ない。私はもちろん、葬式にも、お悔みにも、墓参にも行かなかった。
今から10年前、私が31のとき、ともかく私たちは、たった一度、接吻ということした。あなたは死んだ人と同様であった。私も、あなたを抱きしめる力など全くなった。ただ、遠くから、死んだような頬を当てあったようなものだ。毎日毎日、会わない時間、別れたあとが、悶えて死にそうな苦しさだったのに、私はあなたと接吻したのは、あなたと恋をしてから5年目だった。その晩、私はあなたに絶縁の手紙を書いた。私はあなたの肉体を考えるのが恐ろしい、あなたに肉体がなければよいと思われて仕方がない、私の肉体も忘れて欲しい。そして、もう、私はあなたに二度と会いたくない。誰とでも結婚してください。私はあなたに疲れた。私は私の中で別のあなたを育てるから。返事もくださるな、さようなら、さようなら、そのさようならは、ほんとにアデューという意味だった。そして、それから私はあなたに会ったことがない。・・・・私はあなたが死んだとき、私はやるせなかったが、爽やかだった。あなたの肉体が地上にないのだと考えて、青空のような、澄んだ思いもありました。・・・・
私は筆を休めるたび、あなたを思い出すと、とても苦しい。素子の肉体は、どうしても、汚い肉欲の肉体になってしまう。素子は女体の汚さ、もろさ、弱さ、みにくさを知りすぎているので、客間で語る言葉にならないのではないか、と書いて、筆を投げ出したとき、私はあなたの顔を切なく思い続けていた。あなたは時々、横を向いて、黙ってしまうことがあった。あのとき、あなたは何を考えていたのですか。
素子は矢田津世子ではいけない。素子は素子でなければいけない。素子は素子だ。どうしても、私は、それを、信じなければならない。私は4枚書いた。筆を投げ出してしまう方が多いのだ。
*****
◇注釈:矢田津世子・・・明治40年ー昭和19年(1907-1944)。小説家。秋田県南秋田郡五城目町生。私立麹町高女卒業。『日暦』『人民文庫』の同人となり、「神楽坂」が『人民文庫』創刊号に載って出世作となった。代表作に「茶粥の記」「家庭教師」などがあり、『文学界』『改造』などに作品を発表。『中央公論』から原稿の依頼があった時には、もう肺患がつのって執筆不可能となり、38歳で死んだ。彼女は凝り屋で、繊細な感情と技巧を持ち、文芸復興の掛け声の高かった時勢に、市井を描いて客観的な作風を志した。戦争中『婦人倶楽部』の特派員として、大陸にも出かけている。坂口安吾は片思いで彼女に恋をし、悶々とした一時期を持っている。
今度、田舎にいったら又、立ち寄ってみよう。・・・